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#71 氷解

 「いたたたた…!」


 診察を終えた春奈は、処置室へと通された。患部はすでに赤黒く内出血し、痛々しくも腫れあがっている。みるほが、険しい表情でつぶやく。


「右足のハムストリングの肉離れだって…全治7週間。多分、1月の都道府県対抗には間に合わないかな…」


「えっ!?」


 春奈は悲しそうな顔で、一つ叫び声をあげた。


「…出ちゃダメだよね…?」


「ダメに決まってるでしょ!? 今無理して、もっとひどくなったら元も子もないよ。さっき、ゆりりんにも言われたんでしょ? ダメだよ! …春奈ちゃん、もしレース中にリタイアするようなことがあったら、無理して出るよりも迷惑かかるんだから、ちゃんと治さないとだよ」


 みるほにも厳しく叱られ、春奈は下唇をかんだ。その様子を見たみるほは、琴美に声をかけた。


「ごめんなさい、春奈ちゃんのお母さん…わたし、待合室に戻って少しやることがあって、春奈ちゃんのこと…お願いしてもいいですか?」


 みるほの言葉に、琴美は少し驚いたようだったがすぐに頷くとみるほに答えた。


「わかった。色々と気を遣ってくれてありがとうね。一度言い出したら聞かない頑固な子だから…春奈の処置が終わるまで、少しここにいさせてもらうよ」


 そういって琴美は春奈を見た。春奈はじっと窓の外を見つめて、口を真一文字に結んだままだ。




「この後、お母さん、新神戸まで行ってくるから」


琴美が外を見つめたままの春奈に話しかけると、春奈はぐっと顔を琴美に向けた。


「…お父さんに?」


 春奈の言葉に、琴美は黙ってうなずいた。新神戸の駅を降りて、駅のすぐそばの高台へと上っていくと父の浩太郎が眠る墓がある。新神戸は浩太郎の生まれ育った街だが、春奈はこれまで数回しか新神戸を訪れたことがない。


「おじいちゃんの所にも行くの?」


「…いや、今日は。突然行っても、会えるかどうかもわからないしね」


 春奈の祖父である正一は、いまは同じ神戸市内の老人ホームに蟄居している。祖母は春奈が生まれる前に交通事故で早世しており、かつて神戸市内にあった実家も引き払われてしまった。琴美は正一と顔を合わせたくない理由があったが、あえて春奈に言うまでもないと口をつぐんだ。春奈は小さくため息をついた。


 「2位と離せなかったから、お父さん、残念がってるかな」


「そんなことはないよ。お父さんも頑張ったなって言ってくれるよ」


 琴美はそう励ましたが、春奈は首を振った。


「ううん…約束守れなかったし…来てくれたのに」


「来てくれた?」


 春奈は、朝の出来事を話した。琴美は涙を浮かべて、静かに切り出した。


「浩太郎くん…お父さんはそういう人なの。あんたも、似てるなと思うことがあるよ。頑固な人だけど、義理堅くて、誰かとの約束を絶対に守る人。困ったり、苦しい時に何も言わなくても絶対に助けてくれる人。助けたことを一切鼻にかけないで、誰にでも礼儀正しく優しく接することのできる人…きっと、春奈の晴れ舞台だから、見に来てくれたんだと思うよ」


 そこまで聞くと、春奈は顔をクシャクシャにして涙を流した。


「お父さん…!」


「春奈…」


「会いたい…お父さんに…会って、よく頑張ったねって、言ってほしい…」


 琴美は、突っ伏して泣く春奈の頭を静かに撫でた。




 秋穂は未穂からガウンを受け取ると、側道で他校のタスキリレーの様子を窺っていた。すでに、秋穂のリレー直後からは10人ほどがリレーを済ませている。すると、遠くの方から沿道が徐々にざわめくのが聞こえ始めた。


(来たか…!?)


 秋穂が目を凝らした先からは、鮮やかなブルーとイエローのユニフォームが近づいてくる。すぐ先を行くランナーをかわすと、猛然とリレーゾーンに向かってスピードを増す。実況が、興奮した様子で声を張り上げる。


『第1中継点を30位でリレーした山形の酒田国際ですが、この2区なんとなんと、1年生留学生のシラ・キビイ・カマシがここまで14人抜きを見せてリレーゾーンに飛び込んでまいります! そして今もう1人…千葉の関東国際大附属を…抜きました! 3区の野島ひかりに今タスキを渡しました! カマシなんと15人抜きを達成!15位でタスキリレー! そして速報値ですが、カマシはここまで通過した中で最も速いタイム、すなわち区間賞が濃厚となりました! 山形の酒田国際、留学生カマシが見せ場を作り今15位でこの第2中継点を通過していきました!』


秋穂は、リレーを終えたシラと目があった。シラは充実感のある表情で秋穂に手を振った。秋穂はやはり、笑顔で返したが内心は穏やかでない。


(ウソじゃろ…シラといい、全員速すぎるじゃろ…?)


 険しい表情のまましばし秋穂はその場に立ち尽くしていたが、やがて携帯電話を取り出して通話を始めた。


「…あぁ、みるほ?お疲れ。春奈は…どう?」




 「…どう…したの? 野中さん…」


 突然美玲に大きな声で呼ばれた有希は、緊張を忘れて驚いたような顔で美玲を見つめた。美玲は紅潮した顔で、やはり有希を見つめている。握りしめた拳は小刻みに震えている。


「…あの! …あのね、…近藤さん!」


 よほど、美玲も緊張しているのは有希も感じ取れた。叫ぶように声をあげ、うっすら涙すら滲んでいるようにも見える。美玲は、言葉を続けようとした。


「近藤さん! …その! …わたし…ごめ」


「ごめんなさい!」


「…えっ?」


 突然、遮るように有希が叫ぶと、その場から立ち上がり美玲の手を取る。美玲は、驚いた表情で背の高い有希を見上げた。


 有希は、視線を落とすと弱々しく、しかし一気に続けた。


「…今まで、野中さんだけじゃなく、2年のみんなのこと、ずっと避けてきた。一美ちゃんが中心になってくれても、陰で何か言われてるんじゃないかとか、嫌われてるんじゃないかとか…でも、間違ってた。本当は、悠来がなんて言おうが、自分の目と耳で確かめて、自分の言葉で言わないといけなかったんだって…野中さん…ううん、美玲ちゃん。本当はもっと早く、わたしから話せばよかった。仲良くすればよかった。でも…何もしなかった。気づいたら、もうこんな時期になってた…わたしのせい。本当にごめんなさい!」


 そう言って有希は、美玲のことを悲しげな目で見つめた。すると、緊張で頬が紅潮したままの美玲が不意に有希の肩に両手を置いた。


「…謝るのは…こっちのほうだよ。わたしだって、悠来ちゃんの言うことを…鵜呑みにして、誰とも本気で話せないでここまで来た…勝手にひとりで悩んで…ひとりで傷ついてきた。わたしこそ…ごめんなさい、…有希ちゃん…今からでも遅くないかな?」


「?」


 美玲の言葉に、有希は小さく首を傾げた。すると、美玲がまっすぐに有希の目を見ていった。


「有希ちゃんと…友達に…なりたい」


 有希は、こわばったままの表情を崩すと、明るい表情に変わり美玲の手を取った。


「もちろんOKだよ! 美玲ちゃん、仲よくしよう!」


 その言葉に、こらえていた涙がこぼれる。美玲もやはり笑顔で答えた。


「…ありがとう! よろしくね、有希ちゃん!」




 淳子は、後から追ってきたランナーふたりに抜かれて順位を2つ下げた。さらに後方からは、数人の集団がやって来ている。残りは既に1キロを切り、間もなく500メートルほどになろうかという距離だった。


 (3年生の代表として…これ以上抜かれるわけには!)


 口では緊張はないと言いながら、レースが始まるまでの間ドキドキと、胸のざわめきが続いていた。無理もない。本来ならあかりや沙織、真衣たちと一緒にリレーするはずの駅伝だった。ところが、あかりの故障、真衣のインフルエンザによる離脱などひとり、ふたりと3年生がエントリーから外れ、気が付けば淳子だけになっていた。


 ふと、あと数百メートル後のことが頭をよぎる。これで、秋田学院の生徒として走る大会は最後になる。中学からの6年間を過ごした土地をもうしばらくで離れるのかと思うと鼻の奥がツーンと痛んだ。だが、感傷に浸るにはまだ少し早い。


(有希…!)


 第3中継点では、有希が最後の仕上げを終えてリレーゾーンへ向かうところだった。ようやく打ち解けた美玲が、有希のガウンを受け取る。最後に、お互いに顔を見合わせると、ニッコリと笑顔でうなずき、手を握った。


「…有希ちゃん、頑張ってね!」


「うん! 駅伝終わったら、もっとたくさん話そう!」


「わかった。…頑張ってね!」


 美玲の言葉に笑顔を浮かべると、有希は表情を浮かべてリレーゾーンへと向かっていた。目の前を、先ほどまで2位だった仙台共和大高が首位となりリレーしていく。そこから桜島女子、浪華女子などの学校が次々と通過する。視力の悪い有希は、メガネの位置を直してあらためて遠くに目を凝らした。すると、臙脂のユニフォームが徐々に大きくなってくる。


「淳子先輩!」


 有希は思わず、大きな声で叫んだ。淳子はタスキを両手で持ち、ピンと広げている。息も上がった状態で、淳子はリレーゾーンへ飛び込んできた。


「有希…たのんだよ!」


「わかりました!」


 受け取ったタスキを右手で大きく掲げると、有希は第3中継点を飛び出していった。




<To be continued.>

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