#95 ジャンキー、挑発す
スタートラインに立ったみゆきは、ニコニコと満面の笑みを浮かべている。緊張して笑顔が強張る春奈とは対照的だ。その個性的ないでたちも、みゆきへの畏怖に拍車を掛ける。そんな緊張を知ってか知らずか、春奈の肩をポンポンと二度叩くと口元のピアスを光らせてギラギラとした表情で言う。
「マジで本気で来てよ、日本記録保持者ちゃん。――手加減されるのとか嫌いだからさ」
「…はい!」
春奈に断りの選択肢は最早なかった。その強烈なキャラクターとビジュアルが醸し出す”圧”に、春奈は無条件で首を縦に振らざるを得ない。緊張の面持ちのまま静かにスタートラインにつくと、その様子をじっと見つめていたみゆきが再び口を開いた。
「そんなヘタれた顔しないでよ。あたしは単純に全力で勝負したいだけなんだからさ、行くよ。よーい、ハイッ!」
みゆきが手を叩くのを合図に、ふたりは猛スピードで飛び出した。かなりのスピードで飛ばすみゆきを春奈は必死に追いかけるが、手加減を見せる様子はない。朝のLSDで見せたように笑みを浮かべたまま、振り向きもせずにどんどん前へと進む。春奈は、様子を見るかと思いきや、みゆきと並走するようにスピードを上げていく。
「…すごいスピードですね」
その様子を見守るあかりが驚嘆の声を漏らすと、史織が続ける。
「ジャンキーだから」
「ジャンキー?」
あかりの問いかけに無言で頷くと、史織は半ば呆れたような顔で答えた。
「そう、ジャンキー。あの人は自分より速い人に勝つことが生きがいだから――簡単に負けるような人には納得いくまで走らせるし、自分より速い人には勝つまで勝負を挑み続ける…まあ、だからこそあの強さがあるんだけど、…なんというか」
「…ちょっと迷惑で…」
あかりがそう答えると、猛スピードで走るみゆきが大声で叫ぶ。
「なんか言ったァ!?」
「なっ、なんでもないです、なんでも!」
思わずあかりが慌てて否定すると、史織は小声で呟いた。
「そうそう、伝え忘れてたけど、みゆきさん超地獄耳だからあんまり変なこと言わないほうが良いよ…」
「はっ、はい…」
最初のうちこそみゆきにビクビクしていた春奈は、走るうちに別の感情が胸の奥から湧き上がるのを感じていた。急に挑まれた勝負。初対面にしては強すぎる態度。そして――ぐっとスピードを上げ、春奈はみゆきの横に並んで目を見開くと大声で叫んだ。
「わたしは、『日本記録保持者ちゃん』なんて名前じゃありませんっ!!」
「えええぇ…!?」
突然の怒声に、思わずみゆきは情けない声を漏らす。トラックの外で見つめているあかりと史織も、春奈の予想外の行動に目を丸くしている。
「春奈ちゃん、あんな子だったっけ…?」
「いや、わたしもあんな春奈初めて見ました…」
春奈はみゆきの数歩前に出ると、再び大声で叫ぶ。
「わたしにはちゃんと名前があるんですっ! 冴島春奈。春奈って呼んでください! よろしくお願いします!!」
そうまくし立てると、春奈は一気にみゆきを置き去りにすべくさらにスピードを上げる。未体験のスピードに全身から汗が滴り落ちる。歯をぎりぎりと食いしばり、みゆきの様子など気にする様子もない。
「ちょ、ちょっと待った、日本記録保持者ちゃ…」
後方から慌てた様子でみゆきが呼びかけると、春奈はみたび振り向いて叫んだ。
「だからぁ、わたしの名前はそんなんじゃありませんっ!! さ・え・じ・ま・は・る・な、ですっ!!」
さすがのみゆきも心が折れたのか、大きな声で叫び返す。
「ごめんなさい!! …冴島春奈さまっ!!」
インターバル走を終えた春奈は、よたよたとベンチに座り込んだ。汗だくの身体をタオルで拭っていると、突然目の前にスポーツドリンクが差し出される。
「おつかれちゃん」
ドリンクを差し出したのはみゆきだった。蛍光イエローの派手なユニフォームの胸元を暑そうにバタバタと扇ぐと、その場にどっかと座り込んで、真っ黒に日焼けした顔でニヤリと笑った。
「超つえーね、アンタ。花咲くシックスティーンは底力が違うわ…おばちゃん頑張ったけど、あれだけブッチされたら無理だわ、脱帽」
そう一気にまくし立てると、みゆきは立ち上がって春奈に一言告げた。
「じゃ、明日はハーフで勝負だから、しくよろちゃん」
みゆきは踵を返してグラウンドの外へと歩いて行こうとしたが、春奈はハッとした表情を浮かべるとすぐにみゆきの背中に向かって叫んだ。
「さっき勝ったのわたしじゃないですか! 勝負だって言うなら、明日はわたしに決めさせてくださいっ!! 10,000mで!!」
みゆきは振り向かなかったが、春奈の声に左手を上げて大きく振った。
「春奈はどう、頑張ってる?」
春奈を案じて電話をかけてきたひかるに、あかりは苦笑いまじりで答えた。
「頑張ってるもなにも、たった数ヶ月でとんでもなく強くなってるんだけど…」
そう言って昼間のみゆきとの激走の様子を伝えると、ひかるは目を見開き手に持った携帯電話を投げ出さんばかりの勢いで驚いた。
「へぇ…っ! さすが春奈、計り知れないわ」
「それにしても、この数ヶ月で何が変わったの?」
あかりの問いかけに、ひかるは日頃の練習の様子を回想するようにつぶやいた。
「見ててもわかるとは思うけど。技術的なところはもちろんだけど、精神的にかなりタフになったかな…キミたちが卒業して、1年生が入ってきてっていうところで、自分がどんどん背中で見せていかなきゃいけないことに気づけたのが大きいと思うよ」
ひかるの話に、あかりは思わず苦笑いを浮かべた。
「だからって、いきなりあんなに強くなる? まともに挑んでも勝てないんじゃないかって思うよ」
「ふふん、それは監督のおかげ…んんっ! それは冗談として、春奈は今どこにいるの?」
「春奈? 今は佐野さんとお風呂に行ってるんじゃないかな」
湯気が立ち込めるホテルの大浴場で、春奈は湯に浸かりながらじっくりと史織の話を聞いていた。
「タ、タレント活動…するんですか!?」
驚く春奈に、史織はニコリと笑ってひとつ頷くと答えた。
「まぁタレントっていうより、走る楽しさをいろんな人に伝えていきたいから講演会だったりイベントだったり、企画をしながら全国で活動していくって感じかな? その中で古瀬先生に事務所の方を紹介していただいて、事務所に所属ってことになったんだ」
「でも、どうして事務所に入ることにしたんですか?」
史織は、立ち上る湯気を見上げながら答えた。
「スポーツ選手だからって走るだけが仕事じゃないし、色々な考え方があっていいと思ったんだ…女優さんや歌手になるわけじゃないけど、テレビ番組に出てスポーツの素晴らしさを伝えることもできるし、せっかくプロになるから色々なことにトライしてみたいなって」
春奈は驚いてしばらくポカーンとしていたが、上気してピンク色に染まった頬で笑顔を浮かべると史織に微笑みかけた。
「全部はわからないですけど…お仕事で夢を与えられるって…素敵です! 楽しみにしてますね!」
宮崎での3日間は、怒涛のように過ぎ去っていった。制服姿の春奈が頭を下げると、みゆきや史織、あかり達から大きな拍手が沸き起こる。
「次会う時は代表争いだね! おばちゃん、その時まで現役で頑張るからさ、絶対そこまで上っておいで」
すっかり意気投合したみゆきとガッチリと握手を交わすと、春奈は満面の笑みでにっこりと微笑む。その後ろから、史織とあかりもやって来る。
「春奈ちゃん、インハイ頑張ってね! 優勝できるといいね!」
「姉さんからいい話を聞くのを待ってるよ。困ったらまた連絡ちょうだい」
心を許すふたりの言葉に春奈は少し感極まったようにも見えたが、口をぐっと閉じると力強く頷いた。そして――
「きみを呼んだのは、やっぱり間違いじゃなかったようだね。きみは可能性だ――来年のオリンピックにはまだ早い。だが、いつかは必ず日本のエースになれる逸材だ。その時まで鍛錬を重ねて、より強くなってまたこの場に来てほしい」
古瀬が手を差し出す。春奈は両手で古瀬と握手を交わすと、意志を秘めた強い視線で古瀬を見つめると口を開いた。
「はい、必ず! 皆さんのご期待に応えることができるよう、頑張ります!」
<To be continued.>




