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#65 最後に勝つのは、わたし達

「きゃっ!」


目の前の光景が急にくるっと回転したかと思うと、春奈は転んでしまった。何かに躓いたのか、膝を擦りむいて血が滲んでいる。

身体を打ちつけた痛みとショックで、春奈は大きな声で泣き始めた。

「痛いよう...痛いよう...パパ、ママ...」

「春奈、大丈夫!?」

春奈が走り回る様子を夢中で撮影していた琴美が、慌てて駆け寄ってくる。すると、琴美の手が伸びるよりも早く、大きな手が春奈の身体を包んだ。

「パパ...!」

春奈を持ち上げたのは、父の浩太郎だった。

「春奈、よしよし、痛かったなぁ...ほーら、いい子だ。痛いの痛いの、飛んでけ!パパがよしよししてあげるから、もう泣くのをやめて。見てごらん、綺麗な景色がよく見えるだろ?あれが、ロッキー山脈だよ」

浩太郎の言葉に、春奈は遠くの景色に目を凝らした。

「うわぁ...!」

泣きべそだった春奈の表情が、一瞬で明るくなる。雄大な山々と、澄んだ青空が春奈たち一家を包んでいた。春奈は浩太郎に言った。

「ねえパパ、高い高いして!高い高い!」

浩太郎は、一瞬驚いたような表情を見せた。

「春奈、パパが高い高いしても大丈夫か?パパ大きいから、思ったよりも高くて怖くないかい?」

「うん、平気!」

春奈の言葉に、浩太郎は白い歯を見せて笑みを浮かべた。

「そうか、...ほら!」

そして、両手をぐっと空に向けて突き出す。

「ほーら、春奈、高い高いだ!高い高い...」

「うわぁ...!パパすごい!高い高いだね!」

春奈は喜んでいたが、目の前の景色が徐々にぼんやりと滲み始め、やがて眩い光に包まれていく。春奈を支えていたはずの浩太郎の姿も、その光の中に徐々に消えてゆく。

再び涙が溢れ出すと、春奈は大声で叫んだ。

「ねえ、パパどこ?どこに行っちゃうの?ねえ、パパってば!パパ!パパ...」


ガバッ!


「ハアッ、ハアッ、ハアッ」

手元の目覚まし時計は、まだ予定の5時半より随分と早い。暮れも近づく12月の後半ともなれば、この時間はまだ暗いままだ。 時計の秒針が進むカチカチという音と、他の部員たちの寝息だけが部屋に響いている。春奈は、手で頬を撫でた。頬には無数の涙の跡がある。

(パパ...お父さん...夢か)

枕元に置いてあるユニフォームには、昨晩みるほたちマネージャー陣が縫い付けてくれたお守りが付いている。昨日琴美と約束した通り、お守りの中には家族3人で写った写真をしのばせてある。


「春奈...?」

怜名が、小さな声で春奈を呼んだ。

「おはよう...」

「春奈、泣いてた...」

怜名が、心配そうに見つめている。

「お父さんの夢見たんだ...」

「春奈のお父さん...」

「すごい背が高くて、日に灼けてて、力持ちで...もしかしたら」

そういうと、春奈は遠い目をしてつぶやいた。

「会いに来てくれたのかもしれない。ここに...」

そこまで言うと、再び涙がこぼれる。怜名は、顔を手で覆って静かに泣く春奈の頭を、しばらく撫で続けた。朝日が少しずつ窓から差し込んでくる。怜名は、静かに春奈に語りかけた。

「春奈...、いよいよだね」

春奈は、手で涙を拭って力強く答えた。

「...うん!」


朝食を終えた春奈たちが旅館の外へ出ると、一点の曇りもない青空が広がっていた。淳子が、ニヤリとして春奈に言う。

「春奈、よかったね。今日は晴れだよ…雨女返上できるじゃん」

その言葉に、春奈は思わず吹き出す。そうだ。これまで、春奈の参加してきた駅伝の大会は例外なくすべて雨か、もしくは雪だ。春奈は苦笑いしてつぶやいた。

「本当に…今日こそ、この天気のままでいてほしいです」

すると、萌那香が手元の携帯で何かを調べている。暗い表情で萌那香が嘆いた。

「今日…京都の天気、曇りのち雨だよ」

「ウソ!?」

思わず、春奈は萌那香の携帯電話を奪って画面を凝視した。京都の天気予報には、しっかりと雲と傘マークが記されている。春奈ががっくりと肩を落とすと、横からみるほが顔を出した。

「そんな暗い顔しないで、春奈ちゃん。ほら!」

みるほが何かを差し出す。

「あっ…てるてる坊主!どうしたの?」

「天気予報見て、マネージャー達で作ったんだ」

みるほの言葉に、彩夏も自らのリュックを見せる。てるてる坊主が3つ、リュックの横にぶら下がっている。彩夏も、みるほと同様に志願の上、新たにマネージャーに転向していた。

「大丈夫。わたしたちが願掛けしたから、きっと天気持つよ」

「飛田先輩…ありがとうございます!」


春奈たちが話しているうちに、旅館の駐車場には全員が集まった。

「じゃあこれから、競技場と出場するメンバーは各中継点に向かいます。泣いても笑っても今日が本番です。悔いの残らないように全員で頑張りましょう!」

「はい!」

部員の元気のよい返事が響くと、あかりはニヤリと笑みを浮かべた。

「じゃあ、円陣組んで気合を入れようと思うんだけど。…いつもはわたしがやるんだけど、今日は…一美!いいかな?」

「わっ、わ、わたしですか!?」

突如指名された一美は、驚いた表情を浮かべた。

「今日、アンカーで西京極に帰ってくるのは一美だから。それに、明日からは一美が全体のキャプテンとして、みんなを引っ張っていく立場になるからね。お願いしていいかな?」

照れた一美がもじもじしていると、2年生たちが一美の背中を押す。

「ほーら、おハマ。恥ずかしがってへんで、ばっちり決めたってや?」

「そうだよ、ずー。元気のいいの、頼むよ」

一美は照れながらうなずくと、前へと進み出た。その周囲に他の部員たちも集まる。春奈は秋穂、怜名と隣り合うように輪に加わった。一美が、大きな声をあげる。


「それじゃあみんな、準備はOKですか?」

「オー!」

「今日の試合、出場メンバーもサポートメンバーも全力で頑張って、…優勝を目指しましょう!」

「オオオオオ!」

一美の「優勝」という言葉に、メンバーの熱量も一気に高まる。


「行きます!力を合わせて!」

『全員駅伝!』

「絶対優勝!」

『全国制覇!』

「闘志を燃やして!」

『完全燃焼!』

「最後に勝つのは?」

『わたし達!』

「行くよ!秋学!ゴーーー!」

『ファーーーイ!』

全員が、腕を高く天に向かってつき上げる。輪のすぐ外では、岩瀬がにこやかにその様子を見守っていた。


ドン!ドン!ドン!…


西京極総合運動公園に、大きな花火の音が3発響く。春奈とマネージャーたち、応援のメンバーはバスを降りた。秋穂たち2区以降のメンバーと、コース途中でタイムや状況の伝達を行うメンバーは、そのままバスにとどまっている。

春奈は、秋穂に声をかけた。

「秋穂ちゃん」

「ん?」

「緊張してる?」

「緊張しとらんけど…なんで?」

秋穂に尋ねられると、春奈はいたずらっぽく笑った。

「リラックスね、リラックス。…秋穂ちゃん、いつも言ってくれるでしょ」

「フフフ…そうじゃの。春奈もな」

そういって、秋穂が珍しく右手を差し出した。春奈はその手をガッチリと握り、秋穂に誓った。

「いい位置で来れるように頑張るね。じゃ、後でね!」

「了解!無理だけはせんようにな!」


怜名は、春奈を見るなり早口で尋ねた。春奈もそれに返す。

「春奈、緊張してない?リラックスしてる?」

「緊張してない」

「お腹冷えてない?あったかくしてる?」

「準備は万全!」

「低血糖対策は?」

「あったかいスポーツドリンク飲んだ!」

「その他、忘れ物ない?」

「確認した!」

「よーし、オッケー。怜名ちゃんチェック、完了だね」

怜名が突き出した両の拳を、春奈も拳を作ってタッチする。

「頑張ってね!ファイト!」

春奈は、ニッコリと笑って怜名に手を振った。


「じゃあ、佐藤先輩と真理も、よろしくお願いします!」

愛花と真理は、春奈の走る1区コースに待機し、タイムなどを伝える伝令を担う。入りの1キロに待機する愛花は、持ち前の甲高い声で手を振った。

「わかった!冴島さん、トップで来るの待ってるよ!」

そして、春奈は真理に確認するように聞いた。

「じゃあ真理、昨日のとおり、スタンバイよろしくね」

「かしこまり!」

春奈は、急ぎ足でバスを降りて行った。不思議に思った愛花が、真理に尋ねる。

「矢田さん、昨日のとおりって…何のこと?」

真理は、真剣な表情に戻ると言った。

「春奈が、今回は作戦があるって言ってて。その目印なんです」

「作戦かぁ…あ、矢田さん、そろそろ中継始まるよ」

二人は、バスの中にあるモニターに目を移した。


京都市街を映したヘリコプターによる空撮映像に、実況の声が重なってくる。

『歴史と伝統の町・京都を、今年も47人の若きランナーたちがひた走ります。今年の全国女子高校駅伝、伝統校と新鋭校が入り乱れての激しい優勝争いが期待されます。すでにここ、京都市西京極総合運動公園陸上競技場には、数多くの高校関係者やファンが詰めかけ、戦いを告げる号砲を今か今かと心待ちにしています――』


中継のタイトルに乗せて、BGMが流れ始める。秋穂は、画面を凝視していたが、中継点へ到着すると一言呟いた。

「やっと、来た…!」


スタンドで応援となるあかりたちは、マルチビジョンに映し出される中継にずっと目を凝らしていた。実況が、解説者たちの紹介を始めている。

『本日の解説は往年の名ランナーにして、名伯楽として数々のアスリートの育成に携わってきた小西工業元監督で、現在はイソガイアスリートクラブの代表を務めます磯貝逸生さんです――』

「磯貝監督!?…イテテ!」

あかりが、大きな声をあげて思わず立ち上がろうとする。高校卒業後に磯貝の元へ師事することになるあかりにとっては、畏怖の念を抱かざるを得ない存在だ。アナウンサーと話を続けている磯貝を見ながら、あかりはその場で直立不動になっている。

 横で見ていた萌那香が、驚いた様子であかりを見た。

「あかりが緊張するなんて…」


最終確認を終えた1区のランナーたちが、トラックへと現れた。春奈は、ストレッチをしながらゆっくりとスタート地点へと向かっていく。緊張の表情を浮かべる選手が多い中で、春奈は比較的リラックスした様子だ。磯貝の姿が画面から消え、平静を取り戻したあかりは春奈を眺めた。

「いいね、リラックスしてる」

テレビでは、出場校の紹介が行われている。

『秋田の秋田学院は、出場13回目で悲願の初優勝を狙います。大エース・梁川が怪我により欠場しますが、スーパールーキーの冴島春奈に1区区間記録更新の期待がかかります―』

その一言一句は、場内の音声を通じて春奈にも届いていた。先程まで余裕を浮かべていた表情が一瞬引きつり、そわそわとした表情に変わる。言葉によるプレッシャーに弱い春奈をよく知るあかりも、表情を一気に曇らせる。

「まずい…!」

そうあかりが漏らした瞬間、よく通る大きな声が春奈に届いた。

「春奈!緊張しないで、リラックスするんだよ!頑張れ!」

「お母さん!」

スタンドの最前列にカメラを構えて陣取っていた琴美の声が、緊張を解いたのか。再び笑顔が浮かび、春奈は琴美に向かってサムズアップしてみせた。


各校のランナーたちが、スタートラインへと出揃う。春奈は、少し離れた所に天の姿を見つけた。だが、天は集中しているのか周囲を見回す様子はない。春奈は、前方を向いた。50人ちかいランナーが一斉に飛び出すスタートラインは、一人ひとりが余裕をもって整列できるほどの広さはない。スターターによるカウントダウンが始まる。春奈は、二度大きく深呼吸をすると前方を鋭い眼光で見つめた。


『47人すべてのランナーが、今出揃いました。スタートの瞬間を静かに待ちます。各校5人による21.0975キロの継走。果たして、この西京極総合運動公園陸上競技場のゴールテープを最初に切るのは、どの高校となりますでしょうか――』


「10秒前」


応援席では、吹奏楽部とチアリーディング部による応援がすでに始まっていた。部員たちは、スタートラインに立つ春奈に口々に声援を送る。

「春奈!がんばれ!」

「さえじ、落ちついていこう!リラックスだよ!」

「冴島ちゃん、ファイトー!」


「位置について」

スターターが、ピストルを持った手を静かに挙げる。


パァン!

号砲とともに、ランナーたちが横一線に飛び出す。最初のコーナーに入っても、ペースに大きく変わりはない。47人が一団となって進んでいく。

「春奈!春奈!春奈!春奈!」

部員たちの応援も、一気に盛り上がりを見せる。

「…牽制してるのかな?」

萌那香の言葉に、あかりは即座に首を振った。

「競技場の中だけだと思う。コースを外れて出口に向かうタイミングで、必ず何人かが前に行くはず。天もいるし、拓洋大弘前の子とか…」

そう話しているうちに走者たちは周回を終えて競技場の出口へと向かう。すると、予想通り黒のユニフォームを着た天が前へと飛び出す。


『まず最初に飛び出したのは東京代表の八王子実業、2年生エースの井田天です。昨年もこの1区を走り区間2位の好走を見せた井田ですが、今年も最初から勢いよく飛び出した形となります。そして、優勝候補の一角でもある兵庫・姫路女学館の1区は3年生の小出梨花。あとは、昨年優勝の仙台共和大学高校の3年生・藤本由香里などがいますが…、磯貝さん、秋田学院の冴島が出てきませんね?』

実況が言う通り、春奈は数人飛び出した後の集団のちょうど中央付近に陣取っている。

『状況を見ているんじゃないでしょうかね。例年ですとこの時点でも集団はもっと縦長になりますが、いまのところ東京の井田選手もそこまで突き放しにはかかっていませんので、しばらくするとまた一つの集団に戻るという読みではないでしょうか』

磯貝の言葉通り、後続が続かないとみるや天はスパートの勢いを緩めたように見えた。10数メートルほど後方に30チーム以上の大きな集団がおり春奈はそのほぼ中央にいたが、五条通に出て集団がさらに横に広がると、春奈は集団から少し離れた対向車線側へと動いた。

「春奈、ちょっとペース抑え気味じゃないですか?大丈夫かな…」

客席に戻ってきた明日香が不安げに尋ねると、あかりは大型ビジョンを指した。

「最近はスタートで飛び出すことが多かったけど、元々は終盤に爆発的に伸びるのが春奈の走り方だから、気にしなくていいんじゃないかな。先に突っ込み過ぎると、あとあとつらいコースだし」

1区は、前半の五条通はほぼ平坦だが、西大路通へ入った頃から徐々に上り坂となり、険しさを増す傾斜を上り切るタフさとスピードの両立が求められるコースだ。最長区間でもあることから、留学生を除くエースが起用されることの多い区間だ。それは、秋田学院とて例外ではない。あかり不在の中、この1区を走り切ることができるのはやはり春奈だった。


スタートからちょうど1キロとなる地点には、愛花がすでにスタンバイしていた。見つめる先に白バイが先導する集団が見えると、愛花は目を凝らした。先頭を走っているのは天だが、さほど遠くない距離に続く2位集団の姿が見える。

1キロを通過したのを見届けると、愛花は手元のスケッチブックにタイムを殴り書いて掲げた。

春奈の姿が迫ってくるのを見つけた愛花が、甲高い声で叫ぶ。

「冴島さーん!!3分19!!3分19!!もっと行ける!もっと行けるよ!冴島さーん!!」

春奈も、愛花を見つけて左手を挙げる。例年高速レースとなる展開にあって、入りの1キロのラップはかなり遅い部類に入る。すると、愛花の声が聞こえたその瞬間にスピードを上げ、集団の中から飛び出していった。


『1キロ3分19秒と、非常にゆったりとしたペースになりましたが、ここで秋田学院の冴島ら10数人がペースを上げ、先を行く八王子実業の井田に迫ります!新たに2位集団を形成しているのは初出場の拓洋大弘前、昨年優勝の仙台共和大高、埼玉の白鳥学園、長野の望海大三高、京都鹿鳴館、東広島、強豪の桜島女子そして秋田学院です。この8校が、現在およそ7秒差の八王子実業を追っていきます――』


<To be continued.>

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