#77 トップ・シークレット
「準備は進んでるの?」
「まぁ、ボチボチね。正式採用まではまだ日があるから、とりあえず引越しの準備始めたとこだけど…それより」
「?」
「今、このIT化って言われてる時代に…ひとっつも電子化されてるデータがないっていうのは…どういうこと? あのアナログ親父!」
「しょうがないでしょ…データにしようと思う人が今までいなかったんだから…今、マネージャーたちが頑張って集計してるから、もうちょっと待ってよ」
「了解。助かってるよ、わりと早めに仕上げてもらってるから。それにしても…」
「それにしても?」
「マジで、一部の子たちのことしか観てなかったのがよーく分かるわ…昨日言った動画の子。とっくに休ませてなきゃダメなのに」
「あぁ…美穂?」
「だっけ?まだ名前全員覚えてないけどさ。あと…冴島…春奈? ちゃんと伝えてある?」
「もちろん。ただ、あの子も目を離したらすぐ走りに行っちゃうから、同部屋の子に無理させないようにしっかり伝えてあるから」
「よろしく。あっ、部屋割りも全部変えるから、その準備だけするように伝えといて」
「えっ!? どういうこと?」
「今、学年ごとに固めてるでしょ。あれ、全部シャッフルするから。誰と誰を組ませるかとか、またマネージャーたちに協力してもらいたいんだ。よろしく伝えといて」
「本当に…? そんな急に色々変えて、皆混乱しないかな…」
「…ハァ…」
「なによ」
「混乱しようがしまいが、ダメなものをそのままにしとくわけにはいかないでしょ? そのために監督を引き受けたワケで。別にやり方変えないなら、今まで通りヨネセンとか、あの辺が監督やってればいいよね。ダメなら責任取る覚悟ぐらいとっくにしてるからさ」
「…フフフ」
「何笑ってんの」
「いや…なんていうか…変わってないなって」
「失礼しちゃうよね、ブレてないと言っていただきたいわ。じゃあ、さっきの件、詳細はメールで送るから。対応よろしく」
「はーい」
寮の2階にある資料室の扉がコンコンと鳴り、リハビリを終えた春奈が中へと入ってきた。
「あっ、おつかれ!」
みるほが、手元にある資料を手渡す。サッと目を通した春奈は首をひねった。
「これが…新しい監督さんから?」
みるほはひとつうなずいたが、すぐに首を傾げた。
「そうなんだけど…、まだわたしたちも誰なのか教えてもらってなくて」
「どうして?」
「まだ正式に契約してないからみたいだけど…誰なんだろうね?」
「ふうーん…あれ?」
手元の紙をパラパラと捲っていた春奈が声をあげた。体組成などの細かいデータとこれまでのタイムの推移などをまとめた資料の後ろには、新監督がそれぞれの部員に対し細かいトレーニングメニューを指示する項目があり、さきほどの美穂も30分刻みの細かいスケジュールを指示されていたが、春奈のそれはほぼ空白だった。
「ねぇ、わたしの資料、ほとんど書いてないよ」
春奈が言うと、みるほが彩夏に訊ねた。
「先輩、他にもいましたよね? 指示ほとんどない人」
「うん…、それでも一美と春奈、あと秋穂だけかな?」
それを聞いて、春奈は不安げな表情を浮かべる。
「どうして…わたしたちだけ?」
都道府県対抗女子駅伝に出場する一美と秋穂、そして怜名は1週間後の本番に向け、大学の室内トラックを借りて走り込みを続けていた。1キロほどの距離を全力疾走し、15分ほどの休息を挟みながら数セット繰り返してゆく、レペティション走と呼ばれる負荷の高いトレーニングだ。
「ハアッ、ハアッ、ハアッ、ハアッ!」
3セット目を終えた怜名は、荒い呼吸のままトラックに倒れ込んだ。チームでも春奈に次ぐタイムを持つふたりとのトレーニングは、まだタイムで及ばない怜名には過酷そのものだ。先着していた一美と秋穂が怜名を覗き込む。
「おーい、大丈夫?」
「ハアッ、ハアッ、全然…大丈夫じゃないです…ハアッ、速すぎますって…ふたりとも…」
怜名が音を上げると、一美が汗を拭いながら笑った。
「ハハハ、マキレナ、これはそういうトレーニングだからしょうがないよ。でもさ高島ちゃん、マキレナ前よりかなりタイム伸びてない?」
秋穂も、倒れたままの怜名を見つめて言う。
「この3か月ぐらいでも、だいぶ速なった思いますよ。なぁ、怜名? ここ最近、ポイント練習頑張っとったもんな?」
ようやく呼吸の落ち着いた怜名だが、ふたりの言葉に頬を赤く染めた。
「もう、秋穂、恥ずかしいからそういうことあんまり言わないで! …でも、ちょっとずつ結果に繋がってるなら嬉しいです。…あっ、時間」
怜名は、手元の腕時計に目をやるとジャージのポケットをまさぐった。
「そろそろ時間ですね…わたし、事務局に寄ってまなちのお姉さんに鍵返したら、真理たちと室内トレーニング行ってきます…新しい監督さんから指示のあった」
「?」
怜名の言葉に、思わず一美と秋穂が顔を見合わせる。ふたりの戸惑いをよそに怜名は続けた。
「昨日、彩夏先輩とみるほちゃんからもらったスケジュールにありませんでした? あ、もしかして一美先輩と秋穂一緒ですか? じゃ、わたし行ってきますね!」
去っていく怜名の背中を見つめながら、一美と秋穂は困惑の表情を浮かべた。
「あっ!」
春奈が資料室を出ると、ちょうど室内トラックから戻ってくる一美と秋穂の姿があった。秋穂が声をかけようと手を挙げると、先に春奈が口を開いた。
「あの…メニュー!練習メニュー、どうします?」
「えっ…サエコも?」
一美が問うと、春奈は無言でうなずいた。先ほど、みるほたちから渡されたシートを一美たちの前に突き出すと、首を傾げた。
「これ、どういうことなんでしょうね?」
春奈が指さしたシートの箇所には、新監督からの言葉が短く記されていた。
――あなたは、無理をしがちなのでまずは怪我の完治に努めるように。くれぐれも見切り発車で走り込みなどしないように。3月末までのメニューは任せます。健闘を祈ります。以上!
「ウチも、任せるって書いとった…」
秋穂がボソッとこぼすと、一美も続いた。
「いきなり任せるって言われても、全体練習とかもあるのに…どうしたらいいんだろう?」
すると、背後から声が響いた。
「ごめん。やっぱり、きちんと説明した方がいいよね? 新しい監督、細かい説明しないから混乱してないかと思って心配してたんだ」
「梁川先輩!?」
「…どうぞ」
春奈たちは、同室の部員のいない秋穂の部屋であかりから詳しく話を聞くことになった。入学以来、春奈は秋穂の部屋に入るのは初めてのことだった。勉強とトレーニングの道具以外にはエレクトーンとクラシックのCDがある程度で、同年代とは思えない落ち着いた部屋だ。
「へえーっ、秋穂ちゃんピアノ弾けるんだ?」
「ちょっとだけな、昔習うとったんよ…いやいや、今そんな話しとる場合やない」
そう言って、3人はあかりを囲むようにして座った。
「新監督は、色々と新しいことを始めるって言ってて…4月からは選抜、B班みたいな班分けを止めて、ひとりひとりそれぞれメニューを組んでいくみたい。全体練習も今より少なくなるし、あとは…週1で完全休養日もできるみたいだよ」
「えーっ!?」
3人は、思わず一様に驚きの声をあげた。春奈が続ける。
「そっ…それで、新しい監督さんって誰になるんですか?」
あかりは首を横に振った。
「岩瀬先生はもちろん知ってるし、わたしも知ってるんだけど、新監督が『自分から言うまでは絶対に言わないでほしい』って…新監督なりに考えがあるみたいで」
そういって、あかりは小さく首をかしげると続けた。
「もちろんキミたち3人はチームの主力だから、下級生含めてチームを引っ張っていってほしいっていう気持ちもあるみたいだけど、もうキミたちは記録もチームの中で抜けてるし、自分たちで考えながら練習をすることもできる。それに、わたしたちが卒業すると、キミたち3人と他のメンバーとは記録的にも差が大きいよね。だから、新監督的には、キミたちは自分たちの記録を伸ばすことに専念しながら、その他のメンバーをどんどん底上げしていきたいっていう気持ちがあるみたいだよ…って、別にわたしが監督になるわけじゃないんだけど」
「おおぉ!」
顔が紅潮するほど熱弁するあかりを見て、一美と秋穂は思わず感嘆の声を挙げる。すると、春奈がきょとんとした顔つきであかりを見つめている。
「どうしたの?」
「わたし…梁川先輩が監督になるのかと思いました」
真顔で言う春奈に、あかりはツッコミを入れるふりを見せた。
「バッカ。そんなわけないでしょ。卒業したら、わたしは磯貝先生のところでずっと練習だよ」
学年末試験が終わると、あかりは一足先に磯貝が練習拠点とする千葉・安房鴨川へと赴き、一旦卒業式までの間イソガイアスリートクラブの練習に合流するという。寂しそうな表情を浮かべる3人に、あかりは発破をかけた。
「そんなシケた顔しないでよ。新監督の話聞いて、キミたちだったらちゃんと自分たちで計画してやっていけると思ったから、その案に賛成したんだし。あと3週間ぐらいだけど、もちろん秋田にいる間は相談にも乗るからさ…頑張ろ?」
あかりの言葉に、春奈の顔にも明るさが戻る。
「正直、不安の方が大きいですけど…でも、期待していただいているからこういう形なのかなって思いますし。頑張ります!」
一美と秋穂も、顔を見合わせてうなずいた。
「そう、そうこなくちゃ。今度こそ、みんなで優勝目指して頑張ってほしいからさ。わたしも応援してる。よろしくね」
あかりの言葉に、春奈たちは力強く答える。
「はい!」
<To be continued.>




