禍のもと
和州の高僧に、身の上話を聞く機会があった。
今では有徳として知られるこの仁だが、仏法にも学問にも、かつてはまるで関心がなかったそうである。
門前の小僧すら習わぬ経を読むものであるが、僧門に暮しつつ、彼は何ひとつ学ぶ気がなかったのだ。まさしく馬の耳に念仏である。
そうしてある時、師僧に不勉強と不信心を咎められ、夜を徹しての読経を命じられた。
当然ながら意欲はなかった。しかし、不定期に様子を見に来る同輩に見とがめられればまたうるさい。体裁を取り繕うべく、もごもごと口の中で適当を唱えていると、本堂の床に奇妙なものがあるのに気づいた。
それは最初、燈明が床面に描く陰影と思えた。
が、すぐに違うとわかった。
床板とは異色、肌色をしたそれは、禿頭のてっぺんであったのだ。
何故そうと知れたかと言えば、彼が適当な経を唱えるにつれ、剃髪した僧の頭部が浮上してきたからである。
小さな陰影としか見えなかったものは、じりじりと床をすり抜け明確な突起となった。やがて額までもがせり出して、今では炯々と光る両目までが見えていてきる。
流石に恐ろしくなり、彼は懸命に読経した。妖怪変化が仏力にて去ることを願ったのだ。
果たして、それは功を奏した。
正しく経を誦すうちは、怪僧の浮上は停止した。
が、少しでも読み違えると、途端にまたせり上がりを開始される。驚いて声を止めても同じだった。
脂汗をかきながら読経を続けるうち、気づけば払暁の光が差し込み始める。
腰の辺りまで床から抜け出ていた僧は、
「おまえなら、もっと誤ると思ったになあ」
歯を剥いて無念げに笑い、溶けるように消えた。
以来彼は性根を入れかえ、勤行に励むようになったとのことである。
「なるほど、それは恐ろしい。しかしありがたいものでもありますな。手前のところにも出てくれれば、もっと熱心に経文も覚えましょうに」
訓話であろうと、聞き終えて軽く答えた。
その追従に、しかし高僧は目を瞠り、
「迂闊を申されましたな。今のこと、聞かれましたぞ」
首を振りながら言って、それきり口を開かなかった。




