微笑みの中身
出逢いなんて、忘れてしまった。彼はとても小さかったし、彼の母親になってくれた女は、その時の話を繰り返す様な事はしなかった。
けれど、忘却のカーテンからチラリと見える記憶の断片は、ぶきっちょに優しい声を出して、彼に彼女との始まりを忘れ去らせる事が無いのだった。
「イイデスカ。ワタシハ、アナタノオカアサン、デス」
彼に解る言葉で、彼女はそう言った。
そう言われて、彼は泣いてしまった。
悲しかったし、胸の中が焼ける様に痛かった。
頭の中は否定を否定と解らないままに、否定で一杯だった。
何故かと言えば、女は異形だった。彼を抱こうとする腕は、背中から左右三本ずつ胴を包む様に生えていたし、脚は二本だけだったけれど、棘のある鱗が覆っていた。長く黒い髪から覗く小さな顔は、美しい均衡をとっていたが人間とは少し違った。特に特徴的な白目の無い瞳の中では、小さな星が幾つも瞬き、瞬きまでの間に二つ流れ星が流れていた。
「こわい」
「オカアサンナノデ、コワクナイデス」
「お母さんじゃない」
「オカアサンデス」
「イヤだ。助けて!」
彼は助けを求める声を上げながら、彼女の傍から駆け出した。
周囲は見慣れない風景で溢れていた。けれど、どうして見慣れないのか、彼には分からなかった。
柔らかく細かい砂が一面に続いている地面を水が不規則に舐めて行き、泡の細かく弾ける音に満ちている。青い天には明るい球体が浮いて、それは彼の肌をチクチクと光でくすぐっていた。
駆けながら、膜の様に張り付いては呆気無く千切れて後ろへ流れて行く風を感じた。気の無い圧力へ身体を押し込める事に没頭しながら、彼は思う。
ああ……きれい。
目に飛び込んで来る色彩が目に痛くて、それでも見たくて、彼は見る。瞬きするごとに、世界を胸に落とし込みながら彼は叫んだ。
「ここはどこ!」
「どこまで続いているの!」
息が切れて、彼は立ち止まる。彼を囲むものから、圧力と開放感両方を同時に感じると、その容量に肌が泡立った。
駄目だ、生きていけない、と彼は感じた。膝を折る。柔らかくて、さらさらとした微かな痛みが膝をよそよそしく覆った。
天から降って来る光は優しいけれど、その内自分をジリジリ枯らすだろう、と彼は思った。実際、喉が渇いていた。
だれか。僕、一人では無理だ。
天を仰いだ彼の幼い顔に、ふわりと影が射す。光が遮られ、彼は恐る恐る影を見る。
影の中で、二つの小さな星空がジッと彼を見つめていた。星空に表情があるなんて知らなかった。訴えられたのは懇願だった。
「オカアサンヲ、シマス」
「僕、怖い」
「ダイジョウブ、ヨ」
星空を微笑ませて、女怪はバキンバキンと音を立てながら身体を変えて行った。
「うわ、うわ……」
「コウデショ?」
四本の腕が、おかしな具合に折れながら背にズルズル音を立ててトプンと消えた。
「コレデ、ニホンウデ」
「ひぃ……!?」
今度は鱗のある脚を、膨らませてバチンと伸縮させる。するとみっしりと脚を覆っていた鱗がパラパラと地面に落ちた。鱗は光を反射しながら粉々になり、砂に紛れた。
彼の前に、艶めかしい女の脚がすらりと伸ばされた。
「コレデ、ツルツル」
「……」
次に出来上がったばかりの二本腕で、女怪は顔を覆い、グイッと拭う。すると、顔面に沢山の顔がシャッフルされた。
心の底から怯える彼に、彼女は「スキナカオ、ストップッテ、イッテ」と、促した。
彼は早くこの光景から逃れたくて、顔など選ばずにすぐさま「ストップ」と叫んだ。
かくして女怪の顔が決まった。
「ハイ、オカアサン」
優し気で美しい女の顔に微笑まれ、彼はとうとう意識を失ってしまった。
*
「なにそれ」
「怖いデショ」
「怖すぎる」
「うん。見てくれって大事だよね」
「……」
「僕の見てくれがもっと良かったら、君はずっと早く僕にこうしてくれた」
「イーエ。それは中身の問題」
「そうそう。中身はとっても良かったよ。だから僕、次第に好きになった」
*
一人では生きられないと思ったから恐る恐る一緒にいた彼女を、彼はいつしかお母さん、と呼ぶようになった。
彼のお母さんになった奇妙な女は、そう呼ばれると瞳に流星群を流してキラキラさせた。彼女は顔を微笑ませる事が出来たけれど、それが最上級の喜びの表現だった。
とても優しいお母さんだった。
彼女が彼を抱いて、「アレハウミデス」と、言えば、彼の中で海は常識になった。
彼女が彼を抱いて、「アレハソラデス」と、言えば、彼の中で空は常識になった。
彼女が彼を抱いて……「アレハ」と、教えてくれるもの全てが、彼の中と外を繋いでいった。
二人は碧い海の見える街の、隅っこに住みついた。
潮風から街を守る広い雑木林に、一件へんてこな空き家があったので、二人はそこに住み着いた。
小さな街の人々が流れ者の二人を見つけた時、お母さんが微笑んでお辞儀をした。そうすると、男も女も子供も意思無く微笑んだ。それを皮切りに街全体へ悪意の無い不思議な魔法がかけられて、二人は街の日常に溶け込んで行った。
お母さんは街の奥様方と子育てや家計の話で泣いたり笑ったりしたし、彼は街の子供達と虫や小動物を追って駆け回った。
*
「呆れちゃう。あんたはお母さん似!」
「ははは」
「それで?」
「僕とお母さんは、楽しく暮らしていました」
「うんうん」
「……ずっと、続くと思ってた」
「図々しいわね。街に魔法をかけておいて」
「うん。でも、僕らの異様さを隠しただけだ。後は普通だよ」
「はいはい。それで?」
「ある日、僕たちの街に小さな事件が起きました。そこで街の人たちはある男を街へ呼んだ。彼は身体の一部に光を発し、妖魔を狩る人間でした……」




