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#94 ロングスロー・ディスタンス

 寮生活において、部員たちの部屋にはテレビが設置されていない。携帯電話のワンセグ機能で電波の粗い状態の放送を見ることはできるものの、携帯電話自体の使用時間も”一応”規則で定められているため、部員たちは食堂と地続きの多目的ホールで朝、夕の食事時だけテレビを目にすることになる。いつものように食堂を片付けるマサヨさんを、部員達が呼んだ。


「マサヨさん、そろそろ始まりますよ!」


「あっ、もうそんな時間か? 待ってな、今すぐ片付けちまうからさ」


 マサヨさんはそう言ってテーブルをサッと拭くと、部員たちの待つ多目的ホールへとやって来た。時刻は、朝の6時45分。マサヨさんの到着を待っていたかのようにCMが明け、朝の情報番組『なまはげモーニング』のスポーツコーナーが始まる。


『秋田県民にとって、嬉しいニュースが入って参りました。日本女子陸上界の期待の星、秋田学院高校2年の冴島春奈選手が、なんと次回のオリンピック強化指定選手に選ばれたことが分かり、昨夜秋田学院高校で記者会見が開かれました。その様子をご覧ください――』


「「おおおおぉぉ!」」


「「春奈ーー!」」


 テレビを見つめる部員たちから歓声があがる。画面には、校長の岩瀬とひかるに挟まれ、緊張の面持ちで記者会見場が設定された会議室へと歩を進める春奈の姿がある。無数のフラッシュを浴びる春奈の表情は普段より硬いものの、落ち着いて見える。春奈の横に後から入ってきた日本陸連の強化委員長を務める古瀬が座ると、記者会見が始まる。


 古瀬の話が終わると、春奈は冷静に切り出した。


「高校生であるわたしを代表候補に選んでいただき、とても嬉しい気持ちで一杯です。同じ強化指定選手にはすごいランナーの方がたくさんいらっしゃるので、自分の長所であるスピードをより磨いて、いつか代表選手に選んでいただけるように頑張りたいと思います」


 そう淀みなく語る春奈を、岩瀬とひかる、そして古瀬も感慨深げな表情で見つめている。そこには、つい先日まで迷いを見せていた春奈はいない。堂々と目標を語る春奈の目は、力に満ちているように感じられた。


『これまで長距離走の代表候補選手は実業団から選出されていましたが、今回初めて学生からも選出が行われ、大学生の片田美帆選手、そして高校生の冴島選手が選ばれたということです。代表候補に選ばれた選手たちは今日から5日間、宮崎県で行われる強化合宿に参加し、厳しい練習を積むということです。冴島選手、今をときめく秋田の期待の星ですから、ぜひ代表合宿でもアピールしてほしいですね――』


 会見を見守る1年生たちは笑顔ではしゃぎ、3年生たちは穏やかな表情で記者からの質問に答える春奈を見守っていた。一方で、2年生たちは真剣な表情を崩さない。怜名が、テレビから視線を離さずに口を開いた。


「春奈、いい顔してたね」


 秋穂も、それに続く。


「あぁ…覚悟したんだね」


 そして、愛が思わず目を潤ませながらふたりを見る。


「あたしたち、こんなすごい子と一緒に練習してるんだね…改めて思った」


「そうだよ。…負けてられないよ、今はまだ差があったとしても」


 真理の言葉に、皆が大きく頷いた。春奈の決意は、他の部員たちを鼓舞するに十分な影響をもたらしたようだった。すると、みるほがホールの時計を見つめて言った。


「春奈ちゃん、無事に着いたかな? 多分、もう練習始まってる頃だよね…」




 (ウソでしょ…!?)


 挨拶もそこそこに、いきなり20kmのLSDロングスローディスタンスが始まる。もちろんウォーミングアップは済ませているとはいえ、春奈は目を白黒させながら先を走る選手たちを追う。少しずつ列の前方へと進むと、春奈のよく知った顔が現れた。


「…やっほ! おつかれ!」


「史織さん!」


 先に宮崎入りしていた佐野史織(さのしおり)が声を掛けた。実業団・横浜三葉重工を退社し、プロランナーに転向した史織は初のオリンピック出場が期待されるランナーだ。春奈にとっては、初めて出会った中学時代の都道府県対抗駅伝の時から駅伝のイロハを教えてくれる師のような存在でもあった。史織に手を振ると、春奈は更に前へと進み出る。先頭を走る3人の中に、春奈がよく見知った後ろ姿が見えた。


「あかりさん!」


 春奈が声を掛けると、あかりはサングラスをずりあげて手を上げた。イソガイアスリートクラブへと進み、日々の厳しい練習に明け暮れるあかりはつい先日秋田で出会った時よりも、さらに日に焼けているように見えた。あかりと頷き合うと、春奈は並走を始めた。LSDとはいえ、実業団トップクラスの選手たちの走りは積極的だ。高校生の春奈が、彼女たちから遅れてしまっても不思議ではない。だが、春奈はこの地を訪れる前に心に決めていることがあった。




「春奈ちゃん、無理しちゃダメだよ」


 史織の言葉に、春奈は首を横に振って答えた。


「無理はしないです。でも…全力で行きますね」


「えっ?」


 春奈は、その場ですっくと立ち上がった。


「あかりさんが教えてくれた、チームの約束なんです。練習でも全力で、っていうのが皆の約束事で。だから、練習でも全力でがんばりますね」


「あぁ、梁川さん!」


 あかりと記録会で顔を合わせたという史織は、納得した様子でポンと手を叩いた。弾むような春奈の口調に、史織は笑顔を浮かべた。


「フフ、まいっちゃうな…会う度に春奈ちゃんはどんどん大きくなっていく気がするよ。お手柔らかにお願いね」


「えっ、大きく…わたし、太っちゃいましたか?」


「…いや、そゆことじゃなくて」




 中盤を迎えても、誰一人遅れることなく皆がハイペースで進んでゆく。春奈は、なんとかあかりのペースに併せて並走を続けていた。並走するのはあかりがアキレス腱を断裂して以来初めてだったが、その走りはさらに力強さを増しているように思えた。すると、背後からスピードを上げて迫る気配を感じて春奈は振り向いた。


(…あっ!)


短く刈り込んだ赤い髪がなびき、耳にはいくつものピアスが光る。しかし、腕の振り、足の運び、いずれも見たことのない、まるで男子選手のような力強い走りだ。その姿は、過去に何度もテレビの中継で見かけたことのあるものだった。


(大清水…みゆきさん)


 後ろから追ってきたその選手は、春奈達を一瞥するとニヤリと笑みを浮かべて一気に前方へと駆け抜けてゆく。大清水(おおしみず)みゆき。日本の女子長距離界のエースで、前回のオリンピックでもマラソンに出場し、メダル獲得まであと一歩というところまで迫った選手だ。春奈が更新するまで5,000mの日本記録を保持していた選手でもある。派手ないでたちを好むみゆきは、足元も鮮やかなショッキングピンクのシューズを履いている。春奈は、あかりを見て頷くと、ふたり同時にペースを上げた。ところが、その後ろからさらに他の選手が現れる。この春から実業団に進んだ、学生ナンバーワンランナーと呼ばれた酒井咲穂(さかいさきほ)も猛然とみゆきを追う。その表情は苦しさをたたえているどころか、満面の笑みで走り去ってゆく。春奈も、咲穂は並走こそしていないが東日本女子駅伝で同じコースを走ったことがあり、その強さは十二分に理解している。後ろから追ってきた史織、そしてあかりを見ると、無言で頷いてさらにスピードを上げた。




 古瀬は、ワゴン車で後方から選手たちを追っていた。後半に差し掛かると、選手たちは徐々に縦に広がり遅れをとる選手も出てくる。古瀬は眼鏡を直すと、前方を見つめた。先頭をゆくみゆきを若い春奈、咲穂、あかりたちが追う姿を見て満足げな表情を浮かべると、同乗するスタッフに話しかけた。


「冴島、いいじゃない。やっぱりボクの目は間違ってなかったね」




「はあーっ、はぁーっ、はぁーっ」


 春奈は、20kmをなんとか走り終えると膝に手をつき、辛そうに息を吐いた。最終的に、みゆき、咲穂に次ぐ3番目でゴールした春奈の元へ後を追っていたあかり、史織らも戻ってくる。あかりが天を仰いで大きくため息をついた。


「春奈、強くなったね…ハアッ、ハアッ」


 あかりの言葉に、春奈は首を振った。


「ありがとうございます…でも、大清水さんと酒井さん、とんでもないスピードでした」


「何か呼んだぁ?」


 春奈が名前を口にすると、遠くの方からみゆきの声がした。みゆきは全速力で春奈の元へ近寄ると、肩をグッと抱いて白い歯を見せた。


「アンタ速かったね! さすが花咲くシックスティーンだわ。あのさ、午後のインターバル、あたしと一緒に練習しない?」


「うっ、うわっ!?」


 思わず叫び声を上げた春奈とは対照的に、みゆきはピアスだらけの顔でニヤリと笑った。




<To be continued.>

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