ダイアナの新天地
ダイアナはまだ人通りのない早朝の街中をトボトボ歩き、渡された手書きの地図を何度も見直しながら進んだ。
カナロールは白い四角い家ばかりだから目印に乏しいし、升目上に綺麗に敷かれた石畳の道は、通り過ぎた横道の数を数える為に、何回もダイアナを往復させた。
なかなか大変な道行だったけれど、このミッションは悲しみに暮れる暇をダイアナに与えなかった。右往左往すれども、目的地があるというのはいい事だ。
先の見えない男との関係よりも、ずっと確かな充実感がある、と、ダイアナは思って自分を慰めた。
そうして前を睨みつけながら進み、ようやく紹介された食堂に辿り着いた。
近くまで来てしまえばわかりやすい外観の食堂だったので、ダイアナは達成感にホッとため息を吐いた。けれど、すぐさまげんなりした。
何故なら、その食堂はダイアナが想像していた以上に大きかったのだ。巨大という言葉がよく似合う程の大規模な食堂で、外から見る限り二階建てだった。
「はぁ、六角塔の四倍はありそう。あそこだってお祭りみたいに大変だったのに」
いっそ本当に帰ってしまおうか、とダイアナの心が迷う。
彼女はライラほど外の世界に憧れを抱いていなかったし、あの暮らしにまあまあ満足していた。
けれど、その満足はライラありきの満足で、彼女の舞台が見られないあの酒場には何の魅力も無いだろうと、思い直す。
「まあ、引く程お金をくれたし、ダメだったら他のところでのらりくらりと暮らそうじゃないのダイアナ」
彼女は自分で自分に声を出して話しかけ、巨大な食堂の裏口を探した。
程なくそれらしき裏口への細い通路を見つけたが、鉄柵がガッチリとしまっていた。
仕方がないので、鉄柵にもたれて座り込む。
あっちへ行ったりこっちへ行ったりしている内に、そろそろ朝のお茶の為に店が開くだろう。
それまで少し休憩だ。そうだ、朝食をここで済ませてから店主にカインの手紙を見せてもいいだろう。
ダイアナは温かいパンを思って唇の内側を舐める。お腹が空いた……。そう思って、少しだけ目を閉じた。
肩を揺すられて、ダイアナはハッと目を開け、飛び起きた。
中年すら終えてしまいそうな、肥った女が困った顔をしてダイアナの顔を覗き込んでいる。
「ちょっとなんなのー? そこをどいて頂戴よ。お店の準備があるんだからさ」
口の端から垂れた涎を腕で拭うと、彼女を揺すって起こした女は嫌そうに顔を歪める。
「どうせ酔っぱらってここで寝こけてしまったんでしょう? どこの学生?」
そう言って、鼻をひくつかせ、ダイアナに酒気が無い事に不思議そうな顔をした。
「あー、ごめんなさい。私早朝に訪ねて来て……少し休憩するつもりが寝てしまったの」
慌てて起き上がって謝ると、女は「訪ねてきた?」と首を傾げた。
「うちは不用心に路上で寝こける女の子になんて用は無いよ」
「あああ、そう言わないでよおばさん。今度から気を付けるから。紹介状もあるよ」
「紹介状?」
「働き口を紹介されて来たのよ、私。おばさん、この食堂の人?」
聞きながら、ダイアナはカインに渡された紹介状を女に見せた。
女は「そうだけど」と言って、カインの手紙を見るなり、胸を手で押さえて「あらあ~!」と裏返った声を上げた。
「カインお坊ちゃまの名前じゃない!」
お坊ちゃま……と、吹き出しそうになりながら、ダイアナは手ごたえを感じて頷いた。
「そうなの。ちょっと世話になって、紹介してもらったの。ええと……とってもいい店だからって」
「まあまあ、そうだったの。早く言ってちょうだいよ。そうでなくても、人手がいつも足りなくて、働き手は大歓迎なんですからね」
「アハハ、大変そう」
言ってしまってからダイアナは口を手で塞いだ。
女は「そうなのよぉ~」と言って、意に介していない様子だったので、助かった。
「とりあえず、お入りなさい。手紙にちゃんと目を通したいし……あなた今日から働けるの? 朝ごはんは?」
「はい。ええと、まだです……」
「そう。じゃあご馳走してあげる。私はここの店主の女房で、給仕頭よ。カタリーナと呼んで。あなたは?」
「ダイアナ」
カタリーナはうん、とダイアナを見て頷いた。
「気が強そうで好きよ。客が学生だからね、舐められると面倒くさいのよ。特に男子学生。おしりを触られるんじゃないよ!」
そう言って、カタリーナはダイアナのお尻を叩きながら、裏口へ誘い入れてくれた。
食堂は見渡すほど広かった。建物の両脇の端から端までカウンター席が伸び、中央を細長い大テーブルが十四列並んでいる。
それだけでも辟易するのに、二階もある。
二階席は一階部分の三分の一ほどの面積のスペースと、回廊まであって、所狭しと客席が並んでいた。
千七百席という。そんなにも席があるというのに、食事時には満席になると言うから、出された薄い紅茶を吹き出しそうになった。
「あなたにはまず給仕をお願いする。そんなに心配そうにしなくても、うちはビュッフェ形式だからメニューを覚えたり面倒臭い事は無いよ。大皿の支給と、汚れた皿を下げるだけ」
事も無げにカタリーナはそう言って、巨大な厨房を見せてくれた。厨房には続々と料理係が入り始めて、仕込みにてんやわんやしている。
「カインお坊ちゃまもお願いしてくれているけど、住むところも心配しなくていいわ。ここで働く何人かが私の家に居候してるから、そこで良ければ空き部屋を提供する」
手短にされた説明によれば、カタリーナ夫婦の家は元宿場で、今は客室を従業員に与えているのだとか。
「元々は旦那の弟が引き継いだ家なのだけれどね、よその街へ用事で出かけた時に妖魔にやられちまったのさ。それで、彼を忘れたくない私たちはそこに住む事にしたの」
「そう……」
カタリーナの瞳の中の悲しみから、そっと目を逸らして頷く。
妖魔に家族を殺されてしまったカタリーナたちは、封魔師のカインをとても好きなのだろう。
「さぁ、住むところと、三食食事に、ちょっとだけだけどお給料! 条件に満足なら、今日からよろしくね!」
カタリーナが大きな声で言ったので、ダイアナは頷いた。
とても忙しい毎日になりそうだ。
きっと、昨夜までの短い夢の事なんてあっという間に吹き飛んで行くだろう。
*
それから七日程過ぎた。
あまりにも目まぐるしい七日間だったので、ダイアナはウエストが今まで以上にくびれたのではと疑っている。
目の覚めている間、カインの事など考える暇もなかった。
夜は夜で、泥のように眠った。一日だけカインの夢を見たけれど、胸を痛めて涙を拭いている内にいつの間にか眠ってしまっていたから、ダイアナは「この調子だ」と自分を励まして働いた。
自らクルクル動き働くダイアナを、カタリーナはとても気に入ってくれて、頭が気に入れば、他の従業員たちも直ぐダイアナを認め、歓迎してくれた。
綺麗で色っぽいダイアナは男子学生たちによくモテて、彼女の前では悪さの一つもしなかった。気の早い者は花束やプレゼントで彼女の気を引こうとして、カタリーナに厳しい検閲を受けた。
ダイアナは満更でもなかった。
想像以上に楽しいかも、と、彼女は思い始めていた。
しかし、八日目のディナータイムにローストチキンの大皿を運んでいる時に入ってきた客を見て、ダイアナは立ち尽くした。
良く慣れた様子で、カインが店の入り口から入って来て、店内を見渡していた。
彼は、かろうじてチキンの大皿を抱えながら固まるダイアナを見つけると、ふっと目を細めた。
ダイアナは喜べば良いのか、なんなのか分からない。ちゃんとやれているか心配して様子を見に来てくれたのだ、と思う。
だけど、今、とても一生懸命に忘れようとして駆けだしたばかりなのに。
酷い、と思った瞬間に、彼女の心臓がズクリと疼いた。
長身のカインの背後から、リリスがひょいと顔を出して、ダイアナに手を振ったのだ。




