ある少女の回想
私は今、初めて海を見た。
いつの間にかそばに居たシエラと名乗る年上の女性がそう言ったから。
「もともとは河だったの。でもある時期を境に死者が増えて小舟では間に合わなくなったのよ」
とそんな事を言いながら、彼女は霧の奥に手を振った。
霧の奥からは大きな鉄の塊に乗った人たちがシエラに対して、笑顔いっぱいの表情で手を振り返していた。
「あれは船。たくさんの死者を乗せて目的地へと運ぶのがお仕事。貴女のお仕事は?」
「守護者……だった?」
「ふぅん。何の守護をしていたのかしら」
「背の高い大人が2人、肩車をしても高い石? を護っていた」
「貴女は知らないようだけれども、世界にはいろんな場所に似たような石があるわ。だから、具体的にどんなところで護っていた石なのかしら」
「山のてっぺんに……皆には凄く寒くて……私には心地よいのに」
ふと、胸が締め付けられた。少し、思い出した。
「大霊石……そう、アリラト様を狙う、コウモリや鳥の羽を生やした者たちから護っていた」
「まぁ! アリラトお祖母様を!」
アリラト様を『お祖母様』と呼ぶシエラを見た瞬間、失礼極まりない呼び名を使う、胡散臭い中年男性の姿がフラッシュバックした。何故?
「アリラトお祖母様が宿った大霊石。その価値を知る者だったら、何が何でも手に入れようとするでしょう」
「だから守り神の私と麓の皆で、ずっと長い間、アリラト様を護って来た」
「あら? でも貴女はここに居るわ。お役目は次の人に任せたのかしら」
「何の話をしている?」
「ここはサンズノカワ。生者と死者の境界線。この船に乗れば、貴女は死を認めたことになり、生者の頃の役割を志半ばで終えたことになるわ」
「それは困る!」
私はこの場所から離れようとしたが、不思議と足が固定されたように動かなかった。
どうして? という疑問にシエラが応えた。
「生者としての貴女は今、瀕死なの。大霊石の欠片が心臓に突き刺さった状態で床に伏しているわ」
「もう手遅れではないか」
「そう簡単に諦めないで少しでも何か思い出して!」
「何故?」
「貴女が死を認めた瞬間、お兄様の存在が一気に危うくなるの。お願い! どうして貴女は持ち場を離れて、お兄様の住み処へと移動したの?」
そう言われれば、意識を完全に失う一時、アリラト様が聞いてきた。
心残りはあるかと。その時、あの胡散臭い中年男性が思い浮かび、《ある》と応えた。
爆発が起きて、痛みが走り、光に包まれて、それが収まると見知らぬ部屋の中にいた。
その時はもう目は見えていなかったが嗅覚が、あの男の住み処だと教えてくれた。
ホッとしたのも束の間、先住民の犬たちに囲まれたが、何故か襲われなかった。しかし、私の扱いに戸惑っている感じは伝わった。
私に胸の痛みさえなければ、もう少し分かり合えたかもしれない。でも、あの子たちが来た。
おそらく私と同じような手段で。
犬たちは一匹を残して、主の住み処を守るために飛び出して帰ってこなかった……
残る一匹もあの子の力の前に屈したけれども、立ち上がった時に反旗を翻した。それがアリラト様に気に入られて、最後の一匹はあの子の使役から逃れられた。
膠着状態を経て、あの人は来た。
私の名を呼んだ。名を持たなかった私にあなたが名付けた名を。
「ベルフェゴール……」
「それは貶められた際に付けられた、仮名みたいなもの。本名を教えてもらっていないの?」
私は首を横に振った。
シエラは一瞬気落ちしたが、次の瞬間、驚きに満ちた表情を見せた。その理由はシエラが答えた。
「アリラトお祖母様!」
「アシェラトよ、ペオルの妹よ、久しぶりじゃの」
シエラが親しみを込めて、アリラト様と抱き合った。
「ペオル?」
「おぉ、そうじゃ。ペオル・ウブル。本名じゃの。あやつが本名を教えない理由は覚悟を求めるからじゃ」
「覚悟とは?」
「これから先、あやつと共に歩む覚悟じゃ。あやつは敵が多い。しかもあやつと手を組んだとしても実入りが見込めぬから味方になる物好きは皆無。じゃからあやつは神の名を隠して、貶められた悪魔の名の方をお前に教えたのじゃろう」
「そんな事が……」
納得したけれど、何だか今、唐竹割りをしたい気分になった。
「モナ、我が愛しき娘よ、聞こう。お主はこれから先、どうしたい?」
「どう……とは?」
「生きるのを諦めてこの船に乗るか、覚悟を決めて目覚めるかじゃ」
「目覚めます。まずは唐竹割りをしたいので」
そう言って、私はシュッと音のする唐竹割りを披露した。
そんな私に、二人は固まっていた。
(のぅ、アシェラトよ、アレは何だか痛そうじゃが、どうじゃ)
(目覚めて早々、頭に大きなタンコブが出来るでしょうね、お兄様)
アリラト様は腹をよじらせるほど笑いこんでから、真顔に戻った。
「その覚悟は固いかのぅ」
「もうこれ以上、親しい人を悲しませたりはしない」
「……そうか。ならばワシからは名を継ぐ事を認めよう。モナ・アリラト、今日からそう名乗るといい」
ありがとう、とお礼を言うよりも私はアリラト様と抱き合った。
言葉にならない喜びと同時にあふれる涙でアリラト様の衣服を汚してしまった。
アリラト様は構わず、私の頭を優しく撫でてくれた。暖かみを感じた。
「モナよ、別れの時間じゃ。涙を拭って、ワシを安心させてくれ」
アリラト様がそう仰ると同時に私の身体が淡く光りはじめた。
シエラが言うには、ペオルの名を知った時点から、私の生存が確定したのだと。
私ははしたないけれども衣服のすそで涙を拭い、二人に笑顔を送った。




