#89 未来像
大学本館を出ると、春奈の携帯が鳴った。着信は怜名からのものだった。
「もしもし?」
「春奈、どうしよう…? 秋穂、また貧血で倒れちゃったんだ」
「秋穂ちゃんが? …すぐ戻るね」
横で話を聞いていたひかるも、「秋穂」の一言で事態を察したようだ。ふたりが走り出そうとすると、後ろから声を掛けられて春奈は振り返った。
「さえじ! こんなところでどうしたの?」
「薄井先輩! 苑田先輩!」
この春から秋田学院大学に進学し、高校時代と同じく陸上部に所属する薄井沙織と苑田未穂の姿があった。横で見ていたひかるも卒業生と気づいたらしく、ほぉ、と一つ頷いた。
「なるほど、あかりの同級生の子たちね。…もしかして?」
「こんにちは、ひかる先輩。はい、今から学院の寮に行くところです」
「あれ?先輩たちも寮に?」
春奈が訊ねると、沙織は笑みを浮かべた。
「そう。でも、わたしたちだけじゃないけどね。ちょっとした同窓会ってカンジ?」
「同窓会?」
秋穂は、駆けつけた涼子と荻島礼香に抱えられて寮の部屋へと戻ってきた。自室のロフトベッドに上ることができず、秋穂はソファーにぐったりと倒れ込んでしまった。青白い顔で呻く秋穂を、心配そうに怜名や瞳、同部屋の由佳たちが覗き込む。
「うぅ…」
「大丈夫!? 今、マサヨさんにも声かけたから。春奈もそろそろ…」
怜名が言うと、秋穂は左手を上げて横に大きく手を振った。
「えっ?」
「…ないで」
「えっ、どうしたの?」
怜名が聞くと、秋穂は顔を覆っていた指の隙間から薄目を開けてつぶやいた。
「春奈には…言わないで」
「えっ!?」
怜名が驚いて秋穂に顔を近づけると、秋穂は顔をそむけて小声で言った。
「だから…春奈には…言わんとって。…こないなところを…春奈に…見られとうない」
怜名が困惑したように口元を歪めると、ずっと心配そうに見守っていた由佳が大きくため息をつく。瞳が怜名の方を向いて一つうなずくと、部屋を足早に出ていった。
「…わかった」
瞳からの電話を受けた春奈は、不安そうな様子で頷いた。
「どうだって?」
「部屋で休んでるみたいです…今日は練習も参加できないと思います」
「そうか…妙だね。ここ最近の話だよね」
ひかるが首をかしげると、話を聞いていた沙織が口を開いた。
「? 高島ちゃん、何かあったの?」
「この前の総体でレースの後に倒れて、今日も立ちくらみで倒れたって…」
春奈が心配そうな表情でつぶやくと、未穂が何かを思い出したように沙織に言う。
「…さお! もしかして…」
「うん。ひかる先輩…もしかして高島ちゃん、スポーツ貧血じゃないですか?」
「…確かに。もともとあった症状じゃないなら、その可能性はあるね」
「どうして、スポーツ貧血だってわかるんですか?」
「佳穂理だよ。あの子も3年になってから急に立ちくらみで倒れたり、練習休むようになって血液検査してみたらスポーツ貧血だってわかったんだ」
「あぁ、確かに…! 村井先輩」
あかりや沙織たちと同じ代の村井佳穂理という部員は高校3年の春になり貧血を発症し、戦線離脱を余儀なくされていた。血液検査などを行ったところ、足の裏に強い負荷がかかり続けることで血中の赤血球が破壊される『スポーツ貧血』と判明したことを沙織たちは覚えていたのだった。ひかるは、髪を掻き上げるとひとつ大きくため息をついた。
「そうか…どちらにしても、早々に検査してもらう必要がありそうだね」
「おーい、みんなー!」
「あっ、先輩!」
寮の前には、春奈たちを見つけて飛び上がって合図する相浦翼と、その横には笑みを浮かべて立つ梁川あかりの姿があった。春奈は、笑顔になりあかりの元へと駆け寄った。
「お久しぶりです、梁川せんぱ…うぐっ」
あかりは、春奈の口を手で塞ぐと苦笑いでこぼした。
「相変わらず、キミはカタイな…姉さんのことを『ひかるさん』って呼んでるなら、わたしのことも「あかり」で呼んでほしいな」
「わっぷ、ごめんなさい…あかりさん、どうして今日はここに?」
春奈に問われると、あかりはすっかり伸びた髪を無造作に束ねると日焼けした顔で答えた。
「今日は、アスリートクラブの陸上教室をやってきたんだ。小学生たちに走る楽しさを教えるために、毎月各地を回って講習会をやってるってわけ。たまたま今回は秋田でわたしと先輩の出番だったから、秋田にいるメンバーと会えるかなと思って」
あかりの言葉に、会社の制服姿で現れた翼もにっこりと笑顔を見せた。翼は、姉の空と同じ秋田のタクシー会社・大同自動車に入社し、今日はタクシーの配車業務を終えてから秋田学院へとやって来たという。すると、その様子を見ていたひかるが口を開いた。
「あかり、まだ時間あるんでしょ? ちょっと相談に乗ってほしいんだよね」
「やっぱり、姉さんが監督やってるなんて、なんか変な感じだね」
マサヨさんの淹れた麦茶を豪快に飲み干すと、あかりがつぶやいた。ひかるの横に座った春奈は、ふたりの顔を交互に見回すと感慨深げに口を開いた。
「似てますよね…」
「「ええっ!?」」
「なんでしょう、お顔とかそういうのよりも、性格というか考え方というか…」
「似てるかな?」
「さあ?」
その仕草が姉妹ともにそっくりで、春奈は思わずプッと吹き出した。首をかしげながら、ひかるが切り出した。
「ちょうど、さっきあかりが来るまで春奈と話してたんだけど。今、キミがどんなことをして過ごしているか、春奈にちょっと説明してあげてほしいんだ」
突然の依頼にあかりは少し戸惑ったようだが、春奈が先程ひかるにした話を再び説明すると、あかりは深くため息をついてつぶやいた。
「なるほどね…」
「ちょ、ちょっと彩夏先輩、見てください、こ、これ!」
彩夏は、そう言って慌てて駆け寄ってくるみるほを怪訝な表情をして見ていたが、みるほの差し出す携帯電話の画面を凝視すると短く叫び声を上げた。
「え、なっ、なにこれ、あの子何やってるの!?」
携帯電話を握るみるほの手は、興奮なのか焦りなのかふるふると震えている。彩夏が見つめる画面には、如何にもギャルといった風情のタレントの宣材写真が掲載されている。その記事の見出しには、このように記されている。
『井田プロ・井田会長の愛娘・悠来、芸能界デビュー! ギャル雑誌の専属モデル決定!』
その見出しを読み終えた彩夏とみるほは、顔を見合わせて無言でため息をついた。半年前に秋田学院を退学処分で去った井田悠来と、まさかこのような形で再会しようとは。同じ学年でありながらほとんど会話を交わすことのなかった彩夏は、呆れたようにつぶやいた。
「ふぅーん…あんな子でも、親のおかげで芸能界デビューできちゃうんだ…」
あかりは、卒業してから入部したイソガイアスリートクラブでの日々を話して聞かせた。イソガイアスリートクラブはクラブチームだが、プロ契約ではなく所属するメンバーはそれぞれに正社員、アルバイトなど様々な形での仕事と普段の練習を兼ねているという。あかりはクラブの練習拠点のある安房鴨川で仕事に就いているというが、その職業を聞いた春奈は思わずのけぞるようにして驚いた。
「す、すい、水族館のスタッフ!?」
「うん」
あかりは、こともなげに答えた。
「え、あ、あかりさん、イルカに乗ったりしてるんですか!?」
「そんなわけないでしょ! 飼育ができるのは、大学とか専門で獣医学や水産学の勉強した人たち。わたしは飼育じゃなくて、水族館とか、隣接してるホテルの接客とかかな」
あかりは、安房鴨川にあるマリンリゾートの契約社員として採用され、水族館やホテルのフロント業務や、広報などの仕事も兼ねているのだという。そこへ、ひかるが口を挟んだ。
「来年、大学も受験するんでしょ」
「えっ!?」
春奈の驚きように逆にあかりが驚いたようだったが、あかりは照れくさそうに笑った。
「通信制だけどね…仕事するようになってから、あれをやってみたいとか、これを知りたいとか思うことが多くなって。だったら、欲張ってみてもいいかなって」
そう語るあかりに、思わず春奈は問いかけた。
「でも…あかり先輩も強化指定選手に入ったんですよね? そんな中で、どうやって練習と仕事と勉強を両立できるんでしょうか? わたし、とても練習といっしょに全部できると思えないし、それに…」
すると、あかりが人差し指を春奈の口元にすっと立てた。
「その答えは、春奈が持ってるはずだよ? 全部できないと思ったら、人はそこで理想を目指すのを止めてしまう。できるかできないかじゃなくて、どうすればできるかを考えていけばいいと思うよ。その過程で諦めることがあっても、それがその時のベストだし。…それに、自分の力が本当かどうかは、やりたいっていう気持ちとは無関係だと思う」
「あかり先輩…」
「古瀬さんはわたしも何回かあったから、あの人が強引なのもよくわかるけど…走れるってことは、それにチャレンジする権利があるってことだし――それに」
「それに?」
春奈が不安げな顔をすると、あかりは笑みを浮かべた。
「もし春奈がチャレンジするなら、わたしも一緒だから。ひとりで悩まなくてもいいし、なんなら…ね?」
そういって、あかりは向かいに座るひかるを見てニヤリと笑った。
「そ。わたしの時間はいつでも取ってもらっていいから、いつでも相談して」
ひかるとあかりに励まされ、春奈の顔にようやく明るい表情が戻った。
「ありがとうございます! 本当にわたしが目指せるのか分からないですが…、やれるところまでやってみます」
同じように、春奈のことを心配するあまりに表情が曇ったままだったひかるも、この日ようやく満面の笑みを浮かべるのだった。
消灯時間を過ぎた寮は静まり返っていたが、秋穂はこの時間になりようやく目を覚ました。結局、あかりたちと顔を合わせることはできなかった。なんとかロフトベッドへ戻っていたが、トイレに立とうとして上体を起こすと、頭からサッと血の気が引くのがわかり、身体が力なくベッドに倒れ込んだ。
そして、わずかに外から射す夜間照明を見つめて大きなため息をついた。
「春奈…」
<To be continued.>




