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#82 On Your Mark

 新たな年度になって初めての記録会のため、秋田学院陸上部の面々はバス2台に分乗し、一路由利本荘市へと向かっていた。記録会は長距離だけではなく、短距離や跳躍、投擲とうてきといった種目も行われる。早朝からバスに揺られて競技場に到着した1年生部員たちは、眠い目をこすりながら駐車場へと降り立った。一美は、全く同じタイミングで大きなあくびをした穂乃香と友萌香を目ざとく見つけると歩み寄った。


「ほの、ゆめ、そんなデッカイあくびしてないで、早く整列」


「ごめんなさーい、つい眠くって」


「そうなんです、バス乗ってたらウトウトしちゃいました」


 穂乃香たちは、悪びれずに言った。傍らでそれを聞いていた沙佳がムッとしてふたりを見つめたが、それには気付かないようだった。部員たちの前にひかりが進み出る。


「おはようございます。今日は、1年生にとっては初めての記録会だね。…とはいえ、3,000mのスタートまでは結構時間があるから、各自準備を怠らないように。上級生は、準備してきたことを発揮できるように、各自目的意識をもって準備してね。OK?」


「「はい!」」


 部員たちは、各自ウォーミングアップなど準備に入った。すると、ひかるが呼びかけた。


「ちょっと2年、3年のキャプテンと副キャプテン、それからマネージャー集合!」


 その声に、春奈と一美、そして副キャプテン、マネージャーたちが再び集まる。ひかるは、手招きをすると春奈たちに言った。


「申し訳ないんだけど、キミたちは自分たちの練習の合間でいいから、1年生たちの様子も見てもらってもいいかな? わたしも当然見るんだけど、これだけの人数を一気には見切れないからさ」




 新1年生の多くが、菜緒と2年生の副キャプテン・瀧原愛たきはらまなについてトレーニングを行っている中、沙佳はひとり離れた場所でトレーニングを行っていた。


「みんなと一緒のトレーニング、行かなくていいの?」


 春奈が近づいて声を掛けると、イヤホンで音楽を聴きながらなのか、ややあってから振り向いた沙佳は露骨に嫌な顔をして言った。


「他の部員と同じ練習をしなければいけないというルールはないと思います」


「…自信があるんだね」


 つっけんどんな態度の沙佳に春奈は思わずひるんだが、それを悟られないようにゆっくりと口を開いた。だが、沙佳は意に介さない様子で続けた。


「わたしの方が合理的な練習をしているので。それを別に言う必要もなければ、誰かに教える必要もないと思います」


「合理的な練習?」


「わたし、山川の中等部から秋田学院に来たんです。けど、正直がっかりしました。冴島先輩たちが、どういう練習をしてるのかと思って見ていましたが。山川の方が、合理的で理想的な練習をしている。わたしにはわたしのやり方があります。放っておいてください。失礼します」


 沙佳は、呆れたような顔をして軽く頭を下げると春奈から遠ざかった。話を聞いた春奈は、つい数日前に一美から聞いた話を思い出していた。沙佳は、青森の名門校・山川学園の附属中学校からやって来た部員だった。




「さーや、プライドがめちゃくちゃ高いんだよね」


「荒畑さんですか?」


 春奈が聞くと、一美は困った顔をして深くため息をついた。


「山川は超スパルタ指導らしいから、監督が全てのスケジュールを決めて、軍隊みたいな生活をしてるらしい…ちょっと前まで、ウチも似たようなものだったけど。だから、ひかるさんの指導の仕方が物足りなく感じるんだと思うんだけど…」


「もし、荒畑さんと意見がぶつかったらどうしましょう…?」


「とりあえず、ひかるさんと相談ってことで…わたしたちの判断で決めちゃうのもよくない」




 一部始終を聞いたひかるは、苦笑いを浮かべると長い髪を掻き上げた。


「まぁ…、そりゃ、今わたしと大河内先生を比べられちゃあ、何にも言えないわ」


 山川学園の陸上部は、大河内という60を超える老将が中学・高校ともに指導を行っている。その圧倒的な指導力から、全国各地より生徒を集めている全国有数の強豪校だ。昨年の全国高校駅伝では、県予選でのアクシデントから拓洋大弘前の初出場を許したとはいえ、全国レベルの力を持つ組織であることには変わりはない。ひかるは、二度首を横に振ると春奈たちに訊ねた。



「とはいえ…、本人が言うほどピーキングできているようには見えないんだけど、キミたち、正直どう思う?」


 少し考え込んだのち、一美が口を開いた。


「油断してるのかなと思います。ほのとゆめはあんな感じですし、3,000を9分台で走れるのはこの3人だけなので、今までの経験だけで走れちゃうと思っているような…でも、1年生は結構面白いと思いますよ。ね、サエコ」


 春奈も、一美の言葉に大きくうなずく。


「ひかるさんも見てると思いますけど、多分あの子、いいタイム行くと思います。ほのとゆめ、あと…荒畑さんもビックリするんじゃないですか」


 ひかるは一瞬思案顔をしたが、ポンと手を叩くと目を見開いた。


「あぁ、あの子か! …確かに、今回はいいタイム行くかもしれないね」




 間もなく、女子3,000mの第1組がスタートする。3,000mは3組に分かれて行われ、タイムの遅い選手から順に出走する。春奈は、スタンドの反対側の方を向いた。他校の監督はジャージー姿の男性教員が多い中、お決まりのパンツスーツ姿で最前列に陣取るひかるは、ひと際目立っていた。もしくは、前監督の本城龍之介ほんじょうりゅうのすけが去って以降初めての実戦ということもあり、お手並み拝見とも言うべきところのかもしれない。


「春奈、おつかれ。今日の最終組、よろしく…お願い…ね?」


 春奈の横に、高島秋穂たかしまあきほが腰掛ける。秋穂は、春奈と同じ最終組の出走だ。すると、ふと感じた違和感に、春奈は秋穂の方へぐいと向き直った。


「あれ、秋穂ちゃん、そんな喋り方だったっけ!?」


 いつもの東予弁ではなく、秋穂が発したのは標準語だった。首を傾げると、秋穂は照れくさいのか指で頬を掻いた。


「いやぁ、みるほから『1年生が怖がってる』って聞いて…」


 春奈は拍子抜けしたのか、思わずずるっとよろける真似をした。秋穂は高校に入学した後も地元の東予弁を頑なに守っていたが、1年生からのクレームともとれる要望にとうとう折れ、慣れない標準語を使うことにしたのだという。


「ほら、春奈。そろそろ、1組がスタートする…わよ…よ?」


 慣れない上に、今までと正反対にも近い秋穂の慇懃な言葉遣いに春奈は再びよろけた。


(あ、秋穂ちゃん…なんか、調子狂うな…)




 トラックを凝視していた他校の監督が、予想外といった顔で見つめる。1組目は、3,000mのベストタイムが11分台後半の友理奈が大きくタイムを縮めて、最終コーナーへ先頭で入ってきたのだ。スピードを緩めずにゴールした友理奈を見て、ひかるは手元のストップウォッチを止める。


「オーケー、友理奈。10分42! ベスト1分以上縮めたね! グッジョブ!」


 サングラスを外すと、ひかるは思わず立ち上がって友理奈へ叫んだ。友理奈も思わず飛び上がると、あかりへ向けて両手を高く上げた。


「ひかるさん、やりました! ありがとうございます!」


 喜色満面の友理奈を見つめながら、春奈たちは思わず息を呑んだ。


「一気に1分近く縮めるなんて…」


「友理奈先輩、めっちゃ速なったの…や、めちゃくちゃ速くなった…」


 相変わらず話しぶりのぎこちない秋穂に苦笑いしながら、春奈は声を掛けた。


「そろそろ行こう、わたしたちも出番だよ」




 第2組は、波乱の展開になった。序盤から他校の選手が大きく飛び出したが、最初の1キロをを過ぎる頃にその選手が大きく失速し、追随していた沙佳たちは想定するペースを大きく崩されることになった。1位は、2年生副キャプテンの愛が自己ベストを更新する9分41秒でゴールしたが、愛たち数人に次ぐ選手の姿を見て春奈は思わず声を挙げた。


「あ、秋穂ちゃん見て! 恵理子ちゃん、恵理子ちゃん来たよ!」


 序盤のオーバーペースに惑わされず、恵理子が後半になりジリジリとペースを上げていたのだ。恵理子はスピードを緩めることなくゴールすると、待機していた春奈たちに大きく手を振った。


「春奈先輩! ありがとうございます!」


 スタンドで見つめるひかるも、恵理子に拍手を送る。恵理子の言葉に春奈は右手を大きく上げてサムズアップで応えると、手で頬を2回叩いて気合を入れた。


「…じゃあ、行きますか!」


 春奈は、スタートラインへと向かっていった。ふと気になって後ろを振り向くと、恵理子の快走に驚き、呆然としている沙佳たち1年生の姿が見えた。




 最終組のスタートは、もう1分を切っている。スタートラインには、秋田学院の鮮やかな臙脂のユニフォームがずらりと並ぶ。間近に迫るスタートに向けて、各々が粛々とルーティーンを始める。春奈は、ちらと右隣を見た。隣には秋穂、さらには一美が並んでいる。誰かが、春奈の背中をツンとつつく。振り返ると、怜名がいたずらっぽい笑みを浮かべている。皆、それぞれの顔を黙って見回すと、大きくうなずいて前を向いた。


「10秒前!」


 選手たちが顔を上げる。先ほどまでにぎやかだったスタンドの1年生たちも、固唾をのんでスタートラインの先輩たちを見つめていた。


『On Your Mark…』


 じり、という、体制を整える足音が場内に響く。



 パァンッ!



 号砲とともに、一斉に飛び出した選手たちのちょうど真ん中から勢いよく春奈が飛び出していく。高校生離れしたそのスピードは、これまでの試合であればスタート直後で勝負が決まってしまうと言われるほど圧倒的なものだった。だが――


「速い…!」


 スタンドで様子を眺めていた沙佳が、呆然と試合の行方を追う。春奈のすぐ後ろに秋穂、一美、怜名が続く。少し間が開いてようやく他校の選手が追随するが、その第2集団でさえ、先頭をけん引するのは菜緒ら秋田学院の選手たちだ。春奈は、振り向くことなくグイグイとスピードを上げていく。その光景に言葉を失っているのは沙佳だけではなかった。穂乃香、そして友萌香も、圧倒的な春奈たちの勢いに言葉を失っていた。


 恵理子も同じように、身近な先輩である春奈のあまりのスピードに、手で顔を抑えながらレースの行方を追っていた。すると、横にひかるがやってきて腰掛けた。ひかるが言う。


「どうルーキー、同部屋のお姉さん、スゴイでしょ」


「はい…わたしには、とても」


「とても?」


「…追いつけないと思います」


 畏怖にも似た感情で春奈を見つめる恵理子に、ひかるは訊ねた。


「それ言ったら、春奈はなんて答えると思う?」


「…!」


 恵理子は、ハッとしてひかるを見た。


「でしょ? 多分、そんなこと言ったら春奈はこう言うんじゃないかな。『追いつけないじゃなくて、追いつこうと思って全力で走りなさい』って。この前の高校駅伝、キミたちにビデオで見せたでしょ。あそこで勝ちきれなかったことが、春奈は本当に悔しかったって言うんだ。あんなに速い子が、悔しさを持ってどんどん練習してもっともっと速くなるんだ。キミは、全力で春奈を追いかけるんだ。あの子は、絶対に世界に羽ばたいていく選手になる。そんな子と同じ部屋になったのは、キミにとって大きなチャンスだ。今日の走りも、よく目に焼き付けておくんだよ」


 恵理子は、ひかるの目を見て大きくうなずいた。


「はい!」


 先頭の春奈は1キロを過ぎた。その春奈には、一美と秋穂がいまだ懸命に食らいついている。




<To be continued.>

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