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#68 勝負の100メートル

 その頃、怜名は第3中継点を出ようとしていた。怜名は、4区の入りの1キロ地点に待機し、1キロ地点でのラップタイムを有希に伝える役目を担っている。ところが有希は険しい表情を崩さないまま、青白い顔でガウンを深く羽織ったまま立ち尽くしている。

「有希先輩…」

 心配した怜名が声を掛けると、有希はか細い声で答えた。

「牧野さん…怖い」

 歯をカタカタと鳴らし、焦点が定まらない。心ここにあらずといった様子の有希を見かねて、怜名は有希にグッと抱きついた。

「…大丈夫です」

「牧野さん…」

「有希先輩、わたしに勝ったレースのこと覚えてますか?最後の100m、全力で走っていく有希先輩、すごくカッコよかったんです。間違いないです。有希先輩は絶対大丈夫ですから」

 その言葉に、有希の頬に血色が戻る。

「牧野さん…ありがとう!」

 怜名は有希から離れると、二度三度ピョンピョンとその場でジャンプした。

「それじゃあ、わたしは1キロのところで有希先輩のこと待ってますね。わたしが言うんだから間違いないです!」

 そう言うと、怜名は有希の手を握ってニッコリと笑った。そして、すぐそばで待っていた同じ2年生の野中美玲の元へと歩み寄った。

「美玲先輩、有希先輩のこと、よろしくお願いします」

 一瞬、美玲は戸惑った表情を浮かべて小さな声で答える。

「えっ?…あぁ、うん…」

 怜名は、美玲に頭を下げて1キロ地点へと向かっていった。すると、有希と美玲の間には気まずい空気が流れる。

「…」

「…」

 お互い視線も合わせなければ、歩み寄る気配もない。美玲は険しい表情のまま、ごくりと唾を飲み込むと口を開いた。

「あの…近藤さ…」

 ブーン、ブーン、ブーン、ブーン

 首から下げた携帯電話が鳴った。美玲は、携帯電話を手に取ると有希の近くから離れてしまった。

「野中さん…」

 有希は、去っていく美玲の背中を見つめて深いため息をついた。


 最後の第4中継所では、一美が思案顔でストレッチを行っていた。

「どないしたんですか?」

 一美に付き添っていた礼香が訊ねると、一美もやはりため息をついた。

「いや…有希、大丈夫かなって」

「有希先輩ですか?美玲先輩と、怜名が一緒にバス降りて行きはりましたけど…」

「あぁ…美玲ね…」

「なんか、あったんですか?」

 一美は、一瞬の間をおいて断言した。

「ぶっちゃけ、仲悪いんだ。…仲悪いっていうか、あの2人喋ったことほとんどないんじゃないのかな…」

「えぇ!?」

 礼香が驚いた表情を見せると、さらに一美が大きくため息をついた。

「悠来だよ。入学してすぐ、うちらは何人かずつグループになって。悠来は、そのグループそれぞれに嘘の噂流して、お互いが遠ざかるように仕向けたんだよ。全部、自分のところに相談が来るようにって」

「怖ッ…!」

「それがあってから、今の2年生はバラバラ。A班のメンバーは練習するうちに誤解も解けてきたけど、B班C班のメンバーはずーっとギクシャクしたまんまだし」

 前屈から体勢を戻すと、一美は視線を落としたままつぶやいた。

「そんなウチらでも3年生になるから、まとめなきゃいけないのはわたしなんだけどね…や、オギシマン、なんかごめん」

「いやいやいや、変なこと聞いてすんません。有希先輩…今何してはるんですかね?」

 礼香の言葉に、一美は携帯電話を手に取った。

「美玲に電話してみようか…」


 『冴島が爆発的なスパートを見せましたが、なんとなんと、桜島女子の桜庭さくら、その冴島の後ろにピッタリとついて離れません!八王子実業の井田は徐々に後方へと下がっていきますが、桜庭は離れません!離れません!猛烈なスパートを見せる冴島に懸命に追いすがります!残りは400mですが、逃げる冴島を必死に追いかける桜庭です!これは1区からとんでもない展開になりました!』

 興奮した様子で叫ぶアナウンサーの声が、競技場に響き渡る。観客からは、どよめきと歓声の入り混じった叫びが聞こえる。あかりは、手に持っていたバインダーを膝に立てかけて腕に顔をうずめると、険しい表情でつぶやいた。

「ウソでしょ…春奈のあのスピードについていけるなんて」

 さすがに先程までの余裕な表情ではないものの、全身を大きく使い必死に春奈に食らいついている。一方の春奈はといえば、ちらちらとさくらを気にしながらも、自らのフォームを保ちながらスピードをぐんぐんと上げている。

「まさか、これ、リレーゾーンまであの子ついてくるとかあるわけ…?」


 (…速い!)

 スピードを上げども上げども食らいついてくるさくらに、春奈は驚きを隠せずにいた。顔を紅潮させ、目を見開き、両手をぐんぐんと前に勢いよく振り出していく。その小さな身体のどこにこれだけの力があるのかと思わせる勢いに、春奈はギョッとした表情を見せた。

(これでも…か!)

 もう、第1中継点は視界に入っている。あと一分もないうちに、タスキは中継点で待つ秋穂の手元に届けられるだろう。あとは、お互いに最後のスピード勝負だ。握りしめた拳は、爪が深く食い込んで痛いほどだ。それでも、力を緩めるわけにはいかない。

『さあ、最後の300mを切り、トップを争う秋田学院・冴島と、桜島女子・桜庭の一騎討ちとなりました!冴島がまだ先行していますが、桜庭もピッタリとその背中を追っています!ハイスピードな展開となった1区ですが、最後の最後、まるで短距離走のようなすさまじいスピードで両者が中継点に向かいます!』


 「もしもし…?」

 美玲は、消え入りそうな声で電話に出た。一美が聞く。

「あぁ、美玲お疲れ様。有希はどんな感じ?」

「えっ?…あっ、その…」

 電話口の美玲は、おどおどとした様子で口ごもっている。一美は少しイライラとした様子で、さらに美玲に訊ねた。

「いや、だからさ。今、有希はどんな様子なの?何をしているの?」

「…今、ここにはいない…」

「えっ?で、有希はどこ行ったの?」

「…わからない…あっ、苑田先輩から着信来たから…」

 プツッ

 電話は切れた。一美は苛立った様子で携帯電話を閉じると、頭を掻きむしった。

「あぁ、もう!何やってんの!?」

 美玲は、パニックに陥っていた。普段からただでさえ口数が少なく、どこか頼りない印象を受ける美玲は今回初めて駅伝の帯同メンバーに選ばれた。慣れない環境にあって、手元の携帯電話にはひっきりなしに着信が来る。そのうえ、有希とは普段から親しく話す間柄ではない。

結果、美玲は有希が今何をしているかすら把握できていない状況にあった。有希は、傍で見守る者のいないまま、ただ1人アップを行っている。

表面上冷静を装おうとしても、ヒザと奥歯から止まない震えが有希を襲う。

(…どう…しよう)


 秋穂は、ガウンを脱ぐと佑莉に手渡した。

「秋穂ちゃん、頑張ってや!」

「了解!強敵じゃけんど、精いっぱい頑張ろわい!」

 佑莉と力強く握手を交わすと、秋穂はゆっくりとリレーゾーンへと進み出る。周囲には、他校の留学生たちがタスキリレーの瞬間を待っている。

(これは…シビレるなぁ)

 リレーゾーンのすぐ外には、シラがまだガウンを着た状態で待機している。目が合うと、秋穂はゆっくりとうなずいた。シラは、右手を挙げて答えた。

(待っとるぞ…シラ)

 すると、徐々に沿道の声援が大きくなってくるのがわかった。

(来たか…?)


 リレーゾーンで手を挙げている秋穂は、すでに視界の中に入っている。残り150mほどの距離は、本当ならウイニングランといきたいところだが、すぐ隣を並走するさくらは、そう簡単に引き下がりそうにない。春奈は再びさくらを見た。スピードを上げども上げども、幾度もあったスパートにすべて対応してきた。だが、区間賞はただ1人だ。それは――


(…あなたじゃない!)


 さくらに勝ちたい、というシンプルな欲望が、腹の底から湧き上がるのが分かった。その瞬間、春奈は並走するさくらをギロリと睨みつけた。その時、チラリと横をむいたさくらと目が合う。春奈が初めて見せた鬼の形相に、一瞬だけ戸惑ったさくらも春奈を睨み返す。次の瞬間、限界と思われたスピードがさらに増す。もう、残りは100mを切った。

 実況が、興奮した様子でまくし立てる。

『さあ、先頭の二人にとって泣いても笑ってもあと100m、10数秒の間に勝負は決します!秋田学院冴島、桜島女子桜庭、2人とも決死の表情でリレーゾーンへ飛び込んでまいります!タスキを手に取って、どちらが先に出るか!ここは冴島が優勢か!冴島か!桜庭か!冴島が体一つ前に出た!2人の差がじりじりと開きます!冴島が速い!冴島が速い!』


 恐ろしいほどのスピードで飛び込んでくる春奈が視界に入ると、秋穂の心臓がバクバクと音を立てる。普段身近にいるはずの秋穂ですら、今まで見たこともない春奈の顔つきに一瞬、言葉を失った。だが、すぐに我に返ると両手で大きく手招きをするような仕草を見せ、春奈に向かい声を張り上げた。

「春奈!春奈!ラスト!春奈!」

 出せる限りの声で叫ぶと、右手を前に突き出した。そこへ、春奈が駆け込んでくる。最後の最後でさくらは力尽きたのか、数メートル後方にその姿が見える。春奈は、タスキをぴん、と張ろうとして両手を広げた。ラスト数メートルのその瞬間、着地した右足に鈍い衝撃が走るのが分かった。


 …ビリッ!


 痺れるような痛みが走り、あと数歩のところで態勢が崩れる。一瞬止まった春奈の動きを見て、すかさずさくらが最後のスパートを試みる。

(…まずい!)

 痛んだ右足を見たその顔を再び前に向け、秋穂に向かってタスキを広げなおす。もうこの数歩の間で、フォームなどはどうでもいい。秋穂の手がタスキへ伸びる。その手が、タスキを持ったことを確認すると春奈は歩道の方へ大きくぐらりとよろめいた。秋穂は横目で春奈を見ながらタスキを持った右手を掲げると、前方へ向き直りコースへと飛び出していった。痛みをこらえながら、春奈は秋穂に向かい懸命に叫んだ。

「ファイトー!!」


『大激戦となったこの1区、最終的に区間賞を獲得したのは秋田学院の冴島春奈ですが、その冴島右の太腿のあたりを押さえています!怪我の程度が心配されますが大丈夫でしょうか…?そして、その冴島に1秒もない状態で2位でタスキリレーをしたのは桜島女子の桜庭さくら、お見事な走りでした!2区のニャンブラ・ギタヒに非常にいい位置でタスキを渡しました!後続も次々とタスキを渡していきますが、ここから留学生ランナーたちが一位を行きます秋田学院の高島秋穂を猛追してまいります――』


「ウウウ…!」

 歯を食いしばったまま、荒い息づかいにまみれて春奈は痛みをこらえていた。慌てて、佑莉が駆け寄ってくる。走り終えた火照りとは別の、寒々しい脂汗が額に浮き上がってくる。

「春奈ちゃん!大丈夫!?いま、救護の人すぐ来はるから…!」

「うう…佑莉ちゃん…あんまり、大丈夫じゃない…かも……!?」


 その時、佑莉の背後を横切った姿を見て春奈は呆然とした。先程まで恐ろしいほどのハイペースで追従していた桜庭さくらが、付き添いの部員たちとにこやかに通り過ぎるではないか!

「ウソでしょ…!?あんなに飛ばしたのに…!?」

 口をあんぐりと開けて見つめる春奈に気づいたのか、さくらは立ち止まると春奈の方を向いて大きくお辞儀をすると、レース中と同じように白い歯をみせてにこやかに微笑むと歩道の方へと去っていった。

 何事もなかったかのように平然と去る姿に、春奈は背筋のあたりに刺すような寒気を感じた。


 第1中継点を飛び出してすぐに、桜島女子のニャンブラが真横を颯爽と追い抜いて行った。まだ500mも進んでいないというのに、すでに3人は留学生ランナーが駆け抜けていっただろうか。慌てて体を一瞬ひねり、後方を向く。留学生の姿のほかに、日本人のランナーは1人か2人程度だ。前を向き直ると、秋穂は首を振って大げさにため息をついてみせた。

「いや、いや、いや…」

 日本人トップであることを確かめて、一瞬安心しかけた自分の考えを秋穂は戒めたつもりだった。ところが、前方にさっきまで見えたはずの留学生たちは、一瞬後ろを振り向いた瞬間にもう小さな点になっていた。

 「おかしいじゃろ…!」

 とんでもない区間を走ることになってしまったと、秋穂はギリギリと音を立てて歯ぎしりした。


<To be continued.>

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