#70 緊迫の10分間
「美玲に?」
あかりは、一美からの依頼に思わず声をあげた。
「はい…あかり先輩から、一言お願いしたくて」
初めての大舞台に、ぎくしゃくしたままの有希とふたりきりという状況に美玲は完全に混乱していた。有希との接触を避けたいがために、もうすぐタスキリレーを迎えるであろう有希のことを、あろうことか蔑ろにしてしまっていた。会話すら成り立たない状況に、一美はすがる気持ちであかりに連絡していた。
「それで、今美玲はどうしてるのかな」
「わかんないです…有希と一緒にいないことだけは確かですが」
「…そうか…わかった。わたしから美玲に連絡してみる」
あかりの言葉に、一美は厳しい状況を少しだけ崩した。
「ごめんなさい…あの…よろしくお願いします」
秋穂は、なぜか胸の奥に踊るような気持ちを感じていた。残りわずかな距離でひとつでも上の順位を目指さなければいけない今の状況は、これまで走ったどんなレースよりも過酷だ。それにも関わらず、秋穂はウキウキとして仕方がなかった。自然と笑みがこぼれると、実況のアナウンサーがその様子を報じた。
『さきほど埼玉の白鳥学園をかわして4位に上がった秋田学院の高島ですが、ここへきて笑みを浮かべております! 先を行く桜島女子のギタヒ、仙台共和大高のジオンゴ、浪華女子のムワンギとは300メートルほどの差がある状況ですが、高島ここへきて余裕ともとれる表情です! …解説の磯貝さん、高島はいかがでしょうか?』
首をかしげるアナウンサーに対して、磯貝はさほど不思議でもないといった表情で答える。
『高島選手は調子がいい時であれば冴島選手に先着できる実力のある選手ですから、ここから先頭の3人にいいところで迫ってもなんら不思議じゃないんじゃないでしょうかね。特に今は3人がわりと牽制しあってペースが伸びていませんから、ここから高島選手が距離を縮めて3区に入る展開も十分あり得ると思いますよ』
その言葉が秋穂に聞こえたわけではないだろうが、秋穂はさらにスピードを上げた。傍から見ていてもグンとスピードアップしたのが見て取れるほどだ。沿道からは驚きの声が上がる。
『残り700メートルほどの距離、先頭の桜島女子ギタヒは間もなくタスキリレーを迎える頃ですが、4位の秋田学院・高島秋穂も一気に加速しました! 1区を走った冴島春奈と、スピードでは互角、いやそれ以上とも評されている高島です。ここで前を行く3校との差を埋めて、中継点で待つ3年生の川野淳子に少しでもいい位置でタスキを渡したいところです!』
秋穂には、留学生たちの背中だけが見えていた。
(待っとれよ…!)
春奈たちを乗せたタクシーは、病院のタクシーロータリーへ到着した。
「春奈!」
みるほと共に、そこには琴美の姿もあった。
「お母さん!?」
春奈が思わず叫ぶと、みるほが頷いた。
「すぐ近くにお母さんいたから、一緒に来てもらったんだ」
みるほは、さっと車の後ろに回ると春奈の荷物を手に取った。琴美は佑莉と一緒に、タクシーから春奈の肩を持って支えるように立ち上がった。
「春奈、アンタ、よく頑張ったよ…ほら、立てるかい?」
「お母さん…」
思えば、走り終わってすぐに琴美と顔を合わせるのは初めてだった。ふたりに体を預けると、琴美は春奈の顔を見てニッコリとひとつ頷いた。琴美がいて嬉しいやら、怪我をした瞬間を見せてしまって悔しいやら様々な思いが去来し春奈は思わず泣きそうになったが、佑莉やみるほの前で涙を見せまいとぐっと強く唇をかんだ。
「ほら、待合室まで行こう。ひどい怪我じゃなければいいんだけど」
「うっ…!」
痛めた腿の裏がうずく。痛みをこらえながら、春奈たちはゆっくりと進んでいく。病院のソファーに腰かけると、佑莉が慌てて病院の外へと飛び出していった。
「?」
みるほは、休日診療の受付で手続きをしている。外へ出て行った佑莉を春奈は首を傾げながら見ていたが、すぐに戻ってくると笑顔で口を開いた。
「秋穂ちゃん、前の留学生たちと10秒縮めたって!」
「ホントに!?」
あかりからの電話に、美玲は厳しい表情のまま答えた。
「…無理です」
美玲が即座に拒むと、さすがのあかりも少しムッとしたのか、空いた片手を大きく振りながら美玲を諭した。
「美玲、無理、じゃなくて、お願い。これは仕事だから」
「だって」
「何が『だって』なの?」
「…怖いです。近藤さんと話すのが…」
「美玲、あと淳子が中継所に来るまで10分もないんだ。キミが何もできないと、有希は不安なまま駅伝を走ることになる。それはここに来る前に分かったはずでしょ」
「…でも」
美玲は、何か理由をつけたそうにあかりの言葉をひとつひとつ遮った。
「言ってごらん。どうして有希が怖いの? どうしたら、有希と話せる?」
「…あ…」
電話口のあかりに、がさごそと何かを触る音が聞こえる。ハッとしたあかりは、思わず叫んだ。
「切らないで!」
「……」
「どうして?…理由を聞かせて」
あかりが問い質してもなお、美玲は黙ったままだ。すると、静かだが強い調子であかりは美玲に言った。
「お願い。いま大事なのは何なのか考えてほしい。申し訳ないけど…今はキミたちの事情を優先する時じゃない」
あかりの言葉に、美玲はハッとして身を固くした。数秒後、絞り出すように美玲がつぶやいた。
「悠来ちゃんに…言われたんです。学院中から来た岡村さんと近藤さんが、わたしのことを嫌ってるって…だから…怖いです」
美玲の言葉に、あかりは思わず天を仰いだ。
(悠来! キミって子は…!)
退学という形でその姿は消えても、依然として悠来が残していった爪痕は深く残ったままだった。入学早々にこの話を聞かされた美玲は、それっきり有希や同じく秋田学院中からやってきた岡村実咲たちを恐れ、断絶したままだったのだ。あかりは大きくため息をつくと、はらわたの煮えくり返りそうな怒りを鎮めるように静かに美玲に語り掛けた。
「そのことは有希とも話をしたよ…有希は、キミのことを嫌ってなんかいない。むしろ、時間がかかってもいいから仲良くしたいって言ってる…」
「そんな…でも」
トラウマのように、心の底にできてしまったひっかき傷はすぐに癒えるものではない。あかりの言葉にも、一度できてしまった不信感はすぐに拭い難いようだった。あかりは、美玲に促すような口調で語りかけた。
「美玲はどうしたいの? ずっと、有希たちとひと言も話さないまま卒業していく? 今日この場で、一歩進んでさ、有希に声かけてあげようよ」
それでも、美玲は言いよどんだ。
「仲良くは…したいですけど…だからって、今急に…」
「美玲! …今なんだ。この大会はみんなの1年間の集大成だから、キミ一人の気持ちを優先するわけにはいかないんだ。ね?」
あかりの言葉は、柔らかくも美玲に決意を促す厳しいものだった。美玲は再び逡巡したようだったが、ポツリポツリと言葉を発し始めた。
「…え、…あの、…やな、……梁川先輩」
「うん?」
「わかり…ました。近藤さんと…話して…みます」
「美玲…!」
「梁川先輩…近藤さんに…拒否されたり…しないでしょうか?」
あかりは、言葉に力を込めた。
「大丈夫! ふたりとも、気持ちは同じだと思ってる。だから、恐れないで。有希も、美玲と話すことを待ってるはずだから」
美玲は、視線の先にいる有希を見つめながらあかりに答えた。
「…はい!」
淳子は、第2中継所のリレーゾーンにゆっくりと姿を現した。すでに、先頭の桜島女子とそれに続く仙台共和大高校はリレーを終えた。視線を上げると、3位の浪華女子のマケナ・ムワンギがやって来るのが見える。隣に立つ浪華女子の3区のランナーが飛び上がるようにして、マケナに合図を送っている。淳子はそれを横目に見ながら、腕にはめていたヘアゴムを取り後ろ髪を結んだ。大きく息を吐きだすと、手袋をはめた手で頬を2回、3回と叩く。
「秋穂…!」
追いかけたが、先頭集団の留学生3人には追い付かなかった。身近に、日本一のランナーがいる中で練習を積んできた。それでも、わずか4キロ強の間に、今の自分では届かない絶対的な差をまざまざと思い知らされた気分だった。最大で1分近く開きかけた差は、20秒ほどにまで縮めた。それがせめてもの意地だった。
(あと少し、動け! ウチの身体…!)
自分でも気づかないうちに、涙が溢れる。淳子の姿が徐々に大きくなってくる。秋穂はタスキを外して、淳子に向かって大声で叫んだ。
「淳子先輩! すみません、お願いします!」
「秋穂! おいで! …秋穂!」
涙を流しながら髪を振り乱して近づいてくる秋穂に感極まったのか、淳子は思わず口元を手で押さえた。秋穂が両手で伸ばしたタスキを受け取ると、去り際に秋穂の背中をポン、と叩いて呼びかけた。
「秋穂! ありがとね! 行ってきます!」
「淳子先輩、ファイトです!」
勢いあまって転んでしまった秋穂は、去っていく淳子の背中に大きな声で呼びかけた。
有希は、10数分後にタスキリレーを控えてもなお、足の震えが収まらずにいた。アームカバーをまとって寒さには対策をしたつもりだが、緊張からか全身がこわばり、顔がひくひくと音を立てるかのようにひきつる。周囲のランナーたちが、みな余裕に見えてくる。
(どうしよう…緊張が…)
すると、後ろから肩をトントンと叩かれたかと思ったその瞬間に、有希は大きな声で名前を呼ばれた。
「近藤さん!!」
振り向くと、有希は驚いた表情で相手の名を呼んだ。
「野中さん…?」
<To be continued.>




