#83 復活のニューレコード
春奈はふと後ろを振り向くと、すぐ後ろをゆく秋穂と一美のふたりと目が合った。少し驚いたような表情を浮かべたが、春奈はすぐに笑みを浮かべてうなずく。秋穂もしかり、一美もこの1年で地道に走力を身につけてきていた。そして春奈を見て一度、並走するお互いを見つめてもう一度うなずくとふたりともグッとペースを上げた。
「速い…!」
秋穂たちとも差の開いた怜名は、苦し気につぶやいた。高校生どころか、先頭はこの競技で日本最速のレコードホルダーだ。しかし1年前、入学直後のタイムトライアルのことを思い出すと怜名もまた笑顔を浮かべた。当時、レース中盤を過ぎるとはるか前方にあった春奈の背中はこの1年で徐々に近づいてきているのがわかる。2年になり、一緒だったクラスも、そして寮の部屋も別々となった。それでも、去年までは選手として遠い存在だった春奈が少しずつ近づいたのを感じ、苦しいながらも怜名はニヤリと不敵な笑みを見せた。
(絶対に…春奈の隣で走れるように…なるんだから!)
沙佳は、先頭でどんどんペースを上げていく春奈をただ呆然と見つめていた。ラスト1キロを切り、徐々に秋穂たち離れても春奈のペースは変わらない。それどころか、秋穂と一美も第2集団との差を徐々に開きつつある。怜名も、第2集団へ吸収こそされたものの、他の部員たちと一団になり集団走の中心を形成していた。
「…!」
沙佳の表情は、険しいままぴくりともしない。春奈たちの走りを見て確信したのだ。春奈たちは練習で手を抜いているわけではなかったのだと――ひかるの就任以降、部員たちはそれぞれに細分化されたメニューを組み立てて練習を行っているが、部全体での練習は最低限に抑えられている。まだ学年全体でのメニュー主体の1年生と違い、上級生たちは沙佳たちの見えないところで黙々とトレーニングを積んでいる。それは春奈たちもしかり、沙佳と同部屋の菜緒も同様だ。知らないうちに、見えるだけの情報だけで自然と周囲を見下していたのだ。菜緒は元々3,000mを9分30秒台で走れるだけの力があるが、昨年1年は不調をかこい10分を切ることさえままならなかった。しかし――
(芳野先輩…速い!)
格下だと高をくくっていた菜緒が、集団を引っ張っている。ペースの落ちてきた怜名を捉えると、一気にスピードを上げて第2集団を突き放した。菜緒に追いすがる佑莉も、2年生の中では春奈と秋穂に次ぐタイムを持つランナーだ。沙佳の脳裏に、数日前に春奈に言い放った言葉がよぎる。
(わたしにはわたしのやり方があります。放っておいてください――)
心臓が音を立ててドクドクと波打ち始める。更にスピードを増す春奈たちを見て、沙佳は胸元まである長い黒髪をギュッと握りしめ、ゴクリと唾を飲み込んだ。
(どうしよう…先輩たちに…とんでもないことを言ってしまった)
春奈は残り2周を切って、最初のコーナーへと入っていった。ペースは落ちることなく、秋穂たちとの差は徐々に開きつつある。ひかるは、スタンドから身を乗り出すようにしてレースの様子を窺っていた。
「ひかるさん!」
「彩夏、おつかれ。どうした?」
ひかるが訊ねると、彩夏は握りしめたメモとストップウォッチを見せて興奮気味に言った。
「春奈、このまま行けば3,000の記録更新できるかもしれません!」
「おおっ?」
「ここまでキロ2分58秒ペースで来ているので、残りの1周で4秒差を詰められればですが…それでもかなりハイペースなので、ここからまだスパート行けるかどうか…」
そう話す彩夏の声が聞こえたかのように、ふたりの目線の先を走る春奈が一気にスピードを上げる。それは5,000mの日本新記録をマークした時と同じように――まるでカチッと、何かのスイッチが入るように。
「「行ったー!!」」
ひかるは、思わず彩夏の手を取るとふたり同時に叫んだ。もはや、後方の秋穂たちは視界にも入ってこない。周回遅れとなるランナーを続々とかわし、さらにペースを上げてゆく。
カラン…カラン…
最終周を告げる鐘の音がトラックに響く。颯爽と駆け抜けていく春奈の背中に、本部テントのすぐ傍に陣取っていたみるほと、1年生マネージャーの枯木舞里奈が大きな声で叫んだ。
「春奈ちゃん、ラスト1周! ファイトー!」
「春奈先輩、ファイトでーす!!」
ペースを上げたのは春奈だけではなかった。前方を走る春奈の背中が遠ざかったのを確認すると、秋穂と一美はお互いにうなずきペースを上げた。それに呼応するように、さらに後方を走る菜緒や怜名、そして佑莉たちもラスト1周でスピードを上げていく。その様子を、1年生たちはみな一言も発さずに見つめている。対照的に、レコードホルダーの新たな記録達成を予感した会場からは歓声とざわめきが徐々に大きくなる。
「8分25、26、27、28…」
彩夏は、手元のストップウォッチと春奈を交互に見つめていた。最終コーナーを周り、最後の直線へ入る。
オオオオオォ…!!
沙佳は、ゴールラインへ迫る春奈の表情を遠巻きに見つめていた。すると、歓声が耳に届いたのか、春奈が不敵にニヤリと微笑むのが見える。それは僅か、ゴールラインを超える数秒前のことだ。おそらく、それに気付いたのも沙佳だけであろう。
「…!」
沙佳は、険しい表情のまま直立不動で固まってしまった。
「8分47!」
直線を駆け抜けてゴールラインを超えた春奈に、満足げな笑顔が弾ける。コースを外れた春奈に、待機していた部員たちが駆け寄ってくる。
「冴島先輩! おめでとうございます!」
「ありがとう…ほら、レースはまだ続いてるから、みんなのこと応援しないとだよ」
そういって、春奈は興奮して騒ぐ1年生たちをたしなめた。沙佳には、その光景すら春奈の余裕のように見える。冷汗なのか、ひと筋の汗が額からこぼれ落ちる。
「一美…9分05、秋穂…9分06!」
興奮をじっと抑えるように、彩夏が部員たちのタイムを一つずつ記録していく。秋穂もベストタイムを更新していたが、一美もここしばらくの好調そのままにさらに自己記録を更新し、とうとう秋穂のタイムを超えていた。さらに、続く菜緒や怜名たちも、これまでの3,000mのタイムを軒並み更新してゆく。監督席に戻ったひかるを、他校の監督たちが鋭い目線で見つめる。
「本城君がいなくなってどう転ぶかと思ったが、あの若いの…なかなかやるな」
ある監督がぼそりと呟いた一言が聞こえたのか、ひかるはスーツを翻して席を立つと、その監督の方を向いて静かに会釈をして去っていった。
翌朝、寮の目の前にあるグラウンドには部員たちが一堂に会していた。基本的に朝練習は廃止され、部員たちの自主練習の時間となっていたが、月に1度全体の状況把握のために、1時間の全体走が設定されていた。
「あれ、菜緒、さーやはどこ?」
「どこ行ったんやろ…? さっき、トイレ寄ってからすぐ行きますって言っとったんやけど…呼んで来よか?」
そう言って菜緒は寮の方へと戻っていったが、その直後に菜緒の大きな叫び声が聞こえた。
「えええええええええ!?」
その声に部員たちが全員寮の方を振り向くと、驚いて固まる菜緒のすぐ奥から沙佳が現れた。ただし、昨日まであったはずの黒々とした長髪ではなく、もはやベリーショートとも言えるほどの短い髪で。
「さ、さーや、その髪どないしてん!? さっきまで長い髪やったやろ!?」
「ええええ!?」
部員たちから驚きの声があがると、沙佳は静かに口を開いた。
「…さっき、洗面所で切りました」
菜緒が部員たちの方へと沙佳を連れてくると、沙佳は一美と春奈たちの方を向き、直立不動で叫んだ。
「濱崎先輩、冴島先輩…そのほかの先輩方も全て…生意気なことを言って、本当にすみませんでした!!」
「!!?」
身体がもはや直角に折れ曲がっているように見えるほど、沙佳はグイッと頭を下げた。一美たちが慌てて駆け寄る。
「さ、さーや、頭上げな!? それより、髪、ど、どしたの!?」
「荒畑さん、ちょっと落ち着いて!だ、大丈夫だから、ほら、ねぇ!?」
突然の出来事に、穂乃香たち他の1年生はポカーンと口を開けている。上級生たちがざわざわと慌てる中、事情を知らないひかるもトラックへやってきた。低血圧というひかるは気だるげに歩いてきたが、沙佳の変わり果てたその姿を見つけると、目を見開いて絶叫した――
「ちょ、ちょっと沙佳、あんたどどどどどうしたの、そ、その髪!? 何があったの!? ほ、ほら、キャプテン副キャプテン全員集合!!」
そう言ってひかるは慌てて沙佳の元へ駆け寄ろうとしたが、ランニングシューズのほどけた紐を自ら踏んでしまい派手に転んでしまった。一部始終を並んで見ていた怜名と秋穂が、ボソッとつぶやく。
「ねぇ秋穂、ひかるさん朝から元気だね…」
「そうじゃの、ひかるさんが一番賑やかじゃけん…あ、あっ、そ、そうだね、ひかるさんが一番賑やか…だわね…だね?」
「…秋穂、無理やり標準語にしなくていいんじゃない…?」
<To be continued.>




