#96 予想外
夏休みを迎えた長崎の空は、真青な空に入道雲がもうもうと湧き、厳しい日差しを時折包み込むとその都度一服の清涼剤ともいうべき涼しい風がそよいでいる。全国総体の取材で競技場を訪れたアスリート・マガジン社の女性記者・雨宮里美は、一眼レフのカメラ越しに間もなくスタートを迎える臙脂のユニフォーム――春奈の姿をじっと見つめていた。春奈は手足をぶらぶらとさせてウォーミングアップを行っていたが、選手たちの名前が呼ばれ始めると、ポケットに突っ込んでいた白いキャップを被って両手を空に伸ばした。
「あれ、今日はいつもの男の人はいないんですか?」
春奈が訊ねると、雨宮は申し訳無さそうに苦笑いを浮かべた。
「ごめんなさい、この前は平井がやりたい放題で…今日はわたしが行きますって志願して取材に来たんです。よろしくお願いします」
春奈は少し恐縮した様子だったが、ICレコーダーの録音スイッチが押されると表情を引き締めて雨宮の方を向いた。雨宮が口を開く。
「いよいよ全国の舞台です。昨年は決勝で仙台共和大高のエレナ・ジオンゴ選手にわずかに及ばず準優勝という結果でした。今年の目標はいかがですか?」
つい先日までであれば、謙遜してしまい当たり障りのないコメントを残していただろう。しかし、春奈は雨宮の目を見て力強く言い切った。
「走るからには、もちろん優勝を狙いたいです。きょうまで練習でもいいコンディションをキープできたので、留学生の方たちとの争いは易しくはないと思いますが、1位になれるように全力で走りきりたいと思います」
力強い春奈の言葉に、思わず雨宮は目を見開いた。つい数ヶ月前に会った時と、また印象が変わったのを雨宮は感じていた。小さく頷くと再び春奈に訊ねる。
「この後の予選は2組目の登場ですが、今回特に気になる選手はいますか?」
春奈はしばらく考え込むと、笑顔を浮かべて答える。
「東北大会で負けてしまった仙台共和大高のワンジラさんと近畿大会で優勝した浪華女子のムワンギさんは予選も同じ組で戦うことになるので、競り負けないように強い走りをしたいいと思います。あと――」
「あと?」
「予選3組で走る桜庭さん――桜島女子の桜庭さんは去年の高校駅伝でも一緒に走った選手なので、決勝で会えたら絶対に勝ちたいです」
春奈の目はキラキラと輝いていた。それはまるで、強敵との戦いを待ちわびているようにも見えた。雨宮の目には、春奈の「進化」が見て取れるようだった。
(柔和な子――礼儀正しくてはきはきとした、高校生にしてはすごくしっかりとした子。それはこの前の取材の時と変わらない。だけど、この前とは自信が全然違って見える。非公認だけど3,000mのタイムを更新したから? それだけじゃない。春に見た時と、顔つきからして全然違う――今日は何か、すごいレースが見れそうな気がする…)
『1番、ガドゥニ・ワンジラさん、宮城。仙台共和大学高校』
東北大会で先着を許したガドゥニが右手を上げてスタートラインへ進み出る。ひとつ年下とは思えない、落ち着き払った仕草でスタートを待っている。次々と選手が呼ばれる中、春奈は横を向いてシラ――酒田国際のシラ・キビイ・カマシを見た。5位で東北大会を通過したシラは、春奈の目線に気づくといつものようにニコリと笑みを浮かべて春奈に言った。
『春奈、今日の調子はどう?』
『まぁまぁかな。でも、全国から強い人たちがいっぱい集まってるから――1秒でも速くゴールできるようにベストを尽くす、って感じかな』
春奈の言葉に、シラもやはり少し驚いたような表情を浮かべた。いつもなら、一緒に頑張ろうね、等と激励の言葉を口にするところだが、自信に満ちた様子を察したのか、春奈の顔を見ると右手を差し出して強く握った。
『ええ、わたしもよ! トップを目指して、お互いに頑張りましょ』
そうこうするうちに、春奈の名前が呼ばれる。キャップを目深に被り直すと、右手を高く挙げる。スタンドからは大きな歓声が沸き起こる。
『11番、冴島春奈さん、秋田。秋田学院高校』
スタンドに、いつものように女子陸上部員たちの姿は多くない。出場する選手が春奈と800mの佑莉だけで、遠方への遠征ということもありひかるの他にマネージャーの彩夏とみるほが帯同しているだけだ。強い日差しに思わずサンバイザーを被っていたひかるは、目を細めながらスタートラインの春奈を見つめた。18人のランナーの読み上げが終わり、係員の号令を合図に選手たちがスタートの体勢に入る。
「On your mark!」
すぐ間近の客席でカメラを構えていた記者たちが、『お静かに』の札を目にして手を止める。春奈は一瞬すう、と息を吸うと、前傾姿勢になって動きを止めた。
パァン!
留学生選手たちが脱兎のごとく飛び出すと、春奈も一歩後ろからすっと並ぶ。早くも、春奈を含む4人ほどの選手とそれ以外の選手との差がつき始める。ひかるは、しばらく一眼レフを片手に春奈の表情をじっと見つめていたが、ファインダーから目を話すと傍らの彩夏に話しかけた。
「余裕だな…?」
「春奈ですか?」
「うん。前だったら良くも悪くもチカラが入っていたというか、余裕がなかったよね。見てごらん。多分、予選は8分目のぐらいの力で走るんじゃないかな」
ひかるが指差した先、3人の留学生に春奈はピッタリとついているものの、すぐに抜かしていく様子は見られない。予選は上位6選手までが決勝進出の権利を得る。スタート直後の様子から、後ろの選手たちが追ってこないことを察した春奈は4番目付近を走っている。
「大丈夫ですかね?」
彩夏が目を凝らしながら眺めていると、ひかるはサングラスを上げて答えた。
「大丈夫でしょ。スパートされてもこの走りならすぐに追跡できるし、春奈が3,000mでバテるとも思えない。むしろ、この先を考えた賢いレースだと思うよ」
ひかるの言葉通り、危なげない展開で春奈は予選2組を4位でゴールして決勝進出を決めた。みるほからタオルを受け取って汗を拭うと、春奈は安堵のため息をついた。ひかるは、大きく手を数回叩いて春奈を出迎えた。
「さすが、余裕だったね」
「ありがとうございます!」
春奈は一瞬笑顔を見せたが、すぐスタンドの最前列に陣取ると次の3組目に出場する選手たちの様子を窺っている。
「誰か気になる子いる? …桜庭さん?」
「うん…みるほちゃん、さくらちゃんの九州総体のタイムってどのぐらい?」
視線の先には、桜島女子の2年生・桜庭さくらが無邪気にはしゃぐ姿がある。みるほは、手元のパソコンでデータを見ると画面を春奈の方へ向けて見せた。
「9分16。でも、高校駅伝の時ほぼ同タイムだったよね…ロードの方が強いのかな?」
首を傾げるみるほを見て肩をすくめると、春奈は手元の携帯電話を覗いた。
「うん…連絡は取り合ってて、練習どんな感じ? って聞いても、いつも関係ないことばっかり返ってくる…秘密なのか、ただ単に天然ちゃんなのか…」
『1番、桜庭さくらさん、鹿児島。桜島女子高校』
場内にさくらを呼ぶアナウンスが響くが、さくらは観客席を眺めてはしゃいでいる。係員から呼ばれて、慌ててスタートラインの方へ走っていくとぺろっと舌を出して頭を下げた。春奈は、その一部始終を呆れたような表情で見つめている。
「多分、後者だね…」
3組目は中盤に差し掛かり、留学生のジャクリーン・ワリオと宮城高校のエース・鈴木葵が飛び出す展開となった。
「あれっ!?」
春奈が思わず声をあげる。ジャクリーンたちに次いで、八王子実業のエース・
井田天がペースを上げてゆくが、肝心のさくらのペースが一向に上がらない。並走する選手の様子をチラチラと窺っているが、その選手を抜くでもなくずっと並走を続けている。残り1キロを過ぎ、決勝進出となる6番目の選手はとうに過ぎ去った。さくらはなぜかスパートする様子もなく、すぐ横の選手のことをずっと気にし続けている。
「さくらちゃん…どうしたんだろう?」
春奈はグランドへと下りてゆくと、3番目にゴールした天のことを出迎える。天と面と向かって話をするのは高校駅伝以来だ。
「天さん! おめでとうございます!」
「あぁ、冴島さん、久しぶりだね! ありがとう!」
そう言って天はその日に灼けた顔で微笑むと、握手を求めた。春奈は笑顔で応じる。
「天さんとまた一緒にレースできるの、嬉しいです! 決勝はよろしくお願いします」
春奈はそう言って頭を下げた。すると、視界の端にうなだれる選手が見える――結局予選を10位で終え、監督の城之内の叱責に肩を落とすさくらの姿だった。天に頭を下げてさくらの方を見ると、さくらはこちらに気づいたのかちらちらと春奈の方に視線をやるような仕草を見せた。しかし、よほど城之内も結果に不満だったのか、大きな声でさくらのことを叱責している。さくらは、もどかしそうに唇を噛んで俯いてしまった。
(さくらちゃん…どうしちゃったんだろう?)
さくらが決勝進出を逸するという予想外の展開に、春奈は首をかしげた。
<To be continued.>




