#72 6人目の走者
秋田学院では残留組の部員のほか、一般クラスの生徒や保護者などが大教室に集まり、プロジェクターに投影された駅伝の様子を食い入るように見つめていた。特に淳子と有希は中学からずっと秋田学院に通っているだけあり、中学部の教職員や後輩部員たちも駆けつけて、その様子を食い入るように見つめていた。
「近藤、いいぞ!頑張れ!」
「有希先輩、ファイトです!」
口々に有希への声援が飛ぶ中、前列に陣取った部員たちの中には先程までの美玲と同じように有希への応援をためらう2年生の姿もあった。すると、マサヨさんが部員たちの傍へ近づくと、小さい声ではあるが、強い口調で諭した。
「…何をボケーッとして黙って座ってんだ! 有希と一美、アンタたちの仲間が必死に掴み取ったメンバーの座じゃないか? ここまで、ほとんどメンバーに選ばれなくて悔しくて泣いてたのはアンタたちだろう? 有希と一美は、その夢を叶えて都大路でいま立派に走ってんだ。 アンタたちが背中を押してやらずに誰が押すんだよ!」
マサヨさんの言葉に、2年生たちの顔色が変わる。すると、ひとり、またひとりと有希への声援を口にし始めた。
「有希…頑張れ…!」
「近藤さん…!」
「有希ちゃん、ファイト!」
中継のカメラが、前を追う有希の姿を映す。
『秋田学院の4区を走りますのは2年生、これが初の都大路となります近藤有希です。この4区近藤と5区アンカーの濱崎一美が2年生なのですが、秋田学院といえばひとつ上の3年生には絶対的エースの梁川あかり、そして先程3区を走った川野淳子ら非常に厚い選手層を誇ります。そして今年の1年生には1区を走ったご存じ5,000m日本記録保持者の冴島春奈に、同じく2区の高島秋穂と、上下の学年に非常に強い選手がいる中でこの2年生たちはなかなか結果を出せずに悔しい思いをし続けてきた世代です。ですが、今シーズンに入り濱崎が自己ベストを30秒近く更新し、この近藤も土壇場で高校駅伝のメンバー入りをつかみ取るなど、非常に最終学年が楽しみな世代となってきました。…そして磯貝さん、この近藤ですがかなり速いペースで飛ばしているように見えますが…?』
実況の問いかけに、磯貝が小さく首をひねる。
『確かに近藤選手、体も大きくスピードのある選手ではありますが、序盤からかなり突っ込んでいるように見受けられますね…中盤以降下りでスピードを要求されるコースですので、この上りで消耗してしまわないといいのですが』
携帯電話のワンセグ放送でレースを追っていた怜名は、これから有希がやってくる方向を見つめて心配そうな表情を浮かべた。
(有希先輩…)
補欠とはいえ、ギリギリのところでメンバー入りを果たした怜名だったが、あの日、わずか体ひとつ分先着した有希に対してはジェラシーにも似た特別な思いがあった。しかし、いざ沿道に立つと、そんな気持ちも消え去り、この後やって来る有希をサポートしたいという心からの願いへと変わった。怜名は、再び有希の様子を見ようと携帯電話を手に取ったが、その瞬間携帯電話に着信があった。
「お疲れ様です、牧野です」
「怜名、おつかれ。有希が…」
声の主は、あかりだった。思わず怜名は聞き返す。
「有希先輩が? …どうしたんですか?」
「有希先輩、2人抜かれてもうてん…」
やはり携帯電話のワンセグ放送で中継を追っていた佑莉が、焦った様子で待合室へと戻ってくる。
「後ろが、かなり速いのかな」
みるほが問うと、佑莉が首を振った。
「後ろの人らが速いのももちろんやけど、有希先輩、最初に飛ばしすぎたんと違うかな…上りきつくなって、苦しそうや」
待合室で携帯電話を大っぴらに広げるわけにもいかない。佑莉は、みるほと一旦病院の外へ出ると、再びワンセグ放送を点ける。
「あっ…!」
画面に映し出された有希の顔は、すでに苦しさが滲んでいる。口は開き、顎が上がっている。先程まではある程度距離のあった後方のチームも、すでに背後に迫っているがペースが上がる気配はない。有希には、しばらく続く上り坂が嫌でも見えているはずだ。みるほは目を閉じると息をゆっくり吐いて、静かにつぶやいた。
「有希先輩…なんとか、下りになるまで粘って…」
気づかないうちに、焦りが自分の中に生まれていた。有希は、思うように動かない足に苛立ちながら、出足でオーバーペースとなったことを悔いた。
(まさか、上りがこんなにじりじり続くなんて…)
本来の有希は、冷静に状況を見極めて後半のスパートのタイミングを図るのが持ち味だ。ところが、緊張がそうさせたのか、今回ばかりは気づかないうちにペースが上がっていた。走り始めてから、すでに3人が有希のことを抜いていった。背後にも気配を感じている。
(下りまで…なんとか…!)
大教室に集まった観衆のそこかしこから、ため息が漏れる。淳子までなんとか入賞圏内の順位で耐えてきたが、ここへきての失速に会場は意気消沈した様子で、実況の音声が教室内に反響する。
『やはり最初に飛ばしすぎたでしょうか…? 秋田学院の近藤ですが、ここへきて4人…5人に抜かれて、タスキリレーの段階では7位でしたが12位まで順位を落としています…そろそろ得意の下りに差し掛かりますが、巻き返しなるでしょうか――』
怜名は、1キロすぎの地点――上りを終え、下りに差し掛かるあたりのポイントで有希を待ち構えていた。あかりからは、現状の有希の状態を推測した上での指示があった。すでに、首位の仙台共和大高をはじめいくつかの学校は既に過ぎ去っている。かじかむ手に息を吹きかけると、両手を組んで胸の前に祈るように合わせた。
(お願い…! あと2キロ、有希先輩に力を…!)
怜名は、あの選考レースの後、有希に掛けられた言葉が忘れられずにいた。
「牧野さんは、どうしてそんなに人に優しくできるの?」
「えっ? どうして…って…なんででしょう…?」
突然の質問に面食らっていると、有希が穏やかな笑顔を浮かべながら言った。
「本城先生も言ってたけど、わたしたち…というより、部のみんなは仲間でもあるけど、ライバルでもあるじゃない? でも、牧野さんは一緒に喜んでくれた…どうしてなのかなって」
有希の言葉に、怜名は屈託のない笑顔を浮かべた。
「それは、みんなが一緒の目標に向かって頑張る仲間だからですよ」
背の高い有希を見上げながら、怜奈は並んで寮へと戻る。トラックに灯る照明を眺めながら、怜名はキラキラとした瞳で答えた。
「本城先生のあの話、わたしは逆で。ライバルだけど、でもやっぱり仲間じゃないですか。この何年かは、親よりもずっと長い時間一緒に過ごして、みんなで全国優勝を目指すってなかなか経験できないですし。だから、同じ目標を持っている人が活躍してくれると嬉しいし、応援したくなるし、でも、自分ももっと頑張ろうと思うんです」
そう言って、怜名はぴょん、と跳ねて有希の目の前に止まった。
「?」
「だから、有希先輩のこと、本番でもめいっぱい応援しますからね!」
怜名は、ゴクリと唾を飲み込んだ。上り坂を終えた有希が、向こうの方から徐々に近づいてくる。数えた限り、さらに2人に抜かれただろうか。下り坂に差し掛かっても、苦しそうなフォームは変わっていない。――変わっていない――
怜名は、心臓がドキリと音を立てるのが分かった。もうすぐ、有希にも声の届く距離になるだろう。両手を顔の前に当てて、怜名はありったけの大声で有希に叫んだ。
「有希先輩! ピッチで行きましょう! ピッチで! 有希先輩!」
その声に気づいた有希が、ハッとした表情で怜名を見る。有希は大きく頷くと、左手の拳を掲げた。下り坂では、歩幅の大きいストライド走法は体への負担が大きく、無意識にブレーキを掛けようと体が反ってしまい、思うようなスピードにつながらないことがある。本来、有希はそうした対応の上手な選手だが、緊張と焦りからか負担の少ないピッチ走法への切り替えが頭から抜けて、不自然なフォームとなってしまっていたのだ。
すぐさま、怜名は携帯を手にした。
「もしもし?」
電話口のあかりに、怜名は伝えた。
「有希先輩、修正できたと思います! 指示は届いたので」
「OK! さすが6人目のランナーだね。あとは、有希に期待しよう。怜名、ありがとう!」
あかりの言葉に、怜名はやはり屈託のない笑顔を浮かべて二度三度とうなずくのだった。
<To be continued.>




