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#85 怜名、本気見せます!

 スタートラインには、5人の選手が並ぶ。その中でも、小さな臙脂のユニフォームはよく目立つ。



『5番、牧野怜名さん。秋田学院――』


 場内のアナウンスに右手を上げると、一礼してスタートラインへ向かう。そこには、昨年までの少しおどおどとした怜名の姿はない。真っ直ぐにコースを見つめると、左足を引いて上体をスッと落とした。スタンドで見つめる秋穂と恵理子も、ゴクリと唾を飲み込む。


『…On your mark!』


 パァン!


 5人のランナーが一斉に飛び出す。選手たちがコースの内側をキープしようと縦に長い列になろうとするその時、恵理子は突然背後からの大きな声に驚いて振り向いた。


「ゴー! ゴー! レッツゴー・レッツゴー!」


「「レッツゴー・レッツゴー・マキレナ!」」


「うわっ! …由佳!?」


 そこには、応援の音頭を取る由佳の姿があった。大きな声を張り上げる由佳に続いて、他の部員たちも怜名に声援を送る。思わず口元を手で押さえて驚いていると、春奈がスタンドの奥からやってきて、恵理子たちの横に座った。


「これ、由佳ちゃんのアイデアなんだよ」


 春奈は、親指で由佳の方を示すとニコリと笑った。少しでもチームの役に立ちたいという由佳の相談に、春奈や愛たちが加わって考えた結果だという。恵理子は微笑んでうなずくと、再びコースへと視線を戻した。まもなく、選手たちは最初の障害を迎える。


 ハードルというには大きな障害を目の前にすると、後方につけていた怜名がスッとスピードを上げる。ジャンプすると低い体勢のまま障害を蹴り、その力で力強く踏み出していく。すぐ前を走る選手の真横へつけると、怜名はその選手の表情をちら、と窺った。しかし、相手は170センチを越えようかという長身の選手だ。大きなストライドで再び怜名を離そうとする。


「怜名先輩…」


 恵理子が心配そうに声を漏らすと、秋穂は恵理子の方を見て無言で頷いた。先頭の選手との差が少しずつ開く。先程よりも差の大きくなった列は2つ目の障害へと向かっていく。障害を超えると、その下には水濠が待ち受けている。日光を反射して光り輝くその水面に、最初のランナーが飛び込んでいく。怜名も、すぐ後ろから障害を超えるべく高く跳んだ。


「あっ」


 恵理子が短く叫んだ。その小さな体が水濠へと飛び込むと、バーンという音を立てて水しぶきがあがる。水濠を抜ける瞬間、怜名がグッと前に進み出たように見えた。


「…速い!」


 怜名から視線をそらすことなく、春奈がつぶやいた。先頭の選手が体勢を崩し、水濠でもたつく間に怜名はすでにその選手をかわして先頭へと躍り出る。


「怜名先輩、すごいです! …でもまた…」


 恵理子は興奮と心配の混じった、複雑な表情を見せた。2位に下がった選手も、どうにか体勢を整えると再び怜名を追い抜こうと試みる。コーナーを抜けて、障害が再び眼前に迫る。2位の選手は地面を蹴り上げると障害に足を掛けたが、怜名はその視界にはいない。他の選手が障害を踏んで上へ飛び上がってしまう中、怜名は低い体勢のまま前へと踏み出した。障害を超えるごとに、徐々に後続との差が開き始める。


「…!」


 恵理子が呆然と怜名を見つめる中、秋穂が言う。


「あの子は、自分の何が強みなのかを全部分かってるんだ。スピード勝負なら、春奈とわたしには今の所勝てない…でも、見てるとわかると思うけど怜名はボディバランスがすごく良いし、身体が柔らかい。だから、スピードで劣っても低い体勢で跳んで着地も崩れないから、ああやって水濠からヒュッと抜け出せる。あとは…」


 秋穂がそう言う間にも、怜名と最後尾の選手との間隔はジリジリと開いていく。それは2番手の選手も同じことだった。小柄なその身体には不得手に思える障害走も、怜名が空に舞う度に、後続との差は少しずつ開いていく。


「怜名は、とにかくタフなんだよ。あの子はちょっとしたコースの上下なら全然気にしないし、多分わたしがこれ走っても勝てないかもしれない…うちの部員の中で、怜名は多分一番自分のことをよく知ってる」


 秋穂が言うと、恵理子はクルッと秋穂の方を向き直って言った。


「秋穂先輩…! わたし」


「分かった?」


 秋穂は、ポンと恵理子の肩を叩くとニヤリとして白い歯を見せた。


「そう。恵理子も、スピードが長所なんでしょ?だったら、それを磨いていった方がいい。怜名は、2000m障害に出るのに短距離チームの練習に行ってみたりとか工夫してる。たとえば恵理子なら、同じ800mが得意なカッキーとか菜緒先輩と同じメニューに入ってみるとか…」

 すると、そう語る秋穂の話を聞いていた春奈が、恵理子との間にぐいと割り込んできた。


「…秋穂ちゃん、素直に『一緒にやろう』って言えばいいじゃん♡」


「なっ、春奈!?」


「!? 秋穂先輩!?」


 誰あろう秋穂こそ、佑莉や菜緒と同じ800m出身の選手だ。だが、生来の照れ屋な性分が災いして、素直に恵理子を誘えずにいたのだ。秋穂は春奈の脇腹をギュッと掴むと、思わずドスの利いた伊予弁でつぶやいた。


「…シレッと誘おうと思うとったのに…余計なこと言いよる…、あっ」


 くすぐったさに悶絶しながら、春奈は反論した。


「普通に誘えばいいじゃん…ほら、恵理子ちゃん見てみなよ」


「え…!?」


 一連のやり取りを聞いていた恵理子は、目を輝かせて秋穂を見つめている。


「い、いいんですか、秋穂先輩!? …ありがとうございます!!」


「あ…あっ、もち、もちろん歓、歓迎だ…わよ? 一緒に…頑張ろう…ね?」


 その様子を見ていた春奈は、思わず苦笑いを浮かべた。


(秋穂ちゃん…無理に標準語に直さなくてもいいのに)





 最後の1周を迎え、由佳は更に大きな声を張り上げ怜名を鼓舞するように声援を送る。他の部員たちもその背中に向かって名前を呼ぶ。


「強いぞ、マキレナ! 速いぞ、マキレナ! レッツゴー・レッツゴー!」


「「マキレナ!」」


 先頭を行く怜名は、堂々と風を切ってゆく。流麗なフォームで障害を蹴ると、水濠を飛び越えるように舞った。後続の姿は相当後方へと去っていた。怜名は、春奈たちの待つスタンドを一瞥すると大きくうなずいた。


「れなーー!!」


 春奈の声が届いたのか、最後の障害を飛び越えると怜名はスピードを上げた。直線に入ると、勝利を確信して右手で拳を作った。


「怜名、やったね! おめでとう!!」


 その小柄な身体がゴールラインを軽やかに超える。見事に、怜名は2,000m障害で優勝を飾ってみせた。春奈と秋穂は、両手を上げてハイタッチすると怜名に向かって大きく手を振った。





 競技を終えた怜名がスタンドに戻ってくると、秋田学院の関係者席に歓声と大きな拍手が上がる。怜名は、由佳の姿を見つけると真っ先に駆け寄った。


「ゆかちん! 聞こえたよ、ありがとね!」


「本当ですか!? わたし、少しでも誰かの役に立ちたくて、夢中で叫んで…嬉しいです!」


 そう言って嬉し涙をこぼす由佳を、怜名は背伸びをしてギュッと抱きしめた。


「怜名、おめでとう! すごいよ!!」


「春奈、秋穂! やったよ!」


 全身で喜びを表現する怜名を、春奈たちは全力で抱きしめる。そこへ愛たちも加わり、怜名はもみくちゃになっていた。春奈は、怜名の頭を撫でると言った。


「怜名のおかげで、みんな勇気もらえたよ! 3,000m、頑張ってくるから応援よろしくね」


「もちろん! 怜名ちゃんに応援まかせなさいって!」





 3,000m走は、秋田学院の独壇場の様相を呈していた。


 1組目では、先日の恵理子の快走に触発された沙佳と、穂乃香・友萌香の松山姉妹が発奮し、穂乃香が1位でゴールすると次いで沙佳、友萌香が続く展開となった。恵理子は上級生主体の2組目で中位に沈んだが、それでも先日の記録会からさらにタイムを縮めていた。


 3組目のスタートには春奈と秋穂のほかに、同じく2年生の三本木涼子さんぼんぎりょうこ矢田真理やだまり田鍋明日香たなべあすかがエントリーされていた。日頃は陽気な3人が、いつになく表情が硬い。


「どうしたの? 緊張してる?」


 春奈が訊ねると、その硬い表情のまま真理が答えた。


「ねえさえじ、これが…武者震いって言うのかな? レースでこんな緊張するの初めてだよ…去年は、さえじやほーたんたちと一緒に走るなんて考えられなかった。わたしたち、ふたりには全然敵わないけど…さっきの怜名っちに勇気もらったから、がんばるよ。今日はよろしくね」


 涼子と明日香も、お互いに顔を見合わせて大きく頷いた。秋穂もそれに続く。


「もちろん…お互いにベスト尽くそう!」


『10秒前!』


 スターターの声が場内に響く。春奈もまた大きくうなずいて、それに力強く答えた。


「うん…行こう!」


『On your mark!』





<To be continued.>

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