#84 敵を知り、己を知る
ひかるは週に1回程度は寮に泊まって、部員たちとコミュニケーションを取るようになっていた。最初は警戒する様子のあった部員たちも、ひかるが食事から入浴まで共にすることで徐々に心を開き、部の中に連帯感が生まれつつあった。
県の総体を翌週に控えたある日の晩、各学年のキャプテンと副キャプテン、そしてマネージャーたちはひかるの号令のもと、寮の資料室――あるときはマネージャーたちの分析・集計の作業部屋であり、作戦会議室でもある――へと集められていた。
「目標…ですか?」
春奈が首を傾げると、ひかるは腕を組んで言った。
「そう、目標。キミたちの目標は何?」
思わず、春奈は秋穂と顔を見合わせると恐る恐る口を開いた。
「全国高校駅伝で…優勝…することです」
「そうだよね。それは、わたしもキミたちも常々言ってることだから当然だと思うけど、優勝するためにはあと何分タイムを縮める必要がある?」
「2分14秒です」
春奈は、全国高校駅伝で優勝した桜島女子とのタイム差をはっきりと覚えていた。ひかるは腕組みをしたまま、一つうなずきさらに春奈たちに聞いた。
「オーケー、春奈。なら、これは全員に聞くんだけど、桜島女子の出場メンバーと、この前のレースで走った一美、有希、春奈、秋穂。それに、卒業した淳子を含めてどれだけタイムに差があるか分かる人いるかな?」
春奈たちは首を傾げた。試合当日、自分と同じ区間を走る選手はマークしていたが、チームごとの平均タイムまではチェックしていなかった。それは、マネージャーの彩夏やみるほも同様のようで、答えあぐねて困惑した表情を浮かべた。すると、1年生マネージャーの舞里奈が手元のファイルを広げて答える。
「全国高校駅伝に出場した先輩方の平均タイムは9分24秒。そして、桜島女子の平均タイムは9分40秒。実は、先輩方の方が記録上は速いんです。ですが、春奈先輩と1区を走った桜庭さくらさんは、公式記録では11分15秒ですが、あのとき春奈先輩と1秒差でリレーしたことを考えれば、9分ちょうどぐらいの実力のある選手だと考えられます――つまり、この記録を適用すると、桜島女子の実質的な平均タイムは9分13秒。平均タイムトップだった仙台共和大高のタイムすら上回ります。桜島女子を抜いて日本一になるには、一人ひとりが最低11秒記録を縮めなければいけないと思います」
ひかるは、まさか舞里奈が答えを用意しているとは思わず、驚いて目を見開いた。当の舞里奈は、平然とした顔で資料を眺めている。春奈たちは言わずもがな、呆気にとられたままだ。
「舞里奈ちゃん、すごい…」
春奈がポツリとこぼすと、ひかるが感心した様子で舞里奈を褒める。
「さすがだね舞里奈、模範解答以上だよ。香坂先生が褒めちぎってただけあるね――舞里奈の言ったとおり、優勝するためには最低ひとり11秒は記録を縮めないと勝てないってこと」
冷静を装っていた舞里奈は、突如褒められて顔を赤くして照れた。香坂とは、舞里奈の出身校である埼玉・川口にある南戸塚中学校の陸上部顧問だ。南戸塚中は全国中学校駅伝にも度々出場している強豪で、舞里奈は中学の3年間をマネージャーとして勤め上げ、香坂のお墨付きもあって初めての専任マネージャーとして入学してきた。その用意周到ぶりに、ひかるも満足気に口元に笑みを浮かべた。舞里奈が続ける。
「わたしたちが優勝を狙っていく上でマークしていかなければいけないのはまず桜島女子と仙台共和大高、そして大阪の浪華女子です。この3校には、ケニアやエチオピアからの留学生がいます。仙台共和大高も3,000m8分台のジオンゴさんが卒業しましたが、1年生にガトニ・ワンジラという新しい留学生が入学しています。この3校に、京都の鹿鳴館。そして、昨年は出場を逃した埼玉共栄と、青森の山川学園が現実的に優勝を狙える戦力と言われています――」
思わず春奈たちはゴクリと唾を飲み込んだ。資料を閉じた舞里奈に代わり、ひかるが口を開いた。
「イメージはできたでしょ?キミたちが優勝するまでに、あとどれだけのタイムを縮めなければいけないのか。そのタイムを埋めるために、どんな練習を詰んでいくのか。みんな、計画表に入れる目標の数字と、基本のトレーニングを考えてみてほしい。ただ距離を走ればいいってモンじゃないから、下級生のタイム設定やメニューの作成は、上級生やマネージャーがサポートしてあげてほしい。あとは、県の総体がもうすぐだからね。この1ヶ月2ヶ月の成果を測るいい機会になるんじゃないかな」
恵理子は、配布された計画表を手に難しい顔をして部屋に戻ってきた。
「どうしたの? そんな難しい顔して」
「こういうの初めてで…自分で考えろって言われても、自分がどういう練習をしていけばいいのか、よく分からなくて」
「うーん…」
春奈も、恵理子の悩みようを見て同じように険しい顔つきに変わる。恵理子とは同部屋とはいえ、まだ生活をともにしてひと月足らずだ。技術的な話はまだあまりしていない。恵理子の強みも弱みも、未だ分かりかねるというのが正直なところだ。すると、
「春奈、ちょっといいかな」
「秋穂ちゃん?」
秋穂が、同部屋の由佳を連れて春奈たちの部屋へとやってきた。見れば由佳は鼻の頭を赤くして、ひくひくと泣きいっていたようだ。困った様子の秋穂は、由佳と恵理子に聞こえないように小声で春奈へ助けを求めた。
「由佳が、今走れないことを気にしてて。他の1年生がもう記録会にも出てるのに、キャプテンらしいことが何もできてないって…春奈、キャプテンだし、リハビリもこの前経験したでしょ? 由佳に…なんていうか、アドバイスしてほしいんだ」
「アドバイス? わたしでいいの? …あっ」
「ん? どうしたの?」
「じゃあさ、秋穂ちゃんにもちょっとお願いがあるんだけど…」
そういうと春奈は、秋穂に何事かを耳打ちすると由佳を連れて1階の談話スペースへと向かって行った。部屋には、秋穂と恵理子が残された。微妙に気まずい空気がふたりを包む。
(春奈! …ええかダメかぐらい先に聞かんかい!)
人見知りの秋穂は、心の中で春奈に悪態をついた。悟られないようにすっと恵理子の方を向くと、椅子に座った恵理子が申し訳無さそうに秋穂を見つめている。
「あ…あの」
秋穂が口を開こうとすると、遮るように恵理子がまくし立てた。
「たっ、高島先輩! どうしたら、高島先輩のように速くなれるのかを聞きたくて…教えてください!」
「ええぇ…?」
「強みが分からない…かぁ、でもこの前の記録会、1年生の中で一番速くゴールしたんじゃなかったっけ?」
「そうなんですけど…それはただうちの1年生の中の話ですし、上級生の皆さんもそうだし、他の学校にだって速い人はもっといる…そんな中で、何を武器にすればいいのか…」
そういって恵理子は頭を抱えたが、秋穂は明るく答えた。
「そこまで自分の周りの風景が見えてるなら、大丈夫じゃないのかな」
「えっ?」
「それが分かってる人とそうじゃない人では、1年後に差が開くよ。目標が見えてるってことだから。あとはどこに目標を置くかと、目標に届くために何をするかだから」
「うーん…? 分かったような、分からないような…」
秋穂は、さきほどのひかるの話をアレンジしてうまく伝えたつもりが、恵理子はまだ今ひとつ咀嚼できていないという様子だ。秋穂はしばらく考えると、急にポンと手を叩いた。
「?」
「恵理子ってさ、短い種目のほうが得意なんだっけ?」
「えっ? はい、800の方が自信はありますけど、駅伝はもっと距離長いですし…」
恵理子が戸惑うと、秋穂はニヤリとして言った。
「じゃあ、今度の総体の時、いいお手本があるから一緒に見てみる?」
秋田県高校総体は、そのすぐ次の日曜日に行われた。恵理子は、約束通り秋穂と並んで競技場のスタンドに陣取る。眼前のコースを見やると、恵理子は首をかしげた。もともと800mの選手だった恵理子には、あまり縁のない種目だ。トラックを横にまたぐ平均台のごとき障害と、水をたたえた水濠は正直見慣れないものだった。恵理子の言葉に、秋穂は頷いて言った。
「2,000m障害…ですか?」
「そう、2,000m障害。スタート見てみてよ」
「あっ、怜名先輩!?」
5人ほどの選手の中に、ひときわ小柄な臙脂のユニフォーム姿があった。少し伸びた髪をふたつに結ぶと、怜名は念入りにウォーミングアップを始めた。しかし、恵理子には、秋穂がなぜ怜名の出走を見るように言ったのか、まだきちんと分からずにいた。
「秋穂先輩、わたしと怜名先輩って得意な種目もタイプも全然違う選手だと思うんですが…」
恵理子が尋ねると、秋穂は横目で見ながらにっこりと笑った。
「ハハハ、そうだよね。どっちかというと、見てほしいのはそこじゃないかな…怜名がどんな選手で、何を思ってこの種目に出たのか」
「…?」
不思議そうな顔で秋穂を見つめる恵理子をよそに、スタートラインの怜名はウォーミングアップを終えるとピョンピョン、と大きくジャンプした。顔を見上げると、秋穂と目が合う。怜名は秋穂に向かってサムズアップすると、再びコースの前方を見やった。
(さぁ、怜名ちゃんの本気…見せちゃいますかね!)
<To be continued.>




