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#74 トップギア

 隅田川を窓の向こうに見下ろすマンションの一室で、男は手付かずの段ボールに囲まれながらテレビを無言で眺めていた。右手には缶ビールを持ち、左手に持ったタールのきつい煙草を燻らせ、口元からゆるく煙を吐き出す。この部屋に、段ボール以外の荷物はない。無造作に散らかした洋服と、コンビニの袋が男の周囲には散らばっている。


 無言で見つめるそのテレビには、観衆の声援を背に受けて走るひとりの選手の姿がある。


 「濱崎...」


 男は、そう無気力に呟いた。本来この部屋にあったはずの家族の団欒は、どこかへと霧散してしまった。荷物をまとめて戻ってきたこの自宅には、出迎えるはずの妻と息子の姿はなかった。


 その男――本城は再び煙草をくわえると、まただらしなく煙を吐いた。


 「...、はあ...」


 一美を、バイクリポートが後方から映す。勢いよく飛ばすその姿は、追い風にも乗って軽やかに舞うようにも見える。前方には九商大長浜、さらにその先には八王子実業の姿もとらえることができる。画面が、先頭の仙台共和大高に切り替わると本城はリモコンを手にし、テレビの電源を切った。


 そして、うわ言のように呟く。


 「違うんだ...濱崎...梁川...、冴島...みんな...聞いてくれ...聞いてくれよ...」





 「本当に頑張ったわね、天ちゃん。順位なんていいのよ、だって天ちゃんがこんなに努力したんですもの、帰ってきたらパパと一緒にお祝いしなきゃね...悠来ちゃん?悠来ちゃんなら自分の部屋にいるけど...今日はまだ起きてこないわね...どうしたんでしょ?お話するでしょ?ちょっと部屋まで見に行ってみるわね...悠来ちゃん?」


 「ねぇ、ママ!別に代わらなくていいから!ママったら!」


 天の制止も聞かず、母の志麻子は悠来の部屋の扉を開けると明るく訊ねた。


 「悠来ちゃん?悠来ちゃん。天ちゃんから電話なんだけど、出てくれる?」


(...電話したのわたしじゃないし!)


 天がイライラしながら電話口で待っていると、遠くから悠来の不機嫌な声が聞こえる。


 「...ザイ」


 「えっ?どうしたの、悠来ちゃん?」


 今度は、天にも聞こえるほど大きな声ではっきりと聞こえた。


 「だから、ウザイし」


 「...」


 志麻子はそのまま悠来の部屋を出て、リビングへ戻ると天に言った。


 「ごめんね天ちゃん、せっかく電話してくれたのに悠来ちゃん、お話したくないんだって、また後で電話してね」


(...だから、電話したのわたしじゃないし!)




 一美は、スピードを保ったまま1キロ地点へとやって来た。沿道には、夏海が待ち構えていた。ストップウォッチを握りしめた手はじんわりと汗ばみ、奥歯をぐっと噛み締めたその表情は緊張からか上気している。一美が1キロ地点を超え、ストップウォッチを押すと夏海は即座に視線を手元にやった。夏海はニッコリと笑顔を浮かべて大きくうなずくと、やってくる一美に向かって大声で叫んだ。


 「ずー!1キロ3分05!3分05!めっちゃいいペースだよ、ファイトー!!」


 一美は一瞬夏海に目をやると、やはり笑顔で大きくうなずいて左手を挙げた。そして、再び両手に力を込める。


(もっと行けるでしょ、一美!ここで練習の成果を見せないでいつ見せるの?)


 一美は、自らを叱咤すると両のふとももをパーンと叩いた。実況アナウンサーが興奮気味に叫ぶ。


『10位の秋田学院濱崎が、九商大長浜のアンカー小寺瑞穂に追いつきます!そして濱崎の入りの1キロですが、手元の時計で3分05秒!3分05秒と非常にハイペースで飛ばしています!解説の磯貝さん、濱崎非常にいいペースですが、見たところオーバーペースというわけでもなさそうですね?』


 磯貝が、感心した様子で2度うなずく。


『元々この濱崎選手、かなりスピードを持った選手ですがここ半年で大きく記録を伸ばして伸びやかに走れているんじゃないでしょうか...下りを利用してスピードを上げていますが、これは区間賞も狙えるいいタイムかも知れませんね』


 瑞穂に並んだ一美は、瑞穂の表情を振り向きざまにちらと見た。すでに口が半開きになり、余裕はないように見て取れた。すると、ペースを緩めることなくスッと瑞穂をかわして前へと進んでゆく。


『濱崎、いま九商大長浜の小寺を...抜いていきました!これで濱崎、タスキを受けてから3人を抜いて9位に浮上したことになります!そしてその前を行く8位の八王子実業は、3年生でキャプテンの青井結花ですが――この青井、後方から濱崎が来るのを見てグッとペースを上げました!八王子実業と秋田学院の差は約30メートル程ですが、かなりのスピードで濱崎が追い上げているにも関わらず青井が逃げています!最終5区はそろそろ中間の2.5キロ地点に差し掛かりますが、前を行く八王子実業が逃げるか、追い上げる秋田学院が初の入賞を手にするべく逆転を果たすか、大いに注目したいと思います!』



 一美の脳裏には、ちょうど1年前のある光景が映し出されていた。12位だった昨年の全国女子高校駅伝に、一美たちの代はエントリーされることがなかった。補欠で登録された悠来を除いて。


 秋田へ戻ってきた本城は、一美たちを呼び出すと一列に並ばせてこう叱咤した。


 「お前たちの学年には、闘志、やる気、団結力――そういうものが一切見えない...井田を除いて。今度の新1年は、全国クラスの選手が何人も入部してくる。お前たちがこのままの成長速度でメンバーに入れるとは思えない。井田を見てみろ!率先して梁川に師事して、成長しようと貪欲に学んでいる。もうひとりふたり、そういう奴が出てきてもいいんじゃないのか?…井田のように」


 忘れもしない。熱弁を揮う本城と、それを聞きながら横目で一美を見て嗤う悠来の顔を。既にこの時点で一美のタイムは悠来を上回っていた。あかりから、直々に学年キャプテンを任される話も聞いていた。それでも、本城は頑ななほどに一美には向き合おうとはしなかった。誰が相手かに関わらずはっきりと意見を言う一美は、悠来に疎まれ、本城に蔑ろにされたのだろうということにうすうす気付いていた。そして、一美が歩むこの1年は、決して楽な道のりではないということも。


 一美は、先を行く黒のユニフォームの背中に狙いを定めた。目的はひとつしかない。その背中――八王子実業を抜いて入賞圏内でゴールすること。そして、あかりにどうしても伝えなければいけないことがあった。




『先ほど、この濱崎に話を聞くことができました。濱崎は来年度の秋田学院の新しいキャプテンを務めることが決まっていますが、今日は必ず入賞圏内でゴールして、卒業する現キャプテンの梁川に安心して卒業してほしいと言っていました。わたしたちの世代は梁川先輩にずっと迷惑をかけ続けたけれど、わたしがまず結果を残すことで、下の学年も含めて一丸となって戦っていくところを見せたい、こう話していました。その濱崎、前を行く八王子実業の青井との差をジリジリと詰めています!3キロ地点で40メートルほどあった差が、今測ったところその差15メートルまで縮まっています!濱崎、ペースが落ちません。区間賞も狙える素晴らしいタイムで進んでいます!』


 一美は、結花の足音が聞こえる距離まで迫ると、心の中で呟いた。


(あかり先輩...わたしは、あかり先輩ほどリーダーシップもなければ、サエコほどスピードもありません。...だけど、同じ失敗は絶対に繰り返さない。そして、絶対に諦めない。この背中を抜いて入賞してみせます)


 一美は結花と並ぶとその表情を見た。苦しそうではあるが、足取りはまだ力を残している。今度は、それを見た結花がスピードを上げる。逃げる結花を鋭い目つきで睨みつけると、一美も再びギアを上げた。


『入賞争いが熾烈になって参りました。八王子実業の青井に秋田学院の濱崎が並び、2人ともペースを上げました!残り1キロ強、8位入賞を巡ってこの2人の熾烈なデッドヒートが始まります!先行している青井が逃げますが、濱崎もそれを許すまいと猛烈なスパートを見せています!』


 激しいせめぎあいの中、一美は静かにつぶやく。


 「絶対に...勝つ!!」




 「お待たせしました!」


 「春奈!大丈夫!?」


 競技場へ春奈たちが戻ってきた。松葉杖姿の痛々しい春奈に、あかりが声をかける。


 「ゆっくりでいいよ、無理したらダメ」


 「濱崎先輩が気になって...どうですか!?」


 「一美、八王子実業に追いついたよ!そろそろ、菜緒がいるポイント過ぎると思う...」


 春奈たちがそう話していると、突如競技場に歓声が挙がる。その声に振り向いた春奈たちは、思わず目を見開いた。


 「桜島女子が...!」


 2区以降終始先頭を引っ張っていた仙台共和大高に代わり、競技場直前で桜島女子のキャプテン・川井田莉奈が先頭を奪い返したのだ。莉奈は、そのまま仙台共和大高のアンカー荻原さや香をジリジリと引き離していく。ゴールラインの向こう側に陣取る桜島女子の部員たちも、莉奈に大声で声援を送っている。


 「桜庭さん...!」


 春奈の目に、部員たちの中心で飛び跳ねているさくらの姿が目に入った。莉奈は、さくらに右手をあげて合図するとさらにスピードをあげる。スタンドに実況が響き渡る。


『さあ桜島女子、3年ぶり3度目の優勝に向けて残り半周、アンカーのキャプテン川井田莉奈が威風堂々とトラックを駆け抜けます!追う仙台共和大高の荻原は限界か...川井田は勝利を確信したでしょうか、スタンドに向けて大きくガッツポーズを見せます!さあ、ラストの直線、今年の都大路を制したのは鹿児島県代表・桜島女子高校です!桜島女子のアンカー川井田、いまゴールイン!3年ぶり3度目の全国制覇!』


 莉奈がゴールテープを切る瞬間を、部員たちはじっと見つめていた。仙台共和大高のさや香もしばし遅れてゴールへと飛び込んでくる。続く浪華女子、京都鹿鳴館も競技場へと入ってくる。しばし桜島女子の様子に見入っていたあかりは、ふと我に返ると部員たちに呼びかけた。


 「そろそろ、一美が帰ってくる。行こう!」




 桜島女子がゴールしてからわずか1分半の間に、続々と後続がゴールテープを切ってゆく。すでに6チームがゴールし、間もなく7位のチームも最後の直線へ入ろうとしていた。


 決着の時が迫る。一美は、隣を走る結花の表情を再び見やる。口が空き、脇は開いて横振りになっている。とはいえ、一美に残されたスタミナもわずかだ。通りを曲がり、競技場の敷地へ入った瞬間、一美は念じ、腕を更に強く振る。



(あと少しだけ...全力で走れ!)


 実況が叫ぶ。


『秋田学院は大会直前に前監督が解任されるという事態となり、一時は出場も危ぶまれました。急遽監督代行に就任した秋田学院の岩瀬勲雄校長は、監督解任、さらにはキャプテンの梁川あかりが怪我で欠場というチーム分解の危機に、背中でチームを引っ張ってくれたのがこの濱崎だ、よく頑張ってくれたと称えました。いま、八王子実業を突き放しゴールへと近づいてくる濱崎ですが...涙でしょうか?目元には光るものがあります!秋田学院、初の入賞となる8位でのゴールはもう間もなくです!アンカーの2年生、次期キャプテンの濱崎一美が胸に掛けたタスキを握りしめ、最後の直線へと入ります!』


 ゴールで待ち構える春奈たちにも、やはり涙が光る。


 「濱崎先輩!ラスト50です!」


 「ハマ、がんばれー!!」


 「ずーちゃんファイト!あと少しだよ!」


 最初は疑心暗鬼だった、秋田学院で見守る残留組の部員たちも大きな声援を送る。その後ろで見守るマサヨさんは、黙って肩を震わせていた。


(よく頑張ったよ...あんたは、本当にカッコイイ。よく、有言実行してみせた...一美!)


 一美はゴールテープを切るその瞬間、笑顔で高々とタスキを掲げた。


『秋田学院、いま過去最高の8位でゴールイン!アンカーの濱崎が見事に4人を抜いての快挙です!いま、濱崎の元へと部員たちが歩み寄り、その喜びを爆発させています!――』




〈To be continued.〉

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