#66 ダークホース
先を行く天にも、後方から迫る複数の足音は当然聞こえていた。その足音が、背後の気配となって感じられるようになった時、意を決したように天は後ろを振り向く。その視線が、ちょうど春奈のそれと交差する。天は一瞬目を見開くと、視線を逸らすことなく大きくうなずき、再び前方を向いた。
春奈は天との視線が合うと、笑みを浮かべてやはり大きくうなずいた。
(天さん、勝負ですね)
『トップは八王子実業の井田、そして秋田学院の冴島ら9人の集団となりました。ここからこぼれる学校は今のところありません。先程まで井田を除くランナーはひとつの大きな固まりとなっていましたが、このトップ集団が前に出たことで均衡が崩れました。トップのその後ろ、長い隊列のように後ろへと伸びています。すでに、ペースに対応できない学校が複数遅れ始めています。19年ぶり2度目の出場となります愛媛の砥部、初出場の和歌山・橋本白鳳、…そして鮮やかなブルーと黄色のユニフォームは山形の酒田国際でしょうか?2区にはケニアからの留学生、シラ・キビイ・カマシが待ち構えている酒田国際ですが、2区出足からやや苦しい状況でしょうか――』
実況が戦況を追ううちに、先頭の集団も徐々に形を失いつつあった。春奈と天が中心となりペースが徐々にあがり、1人また1人と後方へと下がっていく。
春奈は、一度後ろを振り返った。天と春奈のすぐ後ろに、昨年の優勝校・仙台共和大高の藤本由香里がピッタリとついている。そして、京都鹿鳴館のエース・加藤晴夏も、隙あらば春奈たちを抜き去ろうと様子を窺っているように見えた。
(1校、2校、3校…)
振り向いた時の残像を頭に浮かべて、春奈は数えた。先頭集団に残るのは、天と春奈を除いて5人。そのうち拓洋大弘前と京都鹿鳴館を除く3校は2区に留学生が控えている。2区の秋穂がどれだけ1年生としては突出したスピードを持っていたとしても、1区である程度の差をつけられない限り勝負は厳しい。
決断の時は迫っていた。
『間もなく2キロを迎えるというところですが、ここで先頭集団、秋田学院の冴島が前に出ました。それに八王子実業の井田、仙台共和大高の藤本、京都鹿鳴館の加藤が追随…いや、冴島がここでペースを上げました!磯貝さん、冴島が序盤の2キロでペースを上げましたがいかがでしょうか…?』
解説席の磯貝が、サングラスをずり上げて眉間にしわを寄せる。
『秋田学院は留学生がいませんので、この1区の冴島の出来がこのあとのレース展開のほぼすべてに関わってくるといっても過言ではないでしょう。井田もそうですが、ここで差をつけないと2区の留学生にすぐに抜かれますので、早め早めに仕掛けようということではないでしょうか』
春奈は、すぐ横を追走する天の表情をちらりと見やった。先程から表情自体は一定だが、時折春奈の方をチラチラとみて、様子を窺っているようだ。ただ、その表情からは心のうちまで読み取ることは難しい。
春奈は再びペースを上げて、揺さぶりをかけた。先程まで追走していた青とオレンジのユニフォーム――の仙台共和大高が視界から遠ざかる。春奈たちと同様に、日本人のみのオーダーで臨む京都鹿鳴館も並走こそしているものの、表情に余裕はない。天はといえば、揺さぶりに動じる気配もなく春奈のすぐ横から離れない。すでに、2キロ地点を過ぎてしばらく経った。テレビ中継の画面が、空撮に切り替わる。
『これから選手たちは、五条通を左折して西大路通へと入り北上、金閣寺の方へと進んでいきます。ここからの約4キロは、大小さまざまな上り坂の連続となり、選手にとっては非常にタフなコースとなります。4.5キロ過ぎと、残り500m地点の傾斜のきつい坂をどこまで粘れるかが、1区のカギを握るポイントとなります――』
その残り500m地点の少し手前のポイントには真理が待機していた。時折吹く強い北風を身に受けるたび、細身の真理は小声で悲鳴を上げる。
「ウウウウッ…寒い」
幸い、天気が崩れそうな予兆はない。真理は、もうすぐ春奈たちがやってくるであろう西大路通を見つめながら、春奈のことを思い返していた。
「さえじ…」
それは、9月も後半に入り時折吹く風が肌寒く感じられる日曜日。真理は、秋田駅前の予備校にいた。高校に入り、初めて全国統一で行われる模試。陸上は高校で終えるつもりで考えている真理は、父の勧めもありまずは模試を受けてみようと朝早くから予備校へとやって来たというわけだ。
模試とはいえ、内容は本番同様だ。午前中の科目を終えて疲れたのか、真理は自分の座る席で両手を高く上げると背筋をぐっと伸ばした。
「んんんーっっ…あれ?」
ふと教室の前方に目をやると、見慣れた顔が教室を出ていこうとしている。真理は、慌てて席を立つと声をあげた。
「さえじ!…ねぇ、さえじ!ちょっと待って!」
「えっ!?真理?」
春奈が、同じ模試を受けにやって来ていたのだ。真理は、驚いて両手を顔にあてた。
「さえじ、なんで模試なんて受けてるの?」
「えっ、なんでって、大学受験のためだけど…」
「えっ?…さえじ、陸上続けるなら普通に推薦取れると思うけど…」
真理の問いかけに、春奈はしまった、という表情をした。将来何を目指しているか、という話を知っているのは怜名だけだ。部員はおろか、教員ですらも春奈は将来オリンピックを目指して競技を続けると信じて疑っていない。春奈は、一瞬考えると真理に言った。
「ま、真理、とっ、とりあえずさ、コンビニにお弁当買いに行かない?」
「えっ?…あ、うん、いいけど…」
絶対に内緒、と強く念を押して、春奈は将来についての考えを真理に明かした。真理は最初は驚いたようだったが、春奈の話を何度も頷きながら聞いていた。
「そっか、なるほどね…でも、春奈ぐらいになると、誰も放っておかないと思うけどな…」
「正直、オリンピックとか言われても全然実感ないし、本当に目指せるのかも分からないんだよね…でも、いつになるかは分からないけど絶対やりたいことだから、どこの大学がいいのかとか、何を勉強したらいいのかとか、調べておこうと思って」
そういうと、春奈は手元のピーチティをぐっと飲み干した。真理も、フォークでスパゲティをクルクルと器用に巻きながら春奈の話を黙って聞いている。すると、春奈が聞いた。
「真理は、何を目指すの?真理こそ、ちょっと勉強したら何にでもなれそうな気がするんだけど…」
春奈も苦手の体育と国語の一部科目を除いては成績のほとんどが5段階中の5だが、真理は正真正銘のオール5だ。期末テストの点数は、常に学年トップを春奈と真理が争っている。全校でも数少ない学費全額免除となるS級特待生の一人だ。春奈の言葉に、今度は真理が困惑した表情を浮かべる。
「自分が何になりたいとか、何をしたいとか、全然わかんなくて…」
そう言って、手元のウェットティッシュをピリピリと破き始めた。
「パパは、わたしを後継ぎにしたいとか言ってて。大学で政治とか法律の勉強しろっていうんだけど、ママは学歴なんていらないから、高校出たらすぐパパの事務所で働けって言ってるんだよね…わたし間に挟んでそういう話するのホントやめてほしい」
真理は深くため息をついた。真理の父は、秋田の県会議員を務める名士だ。若くして結婚した真理の母は父の秘書を務めており、お互いに思惑が違うようだ。すると、話を聞いていた春奈が口を開いた。
「そしたら、高校の3年間でなりたいこと見つけようよ」
「えっ?」
「真理が目指す方向が決まったら、お父さんたちも応援してくれると思うんだよね。わたしも別にお母さんにこんな話したことないけど、自分の人生だから、最後は自分で決められるように勉強したいなって思うし。いろんな人の話聞いて、いろんな本読んで…わたしでよかったら、相談乗るし」
春奈が微笑むと、真理も沈んでいた表情がパッと明るくなった。
「さえじ…ありがとう!また相談しちゃうかもしれないけど…頑張ってみるよ」
あの日の会話から、2か月ほどが経った。真理は、いまだに自分の目指す方向が定まってはいない。だが、春奈との会話がきっかけで、もやもやと胸につかえていたものがすっきりと晴れた気がした。
再び真理は、春奈たちがやってくる方向を眺めると小声でつぶやいた。
「さえじ…待ってるよ!」
西大路通に入り、傾斜が徐々に厳しくなっていく。春奈の横を走る天は、相変わらず表情をぴくりとも変えず、足を大きく振り出すダイナミックなストライド走法でペースを刻んでいる。春奈は、後方を振り向いた。つい先ほどまで大きな固まりとなっていた集団は、西大路通を縦長の列になってずっと後方まで伸びている。
すると、春奈は天に視線を送った。天が走りながら小さく首を傾げると、今度は春奈が逆側――自分の右隣を向いた。
実況が、その様子を解説の磯貝に聞く。
『1区は中間地点の3キロを過ぎました。ここまで、東京の八王子実業・井田そして秋田学院・冴島の両選手が先頭を走る展開となっていますが…磯貝さん、ここまでもう1名、先頭で大健闘している選手がいますね?』
『そうですねぇ、事前にほとんど情報のなかった選手ですが、…1年生ですか?ここまで大健闘といって良いんじゃないでしょうか。ダークホースですね』
鮮やかな上下ブルーのユニフォーム。鹿児島代表の桜島女子の1区ランナーだ。事前エントリーでは、過去に出場経験のある3年生の生徒がエントリーされていたが、朝のエントリー変更で急遽出場の決まった1年生が出走している。
競技場のスタンドでは、あかりと萌那香が資料を見ながら首をしきりにひねっている。
「この子、本当にこんなタイムなの?」
「冗談でしょ…そもそも天と春奈についてってる時点で、3,000m9分20は切ってるはず」
あかりが手にしている出場選手名簿の公認記録には、3,000mのベストは11分15秒とある。秋田学院であれば、リクルーティングの対象からも外れてしまうようなタイムだ。あかりは、眉間にしわを寄せてもう一度大きく首をひねった。
「…桜庭さくら、1年生…?」
『桜島女子の1区を走りますのは、1年生の桜庭さくらです。偶然にしてはできすぎた名前ですが、桜島女子高校の桜庭さくら、ここまで先頭の井田天、冴島春奈の2人に劣らない堂々たる走りを見せつけております!この桜庭、桜島女子の城之内監督が秘密兵器と評するほど、非常に期待されている選手ということですが、その評判に違わずここまで先頭集団の中で非常に素晴らしい走りを見せております!』
その桜庭さくらは小柄な春奈よりも、さらに一回りは小柄だろうか。日に焼けた肌にショートカットの似合う、快活そうな少女だ。白地に青文字で「桜島女子」と書かれた鉢巻を結んでいる。いわゆるピッチ走法で、小気味よくリズムを刻みながら走っている。春奈が見ていることに気づいたのか、さくらは春奈たちの方を一瞥すると軽くぺこりと頭を下げた。緊張した空気の中飛ばしていた春奈と天は一瞬あっけにとられたのか、ぽかーんとした表情で頭を下げ返す。春奈たちの困惑などお構いなしに、さくらは順調にペースを刻んでいる。
再び、目の前には傾斜のある長い坂が迫る。春奈は、珍しく迷っていた。それは、事前に想定していなかった存在――すぐ横を並走している桜庭さくらがそうさせていた。とにかく、手元に有効なデータがない。走っている本人の足取りと顔つきだけが判断材料だ。オーバーペース特有のフォームの乱れや険しい表情は見られない。
春奈は、もう一度両隣の天とさくらを見るとさらにスピードを上げた。
『上り坂に差し掛かるところで、秋田学院の冴島がまたもペースを上げます!ここから第1中継点の直前まで断続的に険しい上りが続きますが、その上りに入るタイミングで秋田学院が仕掛けました!並走する八王子実業と桜島女子、対応できるでしょうか?冴島が2メートル、3メートルとじりじりと前に出ていきます!』
<To be continued.>




