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#91 引き受けるということ

 開け放った窓から、初夏の少し湿った風が吹き込む。部屋の白いカーテンが風になびいて、ひとりでにサーッという音を立てて開いた。春奈と秋穂は、お互いに言葉を発することなくしばらくお互いの目を見ている。カーテンが元に戻る頃、春奈が静かに口を開いた。


「どうして?」


 怒るでも、狼狽えるでもなく、ただ春奈は秋穂を見つめていた。逆に、その真っ直ぐな視線に一瞬ひるんだのは秋穂の方だった。秋穂は窓際に立つとポツリとつぶやいた。


「春奈が…悪いとか、嫌いだとかそんなことは1ミリもない…この前、試合の後に古瀬さんが視察に来たって聞いて…」


「…?」


「負けたと思った…春奈に」


「えっ?」


 春奈は、理解できないといった表情を見せた。――秋穂は何を言っているのか?春奈にとって、秋穂は全国優勝を目指す大切な仲間のひとりだ。仲間同士の勝ち負けとは? 春奈が小さく首をかしげていると、急に秋穂が頭を下げた。


「ごめん。これはウチの問題…春奈がなにか悪いわけじゃない。ウチの心の弱さ…ごめん」


「え、ちょっ、秋穂ちゃん…!」


 秋穂は言い捨てるように、自分の部屋へと戻っていってしまった。引き留めようと伸ばした右手を、春奈は力なく下ろして天井を見上げた。


「わかんないよ…どうして? 秋穂ちゃん…」




 練習を終えた怜名は、恵理子とともに春奈の部屋へとやって来ると1枚のプリントを手渡した。


「男女合同バーベキュー?」


「そう、今度の日曜日。ひかるさんと、男子部のコバセンが企画したんだって」


 本城が監督を務めていた去年までであれば、絶対ありえないような企画に春奈は思わず目を丸くした。怜名が続ける。


「校長先生とか、あとは大学に行った沙織先輩とか未穂先輩も来てくれるみたいだよ。疲れのピークが来てるから、みんなで美味しいもの食べて遊んで、今度の東北高校選手権に向けてパワーを付けようって…あ、えりえり、ちょっとほのたちの部屋に行っててもらってもいい?」


「分かりました!」


 怜名は恵理子が部屋を出たのを確かめると、扉を閉めて春奈の元へと歩み寄った。


「…秋穂と何かあったの?」


「…それがね…」


 春奈の話を聞きながら怜名は何度もうなずいていたが、春奈の思うところを聞くと、向き直って言った。


「それは多分、春奈が手の届かないところに行った気がして、悔しかったんじゃないのかな…秋穂」


「悔しい?」


「前に、本城先生が言ってたこと覚えてるでしょ?わたしたちは、仲間でありライバルだって――確かに、秋穂もわたしも春奈とは仲間だけど、同時にひとりひとりの個人記録を持ってるライバルだし…秋穂は今貧血のこともあるから、余計に自分でもどうしようもできなくて、歯がゆいんじゃないのかな。わたしだって、春奈はすごいなと思うけど、本当はライバルなんて言えないぐらい記録も…全然違うし」


「でも、別にこれで終わりじゃないんだし、頑張れば結果が…」


 春奈が言葉を遮ると、怜名は険しい表情になって今度は春奈のことを制するように言った。


「日本記録持ってる子に、今からどれだけ頑張れば並べるの? それに、わたしたちだって頑張ってる。頑張ってない子なんていないよ。それでも、春奈のタイムになんてすぐ並べると思う?」


「えっ…」


 怜名は、徐々に早口になると春奈の肩を掴んだ。怜名の頬がみるみる紅潮するのがわかる。


「頑張ればできるなんて無責任だよ…春奈、自分が思ってるよりも春奈はもっとすごくて、だって日本で3,000mも5,000mも一番速く走れる子なんだよ? それを春奈が、頑張ればできるなんて…もっと、自分が一番速いってことを引き受けてよ! …春奈が引き受けてくれなきゃ…この気持ちぶつけて頑張れないよ」


「れ、怜名、ちょっと…」


 春奈には、怜名にかけることのできる言葉はなかった。少し前に、ひかるたちに投げかけられた問いと、言葉こそ違えど同じ意味合いのことを問われているのだと感じ、春奈は胸の奥がじんわりと痛んだ。3,000m、8分47秒。5,000m、14分42秒。日本人女子選手の持つ最高記録――。ほんの数日で、自分自身の記録ときちんと向き合えていなかったという事実を突きつけられた春奈は、怜名の言葉に押し黙ることしかできなかった。




「暑ーい!!」


 バスを下りた春奈たちは、思わず声をあげた。港に面したバーベキュー場は、初夏の海風が吹き付けて熱気に満ちている。男女それぞれの部員がほぼ全員集まり、教職員も含めれば100人近い大所帯だ。拡声器を手にしたひかるが声をあげた。


「それじゃあ、早速準備を始めましょう。午前中に食事の準備をして、ご飯食べたら午後は皆でレクリエーションの時間取ってるから、まずは準備をしちゃいましょう。男子は校長先生と小林先生について、コンロとかテントの準備。女子は樋村寮長とわたしで食事とデザートの支度するから、3班に分かれること。それぞれ、男女のマネージャーはグループごとに指示出して、準備を進めるように。ちーなーみーに、午後のレクの最後にやるビンゴ、先生たちで賞品を用意したから、最後まで楽しくやりましょう!オーケー?」


「「はーい!!」」


「賞品」という言葉に俄然やる気になった部員たちは、それぞれ協力して準備を進めている。小さい頃から母の琴美を手伝っていた春奈は、包丁を器用に操りジャガイモの皮をするすると剥いていく。手元の野菜を全部切り終えた春奈は、うっすらにじんだ汗を拭いながら少し離れたところにいる秋穂を横目で眺めた。貧血の症状がまだ残っている秋穂は休み休みながらも、菜緒や涼子たちと笑顔で調理を進めているようだった。


(…よかった!)



 春奈と同じグループには男子部の副キャプテンに就任した3年生の新田涼矢(にったりょうや)と、昨年は同じクラスだった宮司琥太郎(みやじこたろう)、そして3年生の近藤有希(こんどうゆき)、そして沙佳が席を並べていた。食べざかりの高校生たちは、肉やカレーといった料理をすぐに平らげると、料理上手の有希が作ったというデザートをほおばっていた。最初の頃は突っけんどんだった沙佳も、秋田学院の生活に徐々に慣れ、柔らかな笑顔を見せるようになっていた。


「コンちゃん、このデザート全部作ったって本当? マジで料理上手だね!」


「ありがとう! 向こうにたくさんあるから、食べるなら持ってくるよ? 荒畑さんは?」


「はい、わたしも行きます! 先輩のデザート、本当に美味しいです」


 春奈が席を立ったふたりの姿を眺めていると、琥太郎が声を掛けてきた。



「怜名がものすげー心配してたけど、冴島、マジで大丈夫か?」


「うん…怒られちゃった」


 琥太郎はムスッとして、頭をボリボリと掻きながら言った。


「怜名からそんなに詳しくは聞いてねえけど…、おまえ、他の誰よりも速いんだからさ、もっと堂々としてていいと思うよ…おまえが元気ないと…その…心配になるからさ…俺が」


「えっ!?」


 春奈が驚いて訊ねると、琥太郎は顔を真っ赤にして両手を振った。


「や、いや、なんでもねーよ! とにかく、暗い顔してねーで明るい顔してろって、な? ほら、矢田が呼んでるぞ、あっち!」


「真理?」


 見ると、真理がテントの方から手招きをしている。春奈は立ち上がって真理の方へ向かおうとしたが、琥太郎の方を振り返ると耳もとで言った。


「…ありがと」


 琥太郎は真っ赤な顔で、テントの方へ走ってゆく春奈の後ろ姿を眺めていた。




 真理に促されてテントの中へ入ると、ひかると秋穂が話をしている最中だった。ふたりが同時に振り向き、春奈は思わず身を固くした。それを察したのか、ひかるが大げさに手を振る。


「いいから、こっち」


 ひかるに相対するように座らされた春奈と秋穂は、お互いに気まずそうに目を合わせると、ゆっくりと顔をそむけた。


「…」


 もう、春奈の心は決まっていた。だが、いざ気まずいままの秋穂を目の前にすると、うまく言葉が出てこない。それは、秋穂も同じだ。すると、ひかるがおもむろに立ち上がった。


「ひかるさん?」


 そう春奈が口にした次の瞬間、ひかるはふたりの背中をぐい、と内側に向け、強引にお互いが向くようにすると言った。


「う、わ、わぁっ」


「ゴホン…行きのバスで春奈の話を聞かせてもらって――今は秋穂、キミの話も聞いたね。お互い、言いたいことはあるはず。話せるね?」


 ふたりが無言でうなずくと、ひかるは後ろの椅子へ再び腰掛ける。お互いが目を合わせると、どちらからともなく同じ言葉が口を衝いて出た。


「「ごめん…」」


「前にも言われたの、思い出したんだ…頑張ろうって言っても、全員が全員同じことをできるわけじゃないって」


「春奈…」


「怜名にも言われた…わたしは、自分の走りを引き受けなきゃいけないんだって。だから、わたしは…自分の走りを信じる」


「…そう来な!それやったら、ウチも、いつか春奈に追いつく為にもっと頑張れる気がするけん…あんなこと言うて…ゴメン」


「秋穂ちゃん…」


 そこまで言うと緊張の糸が切れたのか、春奈は溢れる涙をこらえ切れずにうつむいた。秋穂は、春奈の手を取って言った。


「この体調やったら、来週の選手権には間に合わん。残念じゃけんど、今回は出場諦めることにする…だから、春奈に絶対に勝ってほしい」


 嗚咽しながら、春奈はうんうんと首を振る。テントの外からは怜名が様子を見ていたが、ひかるがウインクするのを見て笑顔でうなずくと、部員たちの輪へと戻っていった。秋穂は、春奈の肩をポンと叩くと外を指差した。


「ほら、もうビンゴ大会始まるけん、早う行こわい!」


 その言葉に、春奈の表情にも笑顔が戻った。


「うん、行こう!」




<To be continued.>

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