#80 新たな旅立ち
2月も末となり、新年度を間近に控えた女子陸上部寮では3年生部員の退寮と、下級生たちの引越し作業で慌ただしく部員たちが行き交う。実家が近隣にある翼や淳子たちは一足早く退寮し、遠方へと戻ってゆく部員は片付けだけを済ませていた。廊下には引越しを控えた卒業生たちの段ボールが積まれている。
307号室――春奈と怜名が1年間を過ごしたこの部屋も、4月からは別の部員たちの居室となる。春奈は、怜名が引越しの手を止めて何かを見つめているのに気が付いた。
「どうしたの、怜名…うわぁ!」
入学式の時に琴美が撮った写真を見つめていた怜名は、春奈の顔を見るなりボロッと大粒の涙をこぼして抱きついた。
「だって、春奈…今日からもう別の部屋なんだよ? …グスッ、寂しいよぉ」
「わっ、れ、怜名、大丈夫だよ、ずっと会えないわけじゃないし、あー、よしよしよし…」
「…グスッ、だって春奈は誰と一緒になるの? …4月からクラスも変わっちゃうし…グスッ」
「わ、わたしは新1年生と一緒になるって聞いたけど…、まだクラスも決まったわけじゃないからさ、ねえ、落ち着いてよ怜名…」
怜名を慰めていると、部屋の外からみるほが呼んだ。
「ねえ、春奈ちゃん、まなちと秋穂ちゃんと一緒に1階に来てもらってもいい? 学院中から内部進学で来るふたりが挨拶に来てるんだ」
春奈は一瞬慌てたが、怜名の背中をポンポンと叩いて階下へ向かった。
「オ、オッケー! みるほちゃん、ちょっと怜名のことよろしくね!」
「おぉ!」
中学の制服を着て直立不動で待つふたりを見て、春奈は声をあげた。ひとりは、以前の東日本女子駅伝でタスキリレーを行った高橋凛花だった。緊張気味のふたりを、すでに2年間一緒に部活動を共にしている愛が紹介する。
「左は…ふたりとも東日本で一緒だったから知ってるよね、高橋凛花。こっちは、佐々木由佳。1年生の学年キャプテンになる予定の子だよ」
「お、お疲れ様です! よ、よ、よろしくお願いします!」
「り、凛花ちゃん、久しぶり! …そんなに緊張しなくても大丈夫だよ?」
相変わらず緊張でカチコチになっている凛花を見かねて、春奈は声を掛けた。すると、凛花の足元に目がいく。
(…上履き!)
敷地の正反対に位置する中学校から陸上部の寮へはみな外履きでやってくるのだが、由佳がきちんと外履きに履き替えているにも関わらず凛花は上履きのままだ。春奈は指摘しようかと口を開きかけたが、凛花の性格を考えて軽く首を振り、口をつぐんだ。
「ゆかちん、足の怪我の具合どうだが?」
愛が訊ねると、傍らの由佳は視線を落として小声で答えた。
「まだ痛みが消えなくて…」
「そうが…無理どごしたらいげねぇよ?」
愛が言うと、ふたりは頭を下げて中学校へと戻っていった。寮の中へ戻ろうとすると、愛がため息をついた。
「凛花は要領が悪くて、計画的に練習を積めてないんだよね…由佳は由佳で、痛みが出たり出なかったりで最近走り込みできてないみたいだから…ケアできればいいんだけど…ところで」
「うん?」
「今年の新入生、あとはどんな子来るの?」
春奈は、顎に指をあてて思案するような表情をうかべた。
「確か、一番タイムが速いのが長野から来る双子の子たちで、その次に青森から来るすっごい背の高い子がいるって…でも、一番速い子で3,000のベストが9分45って言ってたから、そうとう走り込まないとね」
近年で最も入学時の最速タイムが遅かった学年が一美の代で、菜緒の9分35秒というのだからスカウティングの苦戦は明らかだった。加えて、監督も含めて体制が一新する。普段はポジティブシンキングの春奈でさえ、数週間先のことを考えると表情が翳ってしまう。
「どうしよう…新しい監督さん、濱崎先輩と相談しなきゃ…」
部屋へ戻ると、怜名の姿はなかった。慰めるためにみるほが自分の部屋へ連れていき、しばらく話し込んでいるとそのまま眠り込んでしまったと、みるほからのメールが届いていた。段ボールと布団だけになった部屋で、窓際のソファーに腰かけると部屋の内線が鳴った。
「はい、冴島です」
「あ、春奈。今、ちょっとわたしの部屋まで来てもらってもいい?今、一美も来るから」
「あぁ、お疲れ様。ちょっと、そこに座ってて」
あれほどトレーニング用具と資料がたくさんあった部屋はがらんとして、話し声が反響するほどだ。冷えたペットボトルをふたりに手渡すと、あかりは切り出した。
「わたしが怪我してから…チームを引っ張ってくれたのは、キミたちふたりだね。本当にありがとう」
「えっ、そんな…」
春奈と一美が謙遜すると、あかりは大きくかぶりを振った。段ボールから取り出して手元に広げたのは、3年間の写真を収めた大きなアルバムだった。
「ここに来てから、自分の記録のことを考えてずっと走ってた…わたしが率先して走って、模範となるような姿を見せれば、きっとみんなはついてくると思ってた。でも…そう思ってたのは、多分わたしだけだった」
「あかり先輩…」
「自分のこと、過信してたんだと思う。わたしが言わなくても、わたしの気持ちや思いはきっと皆に伝わってるんだと思ってた…全然。ただ、自分勝手に、思い込みで走ってただけだった…」
「そんなこと…!」
春奈、そして一美がそれを否定しようと腰を上げた時だった。
ガバッ!
いつかのように、あかりは大きく腕を広げて一美と春奈を一気に抱きしめた。
「わっ、あかり…先輩!」
「梁川先輩…」
あかりは嬉しさと誇らしさ、そして寂しさの入り混じった表情を浮かべたままふたりに語りかけた。
「もう…大丈夫だよ。一美も春奈も、この1年で強くなった。8位に入れたのはわたしのチカラじゃない…ふたりがチカラを合わせて進んでいけば…必ず…このチームは全国で優勝できるから」
「梁川先輩…わっふ!」
あかりは、再び力を込めてふたりを抱きしめて満面の笑みで言った。
「本当にありがとう…一美、春奈。キミたちと一緒に部活できて楽しかった!」
卒業証書を手にしたあかり、そして太希を先頭に、陸上部長距離チームの面々が思い出の詰まった寮の玄関へと戻ってくる。出迎える在校生たちは笑顔の者もいれば、こみ上げる涙をこらえきれずに号泣する者もいる。そして、そんな在校生たちの奥で、誰よりも大粒の涙をこぼしていたのは――
「ねえ、マサヨさん、泣いたらダメですよ、笑ってください!」
「な、なに言ってんだいバカ、わたしが泣く訳が…ううううっ」
強面のマサヨさんが号泣する姿に情が移ったのか、それまでいつものように底抜けの明るさだった愛花もつられてその場で顔を覆った。
「マサヨさん…ありがとうございました…やだぁ、泣くつもりなかったのに…うわあああん…お別れしたくないよ…」
愛花の泣き声が合図になったのか、厳しくも優しい寮母の薫陶を受けてきた卒業生たちがマサヨさんたちの元へと集まった。輪の中心で涙を流すマサヨさんに、あかりと沙織、そして太希と章が近寄り、大きな花束とアルバムを渡す。
あかりが、静かに切り出す。
「樋村寮長…いえ、マサヨさん。わたしたちのために、愛情のこもった毎日のご飯…そして厳しくも温かい言葉の数々...一生忘れることはありません。ありがとうございました!」
「「ありがとうございました!!」」
卒業生たちが一斉に頭を下げると、在校生たちの拍手がその場を包む。マサヨさんは、もう顔を上げることもできずに感涙にむせんだ。
卒業生たちが寮を去るその時、春奈たちは玄関で待ち構えていた。淳子、沙織、翼、愛花といった部員たちがひとりひとり旅立ってゆく。
「春奈...この1年、楽しかったよ。てっぺん目指して頑張るんだよ!」
「さえじ!きっと、もっとさえじは大きくなるよね。さえじと一緒に走ったこと、思い出にするよ。いつかまた一緒にやれるといいね!」
「春奈ちゃん、また何かあったらウチにおいでね!」
「冴島さん、絶対みんなで優勝してね!私もがんばるね!」
春奈は、自信に満ちた顔で答えた。
「はい!次の都大路、...みんなで絶対に優勝してみせます!」
「今日、無事に退職してきました...お待たせしました」
電話口から聞こえる報告に、岩瀬は胸をなで下ろした。
「良かった。これで生徒たちに報告できますね...ところで」
「はい?」
「何か、不安に感じていることはある?」
岩瀬の言葉を、電話口の相手ーー女子陸上部の新監督はキッパリと否定した。
「いえ...むしろ今は、新しいことに挑戦できる喜びで一杯です。このご縁を大事に、チームと共にわたしも成長して行ければと思っています」
「ならば、お願いする我々も安心だ。決して楽な仕事ではないと思うが、4月からよろしく頼むよ。...梁川先生」
電話口の新監督ーーあかりの姉・梁川ひかるは、岩瀬の呼びかけに笑顔で応えた。
「お任せください。梁川ひかる、教員として...そして、秋田学院女子陸上部監督として、必ずチームを優勝に導いてみせます」
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いつもご覧いただき、ありがとうございます。あんじょうなほみです。
実に70話にわたる高1編が終わり、次回からは高2編に突入します。
旅立ちもあれば、新しい出会いもあります。
新たな仲間と駅伝日本一を目指す春奈にこれからもご注目ください!(あんじょうなほみ)




