#6 高鳴り
【前回のあらすじ】
父の死を理由になおも見学を渋る春奈に、本城は特待生としての条件を提示し熱意を示す。春奈は、母の琴美と共に秋田学院を訪れ、充実した設備などを見学する。帰りのタクシーで「自分の好きな道を決めればよい」という琴美を心配する春奈。母と離れて暮らすのが寂しい春奈は、琴美の言葉に涙する。
中学を卒業するまでのカウントダウンはじりじりと、しかしあっという間にその数を減らしていった。
寒さのピークともいえる1月の半ば。春奈は京都・西京極総合競技場にいた。強豪チームの所属でないにも関わらず、日本新記録などの顕著な活躍を認められ、都道府県対抗女子駅伝の神奈川チームの中学生メンバーとして選出されたのだった。
春奈は胸に「神奈川」と大きく書かれたオフィシャルチームのユニフォームを掲げると、緊張しつつもどこか誇らしげな表情を浮かべてその姿を鏡で見つめた。
(緊張するけど…でも、やるからにはトップに立ちたい)
春奈は、その目に闘志の炎を燃やすとウォーミングアップのためにテントから勢いよく飛び出した。初めての駅伝。ライバルチームはおろか、自チームの中にもいずれは競争することになるであろう選手たちもいる。春奈は胸の奥に軽い興奮を覚えた。
数年ぶりの優勝を狙う神奈川県チームは実業団の有力選手も揃う中、世代最強どころか女子陸上界でも屈指のスピードを持つ春奈を擁し、優勝筆頭候補とまで騒がれていた。
中継所のある大通りから、一本奥まった道沿いでは、他チームのランナーがウォーミングアップを始めている。春奈もグラウンドコートを翻すようにして走りだした。すると、それまでは前方を見据えてダッシュを繰り返した他のランナーが、大きく「神奈川」と書かれた背中をきょろきょろと見やり始めた。これが噂の冴島春奈だ――。全国の舞台に、きょう一番の注目選手が飛び出そうとしている。他のランナーたちは気が気ではない。そんな様子を知ってか知らずか、春奈は黙々とアップを続けていた。タイムだけでいえば、1キロのラップは同世代と比べても10数秒早い。ある意味、勝ちを運命づけられた状況だ。そんな中での走り。敵は自分と――、
――この寒さ。
レースにひとつだけ戸惑いがあるとするならば、それは想像を超える京都市街の寒さだった。朝からの小雨はみぞれ状になり、もはや雪に変わろうとしている。加えて、ランナーは京都盆地特有の強風にさらされる。
「ううぅっ...!」
春奈は、凍えそうな口元から小さなうなり声をあげた。慌ててテントに戻るとシューズを放り出し、自分の荷物をさぐる。取り出したのはハイソックスとアームウォーマーだった。デンバー暮らしの長い春奈にとって、寒さは慣れているはずだった。しかし、折からの強風に身体より先に心が悲鳴を上げた。
(なんでこんな寒いの...!?)
カタカタカタ…と、小刻みに震え奥歯を噛み締めると春奈は再びテントを出た。
午後12時30分。テントに設置してあるモニターからパァン!という乾いた音が聞こえる。レースが始まった。第1区は西京極競技場から、桜の名所として知られる平野神社までの6キロだ。47都道府県のランナーは最初こそ一団だったが、競技場を飛び出す頃には縦長に伸び、既に差が少しずつつき始めていた。
すると、テレビを見やっていた他の中学生が、不意に大きな声を上げる。
「...、誰か転んだよ!?」
小さなモニターでは状況がよく掴めないが、年配の関係者が手元のリモコンを取り音量を上げる。飛び込んできた実況に、春奈は耳を疑った。
『転倒です!転倒です!さきほど山口と...神奈川のランナーが交錯して転倒しました。ああっと...? 神奈川のランナーは足を痛めたでしょうか?集団から遅れ始めています!』
1区を務めるのは浦賀国際高校のエース堀内美乃梨で、この47人のランナーの中でも上位のタイムを持つスピードランナーだが、転倒した際に右足を痛めたのが目に見えてわかる状態だ。足を引きずり、フォームはバランスを失っている。長く伸びた集団から、さらに10数メートル離されただろうか。美乃梨は必死の形相で前を追おうとするが、思うように足が前に出てこない。
「美乃梨先輩…」
春奈は、心配そうな表情でテレビを見上げていた。
人見知りの激しい春奈は、前日のホテルでの決起会でも片隅で所在なく過ごしていたが、そんな春奈に声をかけてメンバーの中に誘い入れてくれたのが美乃梨だった。――怪我は大丈夫なのだろうか?完走できるのか?春奈の心臓はドキドキと音を立て始めた。美乃梨を心配する一方、テレビには集団のトップを走るランナーが映し出されている。
(あれは...片田さん!)
春に5,000メートル14分42秒という驚異的な記録を打ち立てたその時、春奈が抜き去って行ったランナー、それが片田美帆だった。あれから半年と少し。春奈に記録を抜かれたその悔しさを胸に、美帆もまた練習に励みそのタイムをまた伸ばしていた。美帆はサングラスをかけており目つきこそ窺えないが、真一文字に結んだ口から、食いしばった白い歯がのぞく。
『先頭を走ります兵庫の1区のランナーは、姫路女学館高校の片田美帆です。この4月から、名門の紅学館女子大学への進学が決まっています。レースを前に、片田選手のインタビューを行いましたのでその模様をご覧ください…』
テレビの左下に、美帆の表情が映し出される。美帆が語り始めた。
『「今年は自分自身の記録を伸ばすことが出来て、充実した1年間ではあったんですけど、あるレースで中学生に負けてしまって、それが本当に悔しかったので、女子駅伝では絶対に区間記録を出して、チームを優勝に導きたいと思います」...』
「中学生に負けてしまって」という言葉に、瞬間春奈はギョッとした表情を見せた。心臓が先ほどの不安とはまた違った高鳴りを始める。
(片田さん、わたしのことを意識してるんだ…)
あの時は無我夢中で、ほかの選手のことなど意識する暇もなかった春奈は、今この瞬間になって自分にライバルがいることを明確に意識すると、顔がカァーッと紅潮したのを感じた。両の拳をつくると、太腿を2回、3回と叩き、その場で軽くジャンプした。
「よし!絶対負けない!勝つから!」
あえて周囲に聞こえるぐらいの大きな声で叫ぶと、周囲のランナーが一斉に春奈を見やった。春奈は周囲の様子に構わず、再び外へと飛び出していった。
1区は序盤で飛び出した美帆が後続との差をさらに詰め、ぶっちぎりというに相応しいスピードで第1中継点に飛び込んだ。30秒ほどの間が過ぎ、後続のランナーが次々とタスキリレーを行っていく。10人、20人と過ぎる中に神奈川県チームの姿はない。じりじりと上り坂の続くコースは、たとえ気象条件が良好だとしても走りやすいものではない。怪我を押してのレースならば尚更だ。
テントに戻り、準備を始めていた春奈は不安な表情でテレビを見上げていた。
『「39位…神奈川!」』
実況の後ろの方から、ランナーの到着を知らせる係員の声が聞こえた。1区の美乃梨は、最大数十秒差まで差を広げられながら、後半なんとか持ち直し8人を抜いてきた。顔は左右に大きく振れ、痛みに表情は歪んでいる。それでも肩に掛けていたタスキを両手でピンと伸ばすと、中継地点で待つ2区のランナーめがけて飛び込んでいった。
「美乃梨!もうちょっとだよ!ファイトー!」
中継地点で待つキャプテンの佐野史織が、大きな声で美乃梨を鼓舞する。ゴールラインまであと10メートル。美乃梨は史織を見つめると、最後の数歩を全力で詰める。
「うああああ!」
ゴールラインを超えて史織がタスキを受け取ったことを確認すると、上体がグラッと傾き美乃梨はアスファルトに倒れこんだ。救護の係員が駆け寄り、美乃梨を抱えてテントへと運び、美乃梨の姿がテレビの画面から消える。
一部始終を見届けた春奈の頬には、ひとすじの涙が流れていた。あと10数分後には、テレビ画面越しに見た史織が中継所に飛び込んでくる。美乃梨が怪我の痛みを必死で我慢してつなげたタスキが、もうすぐ手元にやってくる。
そのタスキを、ひとつでもいいポジションで次のランナーに渡すために。
春奈は涙の跡をぐっと拭うとグラウンドコートを脱ぎ、スタート前最後の準備へと向かった。
<To be continued.>




