Sky Fish & Schrödinger's cat
夏祭りの日。妹は祖母からもらった浴衣を着ていた。
和太鼓を叩く祭囃子の音が聞こえてくる。午後の七時を回ればすっかり陽も落ちてしまったけれど、家から少し離れたところの河川敷はふわりと明るい。
「あ、きんぎょすくい」
「やってく?」
足を止めたのを見て尋ねると、金髪妹はすこし考えこんだ。
路面の左右には、緑葉を伸ばした桜の樹に提灯が下がる。ならぶ夜店も熱と光を発していて、道行く人はいつにも増して賑やかだった。
「んー、死んじゃうとさびしいから。やめとく」
昔を思いだすように、小声でそっとささやいた。隣に立つ妹は、目の前で泳ぐひらひらした生き物よりも、ほのかに淡い色の浴衣を着ている。
「行こ、おにい」
こっちを振り返ると、かんざしで留めた金色の髪がすこし揺れる。繋いだ手に軽く力をこめて僕らは進んだ。カラン、コロン。涼やかな足音が耳に心地良いなと思う。
「……んーーーっ」
妹が息を呑んで細目になっていた。
身体を前にのめり出して狙うのは、射的場の台のうえに並ぶ景品だった。
「てりゃ!」
射的銃の引き金をひく。圧縮されたガスに押し出されて、弾丸用のコルクがすぽんと飛んだ。
ぺしっ。変身ポーズを取るビニール人形が前後に揺れる。もう一息で倒れるかなというところで、全身タイツのヒーローは維持を見せるように持ち直した。
「んー、もういっかいっ!」
「どうぞ、三百円ね。さっきと同じで弾は三発分だよ」
「おにい」
「ダメ。どう見てもアレは原価三百円を超えてない」
「そーいうん言わんでええから」
妹が怒るものの、だけど三百円あれば鶏肉の特売価格の明日はこれだけ、と言いかけると、きゅっとつま先を踏まれた。
「ばか」
「下駄は痛いって」
そんなやりとりをする僕たちを見て、叔父に似た射的屋のおっちゃんにも笑われる。
「いっちょ彼女にええとこ見せてやったらどうや? 百円おまけしとくで」
彼女じゃないです、妹です。
訂正したらもう一歩踏まれそうだったので、おとなしく二百円を払って玩具の銃を受けとった。妹と同じように身を乗り出して人形を狙う。
引き金をひけば、ぽすん、と軽い音がした。
「おっ」
「あ、やったぁ!」
正義のヒーローは、コルク弾のヘッドショットを受けて、ぱたん、と倒れた。
*
まもなく花火大会をはじめます。というアナウンスがやってきて、僕たちは河原の方に移動した。用意しておいた小型の圧縮式シートを広げて座り、花火が打ちあがるのを待つ。
「おにい、口開けて」
「ん」
夜店で買った「たこ焼き」。まだ湯気のあがるひとつを爪楊枝に刺して、それを僕の口元に持ってくる。
「あーんして♪」
「……」
僕はそれを見て、自分の妹ながら、なんてベタな。とか思った。差し向けられた掌を両手で掴んで、しっかり逃げられないようにしてから一口で頬張った。
「あふっ、あふ、ふぁ!? あふっ!」
当然ながら、中身はしっとり熱かった。せめて少しでも外気を取り込もうと半端に口を開けたり閉じたりして、芸を仕込まれたオットセイの様な羽目になった。なんとか飲みこむ。
「あちち、――あれ、どうしたの?」
「……な、なんで……」
「うん?」
隣に座った妹が、手を差し伸べたままの格好で、かちょん、と固まっていた。
「ウチの手、なんで、ぎゅってしたん……?」
「いや、ほら。君の十八番じゃん。相手に一口食べさせると思わせて、ひょいって自分の口元に運ぶという」
「バ、バカやないん!? 何年前の話よそれ!」
「今年の話。正確には百二十四日前。夕飯のエビフライでやられた」
「キモっ! おにいキモっ! なんでそんなんいちいち覚えとるんよバカぁ!」
「無駄に記憶力がいいのが、唯一の取り柄だから」
「はやく忘れてよぅ!」
「そう言われても。あ、たこ焼き、もう一個もらえる?」
「草でも食ってろ」
ぺっ、と吐き捨てるように言われて、二つ目のたこ焼きを刺して、食べた。
*
――むかし、ひたすら『生きもの図鑑』を開いていた時期がある。
僕が六歳、妹が五歳の時に出かけた縁日のお祭りで、金魚すくいをして捕まえた一匹の金魚が四年後にお腹を上向きにして死んでしまったのだ。
そして、その日は〝ループ〟が起きる一日である事を、僕たちは予感していた。
『 ねぇ、おにいちゃん。ゆらちゃん、たすけて 』
〝ゆらちゃん〟というのは、妹がつけた金魚の名前だった。しっぽがゆらゆらしてるから。というのが名前の由来だった。
繰り返される〝その日〟、妹と二人で出来る限りのことをした。
週末であった事も幸いして、ペットショップに売ってある金魚用のご飯や栄養剤を各種買い占めたり、金魚を診てもらえる獣医のところに駆け込んで薬をもらったり、図書館に通って魚の病気や寿命の事を調べまわったりした。自分たちで『病院食』をゆらちゃんの為に作ったこともある。
そして僕たちは〝ゆらちゃん〟の死を五回体験した。
四回は〝その日〟に起きたことだった。だけど五日目のループの夜、僕たちの前には、弱りながらもかろうじて、まだ生きている〝ゆらちゃん〟を見た。
僕たちは喜んだ。だけどすぐに気がついた。
このまま翌日になったら、翌日はループしない。
ループする頻度は落ちていた。毎日同じ日が繰り返されることはなく、次のループが起きるには最低でも三日は必要だった。
その三日、あるいはそれ以上の間。水槽の向こうにたゆたう一匹の金魚が、同じ様に今日を生き永らえてくれるとは、子供心にも思えなかった。
僕たちは怖くなった。
それまで当たり前だった〝次の日〟に進むことが、はじめて怖いと思った。
家で飼ってる金魚を助けたい。
それだけを思って繰り返した。でも、正しかったんだろうか。
――正しさを証明する方法はあった。
永遠に〝その日〟を繰りかえせばいい。金魚が死なずに済む〝要素〟は分かっているのだから。僕たちは、これから未来永劫、その手順を繰り返せば良かった。
*
夜空にたくさんの花が咲いて、消えていく。
もっともシンプルな平割から、小さな華の詰まった千輪まで打ちあがり、世界の空をカラフルに彩った。それから間をおいて、今度は趣向を変えた花火が打ちあがる。
ウサギやカメといった動物から、トランプの四色マーク、それからメッセージを込めた花火まで。職人の技がたっぷり詰まった花火芸が、夏の夜空を彩った。そして忘れられない記憶を呼びおこす花火もまた、一輪咲いた。
「〝ゆらちゃん〟」
赤い、金魚の花火が、空に咲いて、還る。
シートの上に置いた手に、重なるように妹が乗ってきた。
「……覚えとる?」
「もちろん、覚えてるよ」
頷いた。
「あの日、おにい、初めて言うたよね」
「え、何を?」
「〝キスしよう〟って。自分から」
フリーズした。頭に血が昇って、ちょっと嫌な汗がじわじわ滲む。
「ウチ、イヤって言うたのに。いっぱい泣いて、どうしてそんなこと言うんよって怒ったのに。おにい、ウチのこと無理やり抑えつけて、壁にどんってして……」
「いやいやいや、ちょっと待って。その解釈はおかしい」
「どっか違うてる? どうでもええ事は覚えとるのに、肝心の事は忘れとるんね」
「いや、大筋は間違ってない……けどさ」
「ゆらちゃん、おにいのせいで、死んだんよ。〝明日〟の朝に亡くなっとった」
「……そうだね」
僕たちの金魚は、僕たちの記憶では五回死んだ。けれど土に埋められて還ったのは、最後の一回だけだった。手の甲に、妹の爪が突き刺さった。
「ウチらがやったことは、間違いやったん?」
「どっちだろうね」
「わからんの?」
「わからんよ」
今になっても分からない。生命は必ず死に至る、という事が正しければ、その正しさを捨てることも、僕たちには可能だった。
あの日、僕たちには無限の解答が存在した。
僕と妹に与えられたのは、見えない箱の中、毒ガスに晒される黒猫ではなく、透明な鉢の中、浄化された水中を漂う金魚だった。
――妹はその金魚を生かし、僕が殺した。
答えはなくても事実はある。それは何ら間違いではない。
「僕はさ、金魚じゃなくて、君を選んだんだろうね。最初から」
たすけて。と言われたから。悲しそうな顔を見たくなかったから。
「無条件で君を選択したんだよ」
「ふぅん。そう。……これからも?」
「これからも。そういう事はたくさんあるよ。きっと」
「…………ばか……」
爪の勢いが弱まった。若干、ひりひりすると思いながら、言葉を足す。
「うん。そうだよね。一般的な兄妹って、そういうもんだと思うんだよね」
「……一般的?」
「うん。一般的。――あ、痛っ、痛いって、いたたたたっ!」
めっちゃ抓られた。なんでだ。
「ウチら、一般的なん? 本当にそう思うてるん?」
「そ、そういう認識はあるけど……違うの?」
「帰る」
「……え、あ、わかった。まだ花火残ってるけど、そうしようか」
どうせなら最後まで見たかったな、と思って立ちあがると、背中を蹴られた。
「しね。しんでまえ。今すぐに〝ゆらちゃん〟の代わりに爆発しろ」
「君、浴衣着てるんだから、そんなに足あげたら帯ずれるよ」
「なんなん!? おにいってばほんと、なに考えとん!?」
「いや、だから、君のことを考えてるってば」
言った直後に鉄拳が飛んできた。ぽふっ、と射的のコルクよりも頼りないぐーで、ぽふっ、ぽふっと殴ったあとで、身体がより添ってくる。
「もっかい」
「もう一回?」
「もっかい、あの日とおんなじ事言うてくれたら、許すんよ……」
「キスしよう?」
「あっさり言うなばかぁ!」
どうしろと。ぽふぽふ殴られてたら、なんか周りから「すげぇバカップルがおる、ひくわー」っていう囁きが聞こえてきた。それは違うよ。妹はこう見えてすごく頭が良いんだよ、と胸のうちでフォローを返した。




