#81 インタビュー・ウィズ・ヒロイン
ようやく桜のつぼみもほころび始めようかという4月の始め、秋田学院高校の女子陸上部合宿所の目の前には、普段見慣れない男女の姿があった。トレンチコートを雑に着こなした中年の男は、物陰であくびにまぎれて白い煙を吐き出した。それを見て、もう一人の若い女は男を名指しで注意した。
「平井さん、ダメですよ! 取材先の寮のすぐ目の前で煙草なんて吸ったら」
その声に男は、ぼさぼさに伸びた頭を掻いておどける。平井透。月刊アスリート・マガジンのベテラン編集者だ。この日、ふたりははアスリート・マガジンの次号巻頭特集となる、秋田学院高校のエース・冴島春奈と、新監督の梁川ひかるを中心とした取材でここ秋田へとやってきていた。
「へいへい、すみませんねえ。最近の若い奴らは煙草も吸わねえから、肩身が狭くってしょうがねえや…煙草は男の嗜みだっつうの、雨宮よぉ…おい、名刺準備できてるか?」
雨宮と呼ばれたその女性――同じくアスリート・マガジン編集部の若手記者・雨宮里美は、平井の言葉に口を尖らせた。
「もう、わたし新卒じゃないんですから、そのぐらいの準備できてますっ。行きますよ!」
肩を怒らせて寮の正面玄関に向かう雨宮の後ろ姿を、平井はやれやれといった表情で見つめてゆっくりとその後を追った。
「ようこそ、わざわざ遠い所までお越しいただきありがとうございます。すぐに梁川たちが参りますので、お掛けになって少々お待ちくださいませ」
そういってお茶を運んできた部員を、雨宮が興味深そうに目で追う。
「平井さん、彼女、秋田学院のマネージャーの丹羽さんじゃないですか? 最近、部活のホームページの立ち上げを自分でやって、ブログとか更新してたりするんですって」
興味津々といった様子の雨宮とは対照的に、平井はそわそわと応接室の外を見回している。
「ふーん、そうなの。っていうかよ、最近の応接室っていうのは煙草の一本も吸えないのかよ、参っちゃうなァ…」
そういって、ソファーに深く腰掛けた平井が不服そうに口をへの字に曲げると、コンコンとドアを手短にノックする音が聞こえた。間髪入れずに部屋に入ってきたスーツ姿の人影は、慇懃な口ぶりで平井に告げる。
「お煙草でしたら寮内は禁煙となりますので、ここからずーーーーっと向こうに進んでいただいた、大学の事務棟でどうぞ。ご挨拶遅れて申し訳ございません。秋田学院女子陸上部監督の梁川ひかると申します。…よろしくどうぞ」
「ア…アッ、はい、すみません、へへへへっ」
肩になびく栗色のロングヘアは濃紺のパンツスーツによく映えるが、切れ長の目の奥は笑っていない。眼光鋭く睨みをきかされた平井はだらしない笑いで誤魔化すしかなかった。ひかるは背後に待つ二人に声をかけ、応接室へと入るよう促した。
「一美、春奈。今日取材いただくアスリート・マガジンさんだから、きちんとご挨拶して」
「秋田学院女子陸上部のキャプテンを務める、濱崎一美です。宜しくお願いします」
キャプテンの一美ははきはきと返事をしたが、続く春奈の様子がおかしい。
「あ…冴島です。…よろしくお願いします」
「?」
ひかると一美が顔を合わせて首を傾げると、平井が突然笑顔で両手を広げて春奈へと近づく。
「やあ冴島さん、お久しぶり! こうやってお話しするのも最初の記録会の時以来だねェ。大きくなって…」
場の空気にそぐわない、中年の空回りに春奈は思わず後ずさった。
「わっ…!」
その様子を見て、ひかるが慌てて一美に小声で耳打ちする。
「ねえ一美、春奈どうしたの? いつもこんなだっけ?」
一美は、怪訝な顔で首を振った。
「ひかるさん...、サエコこの人のこと苦手みたいなんですよ。一番最初の取材で家族構成だの、プライベートなことを根掘り葉掘り聞かれて、絶対無理って言ってました」
ひかるは、一美の言葉に眉をひそめて頷くと平井に言った。
「じゃ、よろしければ平井様、本校の校長で当部の部長を務めます岩瀬が本棟の方に居りますので、ぜひ最近の部活の詳しいお話をさせて頂ければと思いますので…どうぞこちらへ…あっもうこちらには戻られないかと思いますので、荷物をお持ちになってどうぞどうぞ…」
「アレ!? さ、冴島さんのお話をこれから伺おうと思ってたんですけど…?」
「あ、もうおひと方お若い記者の方がお越しかと思いますので、年齢の近い方に詳しくインタビューいただいた方がよろしいかと…! じゃあ、本棟はこちらですので…ッ」
「えッ、あっ、ちょ、ちょっと…」
ひかるは半ば強引に平井を連れ出すと、一瞬春奈たちの方を向いてニヤリとウインクをした。春奈はポカーンとその様子を見つめている。ひとり残された雨宮が、呆気に取られた様子で恐る恐る一美と春奈に頭を下げた。
「あっ…う、ウチのものが無礼をしまして…申し訳ございません! …こ、濃いキャラクターの監督さんなんですね…」
春奈は、一美と顔を見合わせて苦笑いした。一美が肩をすくめて言う。
「すみません、とにかく気が強くて…でも、わたしたちもまだそこまで日が経ってないですけど、部員ひとりひとりのことをじっくりと観察して、親身に指導してくれるとっても情に厚い監督さんなんです」
一美が言うと、春奈もそれに続いた。
「就任されてから、練習から休日の過ごし方まで色々なことの改革をされてて…最初は戸惑う部員もいたにはいたんですけど、監督さんの熱量に影響されて、みんなモチベーション高く練習しています…あっ」
「どうしました?」
雨宮が訊ねると、春奈は舌をペロリと出してばつの悪そうな顔をした。
「監督さんとか、先生って呼ぶと怒るんです」
「そうなんですか?」
「はい、『ひかるさん』と呼べって…何よりも厳しく指導されています」
「おぉ…」
トラックを包む異様な空気に、思わず雨宮がため息を漏らす。この日は、ひかるが就任して初めて行われる3,000mのタイムトライアルだ。部員たちは二手にわかれ、先に春奈たちのグループ、続いて一美たちのグループの順に行われる。スタートラインに部員たちが顔を揃える。そわそわしたり、隣の部員と話をしたりと落ち着かない下級生たちに比べて上級生たちはルーティーンを終え、スタートの準備は整っている。春奈は、パンと大きく手を叩くと下級生たちに向けて叫んだ。
「はい、おしゃべり終わりだよ! これは練習だから、失敗しても問題ないし、誰も責めたりしない。でも、これだけは約束して。ゴールして倒れ込んでもいいから、必ず今の全力で走り切ろう。いい?」
「「はい!」」
下級生が揃って声をあげる。春奈は頷くと、スタート地点に立つ主務の飛田彩夏に手でOKサインを送った。彩夏は大きな声で叫んだ。
「じゃあ、前半のメンバー行くよ。全力でよろしくね。…位置について!」
ピッ!
鋭いホイッスルの音が響くと、スタートラインから一斉に部員が飛び出す。春奈は、横一線の部員たちの中から即座に抜け出すと、序盤から後続を引っ張るかのように、ぐいぐいと距離を空け始めた。
「おお…、これが日本記録保持者のスピード!」
雨宮が、驚嘆の声を漏らす。たったの14歳2か月で5,000m走の女子日本記録を更新したスピードクイーンだ。周囲の部員とはレベルが違うように見える。
「やっぱり、冴島選手が独走になる感じですか?」
雨宮が問うと、一美はその質問を待っていたかのようにニヤリと笑って続けた。
「つい最近…進級する前まではそんな感じでした。サエコ…冴島も、他を気にする余裕もなかったですし。でも、今は違いますよ。ほら」
最初の1㎞を過ぎ、春奈と後方の部員とはすでに数秒の差ができている。すると、春奈は急に後ろを振り向くと叫んだ。
「まだ、タレるの早いよ! ここからここから! 追い込んで行くからね。はいっ!」
パン、パンと2回大きく手を叩くと春奈はぐい、とスピードを上げた。一美の言葉どおり、つい数週間前まではここからは差が開く一方だった。だが、春奈の後方に目をやると、苦しい表情ながら春奈に追随しようとする選手たちが現れた。昨年は不調をかこった3年生の副キャプテン・芳野菜緒や、元々春奈に匹敵するスピードを持つ2年生の柿野佑莉なども、春奈を後方から追い上げる。
「どっちかって言うと、冴島は大人しいタイプなんです。でも、高校駅伝で優勝した桜島女子の走りを見て考えが変わったと言っていて、怪我から復帰してからは率先して集団を引っ張るようになったと思います」
「なるほど…!」
一美の話に、雨宮は幾度もうなずきメモを取った。
「春奈、9分04!」
春奈は、予想通りトップでゴールした。しかし、腕時計に刻まれたタイムを見て春奈は大きく首をひねった。
「どうしたんですか?…好タイムだと思うんですが…」
「冴島のベストは8分49なんですが、その記録は中学3年の時に記録したもので高校に入学してからはベスト更新できていなくて…それもあって、満足できていないんだと思います」
「すごいですね!? それでも世代トップのタイムなのに…」
興奮する雨宮を見て、一美は苦笑いしながら続けた。
「まぁ、春奈ひとりに頼りっきりのチームでは優勝できないっていうのをこの前の全国高校駅伝で思い知らされたので…日本一になるために足りないタイムがしっかりとわかったので、今年は絶対に優勝することを目標に掲げて、部員一丸になって頑張っていこうと思っています」
熱っぽく語る一美を、雨宮は何度もうなずきながら見つめて熱心にメモを取った。全国高校駅伝を経て変化があったのは春奈だけではなく、新キャプテンとなった一美も同じようだった。高校生離れした統率力と高い走力を持ったひかるの妹・梁川あかりの卒業と、ひかるの監督就任はチームを少しずつ変える契機となっているようだった。
「ちょっと! ほの! ゆめ! 脱衣所で走り回るの禁止だから!」
「「はぁーい、ごめんなさーい」」
春奈は思わず大きな声をあげ、まるで小学生のように無邪気にはしゃぎ回る二人を叱った。この春、秋田学院の門を叩いた1年生、松山穂乃香と友萌香。双子が同時に入部することになったのは初めてのことだが、それにしてもこれまでは雑談すら許される雰囲気ではなかった。が、ひかるの意向で寮の部屋割も学年がバラバラになったことで、学年を超えたコミュニケーションが生まれつつあった。服を脱ぐとさっさと浴槽に飛び込んだ穂乃香たちを、別の1年生が冷ややかにつぶやいた。
「寮生活なのにあんな好き勝手やるなんて、緊張感がなさすぎると思いませんか?」
168センチと、部員の中でもひときわ背が高い荒畑沙佳が呆れたようにふたりを眺める。元々は青森の別の私立中学に通い、中学時代から寮生活を送っていた沙佳には気の緩みにも見えたようだ。一美がまぁまぁと後ろから宥めるように背中を叩く。
「仕方ないよ、さーや。ここに集まってくる子たちがみんな同じ環境で育ったわけじゃないからさ。もちろん決まりは守んないといけないけどさ、個性も必要ってことで」
「そうだよ、まだみんな入寮2週間だからね。全員で、うちらの文化を作っていこう」
その声に、思わず全員が振り向く。
「「ひかるさん!?」」
脱衣所から風呂場に入ってきたのは、誰あろう監督のひかるだった。一糸まとわぬ監督の姿に部員たちからおおおおっ、と驚嘆の声があがる。着任式で男子部員たちの目が釘付けになったというそのプロポーションを隠そうともせず、ひかるは椅子に腰掛けるとシャワーを浴び始めた。
「…ぃよっこいしょっと!」
「ひ、ひかるさん、ど、どうしてお風呂に!?」
「裸のつきあいって言うでしょ? せっかく監督になったからさ、たまには一緒に入ろうかなって。あ、2階に空き部屋あるから、今日は寮に泊まっていくわ」
「えええええぇ!」
部員たちから思わず驚きの声が漏れる。初の女性監督の誕生で、部員たちはこれまでの生活習慣とはまったく別の日常がやってきたように感じていた。
「なんか、先週までと違う部活みたいだよね」
ひかるの話を聞いていた牧野怜名が、感慨深げに春奈につぶやいた。
「うん、みんな明るくなったし、みんな自分から練習したりアイディア出したりするようになったよね。…そういえば、沢井先輩あれからどう?」
春奈が聞くと、怜名はひかるの方を指さした。ひかると談笑する1学年上の沢井友理奈は、明るい表情を浮かべている。
「友理奈先輩、仮病で練習サボるとか色々言われてたけど…ひかるさんが来てから練習もすごい頑張ってるし、性格も明るくなった気がする」
同部屋の友理奈の悪評に戸惑っていた怜名だが、あかりの着任以来練習も積極的に取り組むなど、変化を感じるようになったという。
「ひかるさんがあれだけわたしたちのことを考えてくれるから…ひかるさんに優勝をプレゼントしてあげたいって思うんだよね」
ひかるは、風呂場で部員たちに取り囲まれるようにして談笑している。怜名の言葉に、春奈は大きくうなずいて答えた。
「…そうだね! わたしも、ひかるさんのために頑張ろうって思うよ」
「春奈先輩、戻りました」
「あぁ、おかえり!」
一足早く風呂から戻っていた春奈が、新たなルームメイトを出迎えた。城恵理子。東北や関東の出身者の多い女子陸上部では珍しい、熊本・玉名の出身だ。元来の真面目な性格に、緊張がまだ解けていないのかわずかに浮かべる笑顔が固い。
「どうしたの? 恵理子ちゃん」
「わたし、不安なんです。来週の記録会…ちゃんと走り切れるかなとか、ほかの子に負けたらどうしようとか、考えるほど弱気になってしまうんです」
そういって恵理子は肩を落とした。マネージャーとして入学した部員を除く新入生11人の中で、恵理子のタイムは6番目で、3,000メートルのベストは10分14秒だ。9分台のタイムを持つ同級生もいる中で、現状のタイムは平凡だ。恵理子は再び春奈の顔を見ると深いため息をついた。
「わたしなんかが、春奈先輩と同じ部屋なんてなんだか申し訳な…」
「そんなことないよ」
言葉を遮ると、春奈は恵理子の肩を持った。
「タイムの違いはあっても、わたしだって入学してからはベスト更新できてないんだから、壁にぶつかることなんて誰にでもあることだよ。それにね、きちんとやることをやっていれば結果は出てくるから。怜名も、入学した時のタイムは恵理子ちゃんと同じぐらいだったけど、1年で30秒ぐらい縮めてるんだよ」
「ええっ、そうなんですか? 怜名先輩?」
「そうだよ。不安に思ってることがあれば、ひとつひとつ潰そう。わたしと1週間しっかり準備して、本番がんばろう。せっかく同じ部屋なんだから、協力してやっていこうよ」
春奈の言葉に力がこもる。恵理子は最初こそ戸惑っていたが、春奈の話を聞くうちに笑顔が戻ってきた。
「はい! 頑張ります! …春奈先輩、よろしくお願いします!」
恵理子は、きらきらと目を輝かせて春奈に健闘を誓った。新しい生活を迎えた女子陸上部に、少しずつ化学変化が生まれようとしていた。
<To be continued.>




