#7 冬の悪魔
【前回のあらすじ】
日本新記録の実績を買われて、都道府県対抗駅伝の神奈川県チームメンバーに選ばれた春奈。優勝候補のメンバーの一員とあって興奮が抑えられない。1区を走る美乃梨が転倒し、神奈川チームは苦しい戦いを強いられるが、タスキをつなぐことに執念を燃やす美乃梨の姿に春奈は心を揺さぶられる。
2区を任せられた佐野史織は美乃梨が来るまでの数分間、通過していくランナーの間隔をじっと数え続けていた。前にいる38人のランナーが、それぞれどのぐらいの距離にあるのか。ゆったりと続く上り坂を走りながら、その残像を追っていた。
(前の二人を抜けば、その25秒前に10何人かの集団がいる。まだそんなには縦長になってないはず。最後まで粘れれば、なんとか20番以内で…)
スピードを上げ、数秒前にスタートした2人のランナーにつくと、2人をすっと交わして前に出る。走り方に勢いを感じなかった。彼女たちと並走していては前に出られない。
(春奈ちゃんにいい位置で渡してあげたい)
史織も、昨夜の決起会での場面を思い出していた。話題のランナーと初めて顔を合わせてから、まだ1日も経っていない。
「こんなすごい大会に出させていただいて、皆さんのようなすごいランナーの方々と、一緒に走れるなんて嬉しくてたまらないんです」
「わたし、神奈川チームでよかったと思ってます。皆さん、こんなに優しくしてくれて…だから、皆さんと一緒に優勝を目指したいんです」
目をキラキラさせて話すその姿が、昨夜から今まで頭に焼き付いている。これだけの大きな大会に初めて出場する身なのに緊張した様子もなく、チームの勝利だけを願うその様子に史織は心を大きく揺さぶられた。
堀内美乃梨が高校陸上界でも注目されている選手であるように、この佐野史織という選手も実業団では名の知れた選手だ。名門の横浜三葉重工陸上部ではキャプテンを務め、国際大会にも出場経験のある実力を持ったランナーだ。序盤からのペースを落とすことなく、30秒近く離れていた10数人の集団に追い付くと、集団の真ん中少し前につけた。史織の前には、千葉県代表のランナーがいる。170センチ強はあろうかというその長身のランナーの背後にスッと入ると、史織はそのランナーのペースに合わせてスピードをやや落とした。背中にピッタリと追いすがる史織の気配に、千葉のランナーは露骨に嫌な顔をした。目前には下り坂が始まる。
千葉のランナーはペースをグッと上げ集団の選手を引き離そうとするが、史織はすぐさまペースに対応し、前をいく背中から離れない。
(風除けに…されてたまるか!)
大きなストライドで踏み出す歩幅が、さらに大きくなっただろうか。史織が背後についたのは、折からの雪混じりの強風を避けるために“風除け”となる選手を探していたためだった。それでも史織もペースを上げ、執拗なまでに千葉のランナーに追いすがる。下り坂が終わり、先導の白バイは右へ大きなカーブを描く。目線の先には直線道路が広がる。すると、眼前のランナーの背中が一瞬視界から消えた。雪に足を取られ、転倒こそしなかったものの千葉のランナーが体勢を崩した。史織には、その瞬間がスローモーションのように映った。
(今だ)
ランナーを避け、一気にスピードを上げる。序盤から数キロ、自らの公式記録を超えようかというラップタイムを刻んできたことがにわかには信じがたいほどだ。スピード自体は決して特筆して速い訳ではないが、ロングスパートこそが史織の最大の武器だった。残り数百メートル。先程の集団のさらに先に、バラバラと前を行く複数の選手が見えた。直線の先には中継点がわずかに見え始めた。ここからすべてのランナーを抜き去ることは難しい。だが、数十秒以内の差であれば―。
(春奈ちゃんが待ってる)
中継所で待機する春奈の前を、先頭のランナーがタスキリレーを終えて走り去っていった。神奈川の黄色と臙脂のユニフォームは、まだ視界の中には飛び込んでこない。いくら、春奈といえどもこの数十人を抜き去るのは不可能に近い。ただ―。
昨夜の決起会での、史織の言葉が春奈の心を去来していた。
「駅伝は、一人じゃないの」
至極当たり前のことを言われて春奈はキョトンとしていた。すると、史織が焼けた肌に白い歯を見せてケラケラと笑いながら続ける。
「ヘヘヘ、そんなの分かってるって顔してるね。そう、今回の駅伝で言うなら、私たち神奈川チームは9人のランナーで走るよね」
春奈は史織の目を見つめて、無言で2回頷いた。
「だから、自分ひとりでどうにかしようとしなくてもいいからね。みんな競技者だから、目の前のランナーに勝ちたい、自分が活躍して勝ちたい、って思う気持ちは誰でもあると思うんだよね」
史織は、その表情を引き締めて続ける。
「でもね、誰だっていつもベストなレースができるわけじゃない。天候が悪かったり、自分自身のコンディションがよくなかったり。レースの途中に、急に体調がおかしくなったり、怪我をしてしまったりして、思うような結果を残せないことだってある」
春奈は、またキョトンとした表情をして史織を見つめ直した。
「明日は、春奈ちゃんが初めて経験するような大きなレースだから、自分で思っていなくても無意識に緊張したりするかもしれない。私たちが相手にしてるのは、ランナーもそうだけど、自然とも戦うことにもなる。だから、もし、もしも春奈ちゃんが自分の納得するような結果が出なかったとしても、大丈夫。私たちみんなで上を目指していくんだから」
そういって、史織は春奈の頭をクシャクシャと撫でて席を立った。
「春奈ちゃん、明日は頑張ろうね!」
これまでのレース、向かうところ敵なしともいえる成績ばかりを残している春奈には、少しピンとこない話もあった。だが、一人また一人とランナーがタスキリレーを行う中、小さいながらも不安が心をかすめる。そんなときに、史織の優しくて力強い言葉はこれから始まるレースに向けて、勇気を与えるに十分だった。
「春奈ちゃん!」
遠くから、史織の声が中継所に響いたような気がした。春奈は後方を見やった。臙脂色のタスキを握りしめ、右手でガッツポーズを見せながら走ってくる史織の姿をとらえた。
「26位徳島、27位福井。28位…神奈川!」
係員の声を聞き、春奈は中継所のスタートラインに立つと声を張り上げた。
「史織さん!ファイト!史織さん!史織さん…」
春奈の叫びは、嗚咽のように最後は言葉にならなかった。感情が高ぶって溢れそうになる。だが、勝負はこれからだ。ぐっと気持ちを飲み込むと、頬を2、3回両手で叩き気合を入れる。
史織は、前の中継所から実に11人を“ゴボウ抜き”してやって来た。史織の目にもまた、待ち受ける春奈の姿がはっきりと見えた。表情を崩し、満面の笑みで春奈の元へとやってくる。
史織はタスキをピンと広げ、リレーゾーンへ飛び込んだ。
「春奈ちゃん、あとはよろしくね!」
「はい!頑張ります!」
タスキを手に取ると、春奈は3区のコースへと飛び出していった。
春奈の姿が徐々に小さくなっていくのを見届けると、史織は歩道へと戻ろうとコースに背を向けたが、その瞬間、
ガタッ
史織はその場に倒れこんだ。足の力が抜け、一気に寒さが襲ってくる。いや、レース中には自分でも気づかないうちに身体は徐々に体温を奪われていたのだ。全身の震えが止まらない。暖かいドリンクを受け取り、グラウンドコートを着てようやく、指先や足先に熱が戻るのがわかった。
史織は、既に春奈の姿が見えなくなった前方を見やり、ボソッと呟いた。
「春奈ちゃん…大丈夫だろうか…」
中継所を飛び出した春奈に、“冬の悪魔”の存在に気付くための余裕はなかった。
<To be continued.>




