#78 You&Me
本城が秋田学院を去ってから、朝5時半に大音量で響き渡る起床を知らせる放送はなくなり、静かな朝が訪れるようになった。その放送は学校全体ではなく、陸上部の寮にのみ流されていたことを春奈が知ったのはつい最近のことだ。とはいえ、それがなくても目覚めのよい春奈だが、今朝に限っては5時過ぎには目が覚めていた。そわそわと何やら支度を進めていると、携帯電話にメールの着信を知らせるチャイムが鳴る。携帯電話を手に取るとせわしなくメールを返し、引き出しにしまっていたポーチから手鏡と淡いピンクの口紅を取り出した。
「おはよ…あれ、春奈きょうお出かけ?」
「おはよう…起こしちゃってごめん! みるほちゃんと、市民会館行ってくるね」
「あぁ、そっか、ルナ=インフィニティのイベントだっけ?」
「正解! 握手会なんだ」
怜名が、眠い目をこすりながら春奈に訊ねた。みるほに誘われて行ったコンサート以来、春奈はアイドルグループのルナ=インフィニティにハマり、中でも2期生メンバーのJULIAのことを“推し”として公言するほどまでになった。そのルナ=インフィニティが1年ぶりに秋田へとやって来て握手会を開催するといい、春奈は朝からウキウキしながら準備を進めていた――というわけだ。
「じゃ、行ってくるね!」
怜名に手を振って部屋を出ると、目の前にはみるほが待ち構えていた。
「おはよう!春奈ちゃん、準備OK?」
「サイリウム、推しタオル、うちわOK! 行こう!」
春奈は、したり顔で答えた。もっとも、春奈はグッズを買い揃えるのに一銭も出してはおらず、持っているグッズの数々はみるほが布教活動と称して買い与えた、もしくはみるほのお手製であったりするのだが。
ふたりは寮の玄関に向かう前に、寮の調理場を覗いて声を掛ける。
「マサヨさん、市民会館まで行ってきます!」
調理場は、マサヨさんと調理のパートさんたちが行き交い慌しい。エプロン姿で寸胴鍋に向かうマサヨさんは、ふたりの声に気付いて手をあげた。みるほの出で立ちを見て用件を察したのか、ニヤリと笑ってふたりに言った。
「了解! せっかくのお出かけだ、楽しんでおいで!」
「はーい、行ってきまーす!」
7時前だというのに、市民会館の前には百人以上はいるであろう行列ができている。みるほは、長蛇の列を目にして頭を抱えた。
「ああーっ…こんな並んでる…でもしょうがないか…」
寮生活の高校生という身分だ、徹夜で並ぶことなど許されるはずもない。みるほはしょげていたが、ふと春奈の方を向くとギョッとして目を見開いた。
「はぁーっ…JULIAちゃん♡ 初めてJULIAちゃんと握手できる…話せるなんて…キャーッ♡♡」
「…テ、テンション高いね…春奈ちゃん」
春奈の目にはもうすでにハートマークが浮かんでいる。憧れの存在と握手できるとあってか、気持ちはすでに数時間後の握手会へと向いているようだ。みるほは手元のリュックからバインダーを取り出した。どうやら推しのメンバーであるNICOLEの雑誌記事をスクラップしてあるようで、テンションを上げるためか熟読を始めた。
「オオオオオーッ!」
照明が落ちると、会場からは大きな歓声が上がる。均等なリズムを刻むドラムの音が会場に響くと、場内に詰めかけた観衆から自然とハンドクラップが沸き起こる。ステージ上にメンバーがひとりひとり進み出るのが見えると、会場の熱気は自然と最高潮へと向かっていく。
ダンッ!
ドラムの音が終わると同時に照明が戻り、ルナ=インフィニティのメンバーたちの姿が明らかになる。センターポジションには、やはり“絶対的エース”のMARIAが立ち、その両脇を人気メンバーのANNA、そしてNICOLEが支えるフォーメーションだ。
すると、みるほが突然大きな声で春奈を呼んだ。
「は、春奈ちゃん! JULIAちゃん、フロントだよ! ほら!」
「えっ!? …ホントだ! JULIAー!」
JULIAは、加入後初めてシングル曲のフロントメンバーに選ばれていた。昨年のライブで初めて目にした時の、どことなく頼りなさげな雰囲気はもうない。春奈には、凛とした雰囲気を漂わせフロントに立つJULIAの姿が誇らしげに映った。
センターに立つMARIAが、口を開く。
「…わたしたちのニューシングルです。聴いてください。『You&Me』」
「本当に大丈夫かな? 週1でオフの日入れるの」
「何が」
「…いや、これまでは毎日最低でも1回はみんなで顔を合わせてやってたから、完全に休みにするとダレちゃうんじゃないかって…」
「走るだけならいいんじゃない? でも、そうじゃないからね。見た?新2・3年にした調査の結果」
「え? まあ、見たけど…」
「気になんなかったかもしれないけど、全体のうち『体調不良があるが、休みを言い出せずに我慢している』って言ってる子が5割、『勉強時間が取れなくて、学習が追いついていない』って言う子が3割もいるわけ。学校の部活動がよ? 健康に勉学に励ませるための組織なのに、部活で体調崩したり、勉強に支障が出るとか本末転倒なんだよね」
「でもそれは、それぞれの努力次第なんじゃ…」
「出来る子はね? それに、『努力』って全員共通の言葉じゃないわけ。キミの努力と他の子の努力は違う。体調もそう。個々の能力に頼ってたら、指導者なんて要らないんだよね」
「うーん…」
ミニライブを終えた春奈たちは、ホールの外に再び並ぶことになった。
「じゃ、春奈ちゃん、終わったら待ち合わせ…、あ、でももし早く終わったら先に戻っててもいいよ?」
「ううん、もし先に終わったら物販見てるから大丈夫だよ」
春奈はそう言って、NICOLEの列に並ぶみるほと別れた。NICOLEとJULIAは別の会場だ。みるほによれば、グループ屈指の人気を誇るNICOLEは長蛇の列をなすが、JULIAはまだ握手待ちの列には余裕があるという。春奈は、急ぎ気味に別棟へ進んだ。キョロキョロと会場を見渡すと、JULIAのブースが目に入る。みるほが言うほどの余裕はなく、数十人が握手を待っている。最後尾に並んだ春奈は、ふと何かを思い出しポケットを探った。
(…あった!)
取り出したのは「春奈」と、大きく名前を書いた名札だった。これも、足しげくライブや握手会に通い詰めて、NICOLEから“認知”されているというみるほからのアドバイスだった。もうすぐにJULIAと会えると思うと、春奈は徐々に心臓が高鳴るのが分かった。
(どうしよう…緊張してきた!)
ブースの手前で待つ係員に、手荷物とチケットを渡す。緊張のあまり手に汗を握り、足は震えている。チケット1枚につき握手は5秒程度だという。みるほに教わった内容を、春奈は頭の中で繰り返した。
(あいさつ、名前、はじめまして…あいさつ、名前、はじめまして…)
係員が、中のブースで待つJULIAと「剥がし」と呼ばれるもうひとりのスタッフに声を掛ける。
「次の方、3枚でーす」
春奈は意を決してブースの中へ進む。目の前に現れた小柄で色白な少女――JULIAへ話しかけようとしたその時だった。
「はじめま…」
「あっ! 知ってるよ! はじめまして、春奈ちゃん――冴島春奈ちゃんでしょ!?」
「ええっ!?」
JULIAの発したまさかの言葉に春奈は驚いて思わず一瞬のけぞったが、時間制限を思い出して慌てて手を取った。
「ど、どうしてわたしのこと知ってるの? あ、あっ、はじめまして!!」
「前に、雑誌のインタビューでわたしのこと好きって答えてくれたでしょ? スタッフさんから記事もらって、春奈ちゃんのこと覚えてたんだ!」
JULIAは、人懐っこい笑顔を浮かべて嬉しそうに答えた。怜名ほどではないが、春奈よりも小柄で折れてしまいそうなほど身体は華奢だ。白くて細い手の感触を確かめるように、春奈はしっかりと手を握った。
「本当に!? 嬉しい! えっとえっと…」
伝えたい言葉が湧き上がってきて、うまく言葉を選べない。すると、横に立つスタッフが声をかけた。
「すみません、お時間です」
無情にも、タイムアップの宣告だ。最後にもう一度つないだ手に力を込めると、春奈はJULIAの目を見て言った。
「えと、それじゃあ、今度お手紙書くね! また秋田来てくれた時に会いにくるね!」
JULIAも、その言葉に大きく二度頷いて答える。
「分かった! わたしも、絶対お返事書くね! また来てくれるの、約束だよ!」
「うん!またね!」
みるほが戻ってきたのは、そこから30分も後のことだった。だが春奈からしたら、気付いた時にはもう目の前にみるほがいた、ぐらいの感覚だった。ブースを出てから、春奈はずっとJULIAとの十数秒のことを思い返していた。
「お待たせ…!?」
みるほが言い終わる前に、春奈はぐっと立ち上がりみるほの肩を持って叫んだ。
「ねぇみるほちゃん、JULIAちゃん、わたしのこと知っててくれたって!!」
「ええええぇ!? どうして!? 羨ましすぎるんだけど!! く、詳しい話聞かせて!」
ふたりの周りは、冬とは思えないほどの熱気に包まれていた。
<To be continued.>




