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#88 アイデンティティ

「はあーーっ…」


 6限の授業を終えて職員室へ戻ってきたひかるは自席の椅子にぐでん、ともたれかかると大きなため息をついた。女子陸上部の監督である以前に、ひとりの教員としての責務がある。クラス担任こそ持ってはいないが、ひかるは社会科の教諭として主に倫理や政治経済などのいわゆる公民科を担当している。つい今しがた終えた授業は、一般コースの1年生のクラスだった。特進コースや主に女子陸上部の生徒が所属する国際・スポーツ推進コースの生徒たちに比べると授業は騒がしく、今一つ身が入っていないようにひかるには感じられた。


「どれ…」


 ひかるは、さきほどまで使っていた倫理の教科書をパラパラと捲ると、あるページで手を止めた。


(『エリクソンのライフサイクル論』…)


 ドイツの精神分析家エリク・ホーンブルガー・エリクソンが提唱した、人間の一生における精神発達を8つの段階に分け、それぞれの段階において精神的な課題をクリアすることで精神的発達を遂げるとした理論だ。ひかるが今毎日のように相対する生徒たちは、エリクソン曰く『青年期』の真っ只中にあり、自我(アイデンティティ)を獲得することが課題とされる。ひかるの脳裏には、昨日のタクシーの社内の様子が映像の様によぎる。春奈は、ひかるの問いに答えられずに、ただ涙を流した。ひかるは、春奈の泣き顔を思い出すと職員室の天井を見上げた。


(春奈、キミは――これから、どうなっていきたい?)




 すると、職員室の扉がスッと開いた。職員室へ戻ってきたのはみるからに若い小柄な女性だ。ひかるが気付いて声を掛ける。


「あぁ、ミーちゃんお疲れ様」


「お疲れ様です、梁川先輩!」


 その言葉に、ひかるは椅子からずり落ちた。ひかるを「先輩」と呼んだのは、やはりこの4月から教員として採用された柳原瑞穂(やなぎはらみずほ)だった。瑞穂は、春奈とみるほ、そして真理の3人がいる国際・スポーツ推進コース2年A組の担任を務めている。ひかるは呆れながら口を開いた。


「ミーちゃん、同期なんだから『先輩』はやめて」


「えっ、だって梁川先輩、わたしよりも社会人経験長いじゃないですか?」


 確かに人事上は同期だが、社会人経験のあるひかるに対し瑞穂は新卒1年目だ。ひかるは、その細かい違いを説明しようとしたが、何かを思い出して首を振ると瑞穂に訊ねた。


「げふん! ミーちゃん、それでさ…春奈――冴島との面談、どうだった?」


 近隣の生徒は家庭訪問を行うが、春奈のように遠方からやって来て寮で生活する生徒は、親との電話面談の後に生徒との面談を別に行っている。今日は、春奈との面談日だったというが、ひかるの質問に瑞穂は首を振った。


「今朝、梁川先輩からお聞きしたことは特に冴島さんに言わなかったんですが…将来の目標を聞いたら、冴島さんは大学進学したいと言っていました…競技のことは特に何も言わずに…」


「…!?」




「お帰り。ここじゃ話しにくいこともあるだろうから、別のところ行こうか」


 ひかるは、授業から戻ってきた春奈を寮の玄関で待ち構えていた。制服のままの春奈を連れ出し、ひかるは長い通路を歩き始めた。


「え、ひかるさん…一体どこに?」


「…ちょっと、大学まで」


 それだけ言うと、ひかるも口を真一文字に結んだ。春奈も、昨日の件があって言葉少なに大学の敷地へ向かう通路をつかつかと歩いてゆく。


「…最近、お母さんとは連絡取ってる?」


「昨日、柳原先生と電話で面談したっていう連絡がありました。そのことについては特に…細かくは話してないですけど」


「…そうか…ほら、あそこ。高校の時、たまに来てたんだ」


 ひかるが指さした先には、大学本館の吹き抜けがあった。事務部の部屋を抜けた先に、人気のない談話スペースがあった。建物の構造上、植え込みの陰になって目立たず、利用する学生も少ないのだという。ふたりは静かに椅子に腰を下ろすと、しばしの沈黙ののちにひかるが切り出した。


「少しは、落ち着いたかな」


「はい…」


「わたしに、話してほしいんだ。春奈が将来何を目指してるのか…」


「…」


 春奈は、言いづらそうに顔をそむけた。ひかるはそれ以上は言わなかったが、春奈を黙ってじっと見つめている。春奈はそれからしばらく唇を噛んで俯いていたが、意を決したようにひかるの方を向いて、静かに口を開いた。


「わたし…」


「…うん」


「…陸上は、高校で辞めようと思ってるんです」


「…!」


 ひかるは驚いた表情を浮かべたが、ここで問い詰めてしまってはまた春奈は頑なに心を閉ざしてしまう。ひかるは動揺を隠すように、笑みを浮かべて訊ねた。


「それは…、何か理由があるの?」


 本城は、チームとして優勝を目指すために何をすべきか、どう練習を積むかは聞いても、自分自身が何になりたいかを問うてくることはなかった。本心を隠して過ごすことは、そう難しいことではなかった。だが、ひかるはそうはいかない。このままひかるに向き合わずに過ごすことはできないと、春奈は一つうなずいて話し始めた。


「笑われるかも…しれませんが」




 2年E組の教室には怜名と、同じく2年生部員の中尾瞳(なかおひとみ)が椅子に座り、机に突っ伏している秋穂のことを心配そうに見つめている。


「秋穂、大丈夫? 水もって来ようか?」


「いや…自分で持ってるから、大丈夫…」


 秋穂はそう言い、机に引っ掛けてある鞄を伏せたまま手を伸ばして開けようとするがうまく掴めず、代わりに瞳がペットボトルを取り出す。一晩明けても秋穂の体調は上向かず、ふらつくと言って授業が終わっても自席から立ち上がれずにいた。


「ほーちゃん、自分で歩けそう? もし厳しかったら、涼子たち呼んで来ようか?」


「いや…しばらく休んだから、もう大丈夫だと思う…時間だから戻ろ…」


 そういって秋穂はおもむろに立ち上がったが、そこまで言うと目の前に光が走り、バランスを崩して崩れ落ちてしまった。


「ちょっと、秋穂!! ねえ、秋穂、大丈夫!?」


「怜名っち、ちょっと待ってて!? わ、わたし誰か呼んでくるから!!」


 秋穂は気分が悪いのか、少しだけ口を開いて呻いた。


「う、うぅ…」




 春奈は、かつて怜名や真理にも話したことをひかるにも打ち明けた。志半ばにして父の浩太郎が亡くなったこと、いずれは浩太郎のように自分で事業を立ち上げたいこと。そして、大学ではその土台となる勉強をしたいということ。しかし――


「春奈。それは、走りながらでは出来ないことなのかな? …大学を卒業してからオリンピックランナーになった人もいるし、もちろん現役を退いてから事業を始めた人だっている…走ることを続けようという気持ちはあまりないのかな? …責めたりはしないから、キミの正直なところを聞きたい」


 食い下がるひかるに、春奈は戸惑った。ここまでの理由を言えば、ひかるはわかった、と言ってくれるはずだと思いこんでいた。そこから先の本心を口にしたら、ひかるに嫌われはしないだろうか――そう思うと、鼻の奥がふとツンと痛くなった。胸の奥から、嗚咽がこみあげそうになり目の前が涙でかすむ。すると、ひかるは春奈の手を握って言った。


「泣いちゃダメだ…! キミとわたしは違う人間なんだ。だから、それぞれの思いが違うことなんて当たり前なんだ。別に、キミが何を言おうとわたしは怒ったりしないし、失望もしない…逆に、キミの意見を聞いたからわたしがすぐに意見を変えることもない。だからって、縮こまる必要はない。…どう思っているのかを…聞かせて」


 そう語るひかるの顔もまた、紅潮している。春奈の手を握る力が強くなった。春奈が顔を上げると、ひかるは大きく頷いた。春奈は、まだ戸惑っていた。しかし、ひかるのまっすぐな視線にどこか安心を覚えたのも事実だった。春奈は、ゆっくりと深呼吸すると口を開いた。


「正直に…、オリンピック候補選手と言われたのは嬉しいんですが、まだ自分自身が信じられないというか…わたしがオリンピックに出て走れるとは…思えなくて」


 ひかるはそう話す春奈を遮ってでも、自分の思いを伝えたい衝動に駆られていた。だが、ここで口を差し挟んでは春奈の心を閉ざしてしまう――ひかるは奥歯をぎりぎりと噛みしめ、春奈に二度三度と頷いた。


「はじめての記録会から、今までは本当にあっという間でした…気付いたら、自分でも信じられないような場所にいるんです。これは、自分が努力してつかんだ力じゃない…こんな運動音痴なわたしが、なぜ突然今みたいなスピードで走れているのか、自分でも全然わからない…どうしてこんなに誰かに注目されているのかもわからない…テレビや雑誌に取り上げられても、自分が自分じゃないみたいで。わたしが、オリンピック日本代表候補だっていうことを引き受ける自信がないんです…」


 そこまで一息に言うと、春奈は手に持っていたお茶を飲み干した。ひかるの脳裏には、つい先ほど職員室で眺めていたシラバスの一節がふと蘇る。


(――『自我(アイデンティティ)の獲得』…環境が大きく変わって、心が追いつかないままこの子はずっと走っていたんだ…春奈…)


 ひかるは、春奈の両手をまだ離せずにいた。春奈が再び口を開く。


「今の力は、亡くなったお父さんがわたしに貸してくれた力なんじゃないかって…この力のおかげで、わたしは秋田学院に来ることができて、ひかるさんやみんなにも会うことができました。でも、アメリカから帰ってきて、わたしは社会のことも何も知らない。だから、高校を卒業したら、お父さんの力じゃなくて、自分自身で切り開いていかないといけないんだって…」


 そう語る春奈の目には、次第に力強さが戻っていた。涙の跡はもう渇き始めている。ひかるは春奈の話を黙って聞いていたが、大きくうなずくと汗ばんでしまった春奈の手をようやく離した。


「ありがとう。ごめんね、春奈…キミはずっと戦っていたんだね」


「戦う」という言葉に、春奈は驚いて両手をブンブンと振った。だが、あかりは首を振ると口を開いた。


「今はちょうど、色々なことに迷ったりする時期だと思う…だから、キミが体力の成長に心が追いついていなかったりすることもあると思う。でもね、お父さんがくれた力、手放してしまうことはないんじゃないかな」


「?」


「みんな違う人間だから、色々な生き方があっていい。日本にはまだ事例は少ないけど、海外にはプロ野球選手がお医者さんを兼業していたり、別の仕事と並行してスポーツをやってる人も多い…それに…あっ」


 ひかるはそう言うと、ガサゴソとポケットをまさぐって携帯電話を取り出した。


「もしもし? …あっ、お疲れ。もう着いた? わかった。今、春奈といるからすぐに寮に戻るよ」


「誰ですか?」


 春奈が聞くと、ひかるはニヤリとして言った。


「まぁまぁ、それは寮に戻ってのお楽しみかな。でも、知らない顔じゃないと思うよ。今、春奈がしてくれた話の参考にもなるかもよ」




<To be continued.>

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