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#87 岐路に立つ

「ハアッ、ハアッ…ハアッ! …ゴホッ、ゴホッ」


 スタンドへやっとのことでたどり着いた秋穂は、真理の腕をほどくとベンチへ倒れ込み、生気のない顔で咳き込んだ。様子を見ていたみるほが慌てて駆け寄ってくる。


「だ、大丈夫!? 秋穂ちゃん!」


 秋穂は、差し出されたスポーツドリンクを口に含むとゆっくりと飲み込み、差し込む日差しを眩しそうに手で避けると、弱々しく口を開いた。


「め、目の前が…チカチカする…!」


「秋穂!…キミたち、集合!」


 ひかるが慌てて駆け寄り、秋穂の顔を覗き込むとマネージャー達を呼んだ。秋穂は、血の気が引き青ざめた顔で深く2回、3回と息を吸い込んだ。


「…おそらく貧血だね…彩夏、ブランケット持ってきて! あと、舞里奈は冷えてないドリンクを…みるほ! キミはタクシーを呼んで、秋穂と先に戻ってもらってもいい? マサヨさんに連絡を入れて、必要があれば病院へ…」


 ひかるは矢継ぎ早に指示を出した。すると、後ろから真理が申し訳無さそうに声をかける。


「ひかるさん、ちょっといいですか…? さえじなんですが…」


「えっ?」




「そんな神妙な顔をしないでほしいな、冴島さん。何も、きみを取って食おうという話じゃない」


 上機嫌で扇子を振る男――日本陸連の強化委員長を務める古瀬とは対照的に、競技場の会議室の椅子に座らされた春奈は、無言のまま下を向いた。


「活躍は前から見ていたよ。それに、今日実際に走りを目にして私は確信した。君なら、オリンピックで金メダルを獲得できる。何十年に一度かの逸材だ――」


「…今は興味がありませ…」


「はい?」


 ただでさえ初見の男だというのに、デリカシーのない古瀬の言動に春奈は絞り出すように早口でまくし立てた。が、それを遮るように言った古瀬に思わず春奈は身を固くした。古瀬は、大仰に咳払いをして続けた。


「冴島さん、君は何か誤解をしているようだね。この話に、君が興味があるかは関係ない。なぜなら、これはオリンピックを目指す話だからだ。オリンピックで日本代表になるということは、望んでもなれないこと――つまり、君はこの話を喜んでうけるべきなんだ」


「興味がありません」


 先程よりも大きな声で春奈が言うと、古瀬は眉間に深い皺を寄せて憮然とした表情を見せた。その表情に恐れをなしたのは春奈ではなく、同じ会議室にいる陸連の職員だった。古瀬が苛々としながら口を開こうとしたその瞬間、会議室のドアを激しく叩く音が聞こえたかと思うと、ドアはバン!と勢いよく壁に叩きつけられた。


「春奈!! …ちょっと、ウチの子に何してくれてんの!?」


 ひかるが、血相を変えて飛び込んできた。


「何だお前は! 会議室に黙って入ってくるとは…!?」


 職員がひかるを制しようとすると、ひかるはその職員の手をパシッと跳ね除けて、春奈の横へ腰掛けると声をかけた。


「大丈夫?」


「ひかるさん…!」


 春奈の怯えた表情を見るや、ひかるは向き直って古瀬の方を見た。古瀬は先程の憮然とした表情を崩さずに言った。


「誰だ、君は」


「秋田学院女子陸上部監督の梁川ひかると申します――このような場所で日本陸上界の不滅のレジェンドにお目にかかれて光栄ですわ、古瀬先生。…ですが、女子生徒に男性ふたりで声を掛けて連れて来られるなんて――とても『世界の古瀬』と呼ばれた先生に相応しくないお手荒なお誘いと思うのですが――ところで先生、今日はどのようなご用件で?」


 褒められたのか咎められたのか、古瀬は複雑な表情で口を開いた。


「決まっているだろう。世界の古瀬が、冴島さんを強化指定選手にするためにやって来たんだよ」


「…強化指定!?」


 そう聞いてひかるは、内心なおさら首をかしげる思いだった。オリンピックに向けた強化指定選手の内示を、かつて箱根駅伝でも名門千代田大学のエースとして活躍し、マラソンに転向後もオリンピック代表としても名を馳せた古瀬が自らオファーしに来たとあれば、よほどのことがなければ諸手を挙げて喜ぶはずだ。しかし――


(春奈…?)


 ひかるの目には、口を真一文字に結んで押し黙る春奈の横顔が映っていた。ひかるは、そのまま視線を再び古瀬へと戻した。古瀬は、ひかるに目を合わせると、さも理解できないといった風情で両手を開いた。


(春奈――一体何を考えてるの?)




 秋穂はみるほと寮へ戻ると、マサヨさんを伴いその足で近くの病院へと向かっていた。


「秋穂、アンタ元から貧血持ちだったっけ?」


 ワゴン車の中でマサヨさんに問われた秋穂は、首を横に振った。


「初めてです…レース中に目の前が真っ白になって」


 水分を補給し、ふらつきこそようやく収まったものの変わらず青白い顔のまま秋穂はポツリとこぼした。みるほが心配そうに顔を覗き込む。


「みんな、心配してたよ…春奈ちゃんが途中まで肩貸してくれてたんだけど」


「あぁ、覚えてる…そういえば、春奈はどこへ?」


「真理ちゃんが言ってたんだけど…あの、箱根駅伝の解説でよくテレビ出てる人が春奈ちゃんに声かけて行っちゃったって…あの…古瀬さん?」


 みるほが名前を口にするやいなや、秋穂は上体をガバッと起こしみるほの肩をグッと掴んだ。


「ど、どういうこと!?」




 空調の効いていない会議室に1時間近くいたせいで、春奈もひかるも思わず汗ばむほどだった。すでに、他の部員たちはマイクロバスで先に寮へと戻っている。古瀬を見送ると、競技場に残されたふたりは関係者入口のところでしばらく立ち尽くしていた。ひかるがおもむろに口を開いた。


「春奈、なんか飲みたいものある?」


「えっ?…喉渇いたので、なんか…甘いもの飲んでもいいですか?」


 古瀬と話し込むうちに総体は終わり、すでに日は傾き始めていた。ひかるが呼んだタクシーに乗り込むと、春奈は手にしたジュースをごくりと音を立てて飲んだ。徐々に日が沈みゆく中、車内にはラジオのニュース番組が小さな音で流れている。


「春奈…聞いていい? さっきの古瀬先生との話のこと」


「えっ? …はい」


「本当は、もう少し後に部員全員と面談するから、その時に聞こうとは思ってたんだけど。思わぬ来客だったね。もし、今聞かせてくれるなら聞いておきたい。春奈はどうしたい?」


「う…」


 そう問うたひかるは、笑っていなかった。春奈の目を真っ直ぐにみて、逸らそうとしない。春奈は迷っていた。これまで、今後の進路について明かしたことのある人間は怜名と真理だけだ。あれほど密に練習を共にする秋穂にも、頼れる先輩だったあかりにも、ましてや前監督だった本城にすら明かしていない。普通は、喜んで受けるべきだろうと感じていた。日本代表という、数年前には想像すらしていなかった地位を喜んで受けこそすれ、ここでもし断りたいと口にしたらひかるは何と言うだろうか――頭の中にひかると、春奈をとりまく周囲の人々の残念そうな顔が浮かんでは消える。


「うっ、うっ」


 気づいたときには、頬をぼろぼろと涙が伝っていた。


「春奈?」


「うっ、ううっ、…ひかるさん…ひかるさん」


 春奈は、それ以上の言葉を継ぐことができなかった。




<To be continued.>

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