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#63 最後の1ピース

 重苦しい2週間ほどの日々に比べ、そこからの日々は驚くほどあっという間に過ぎていった。気が付けば、明くる朝には秋田を発ち、決戦の地である京都へと向かうというところまで来ていた。すでに、春奈は緊張を隠せないようだった。

「ふううぅっ…ああ、落ち着かない…」

「さえじ、もう緊張してるの!?早くない?」

 さっきまで同じ政経の授業を受けていた愛に茶化され、春奈はジトッとした目つきで愛をにらみ返した。

「しょうがないじゃん、緊張するものは緊張するんだよ…もう」

「ハハ、そんな顔しないで、リラックスリラックス!手に人という字を書いたら…」

「ねーえ、その話どうして知ってるの?絶対バカにしてるでしょ…」

 愛にしてみれば、緊張でがちがちになっている春奈が面白くて仕方がないようで、あれやこれやと春奈をからかっている。すると、背後から誰かが春奈の肩をトントンと叩いた。

「ハルナサン、マナサン、ニアジェ!」

「あー、モンちゃんだ!ポア サナ!」

 春奈が「モンちゃん」と呼んだのは、愛と同じC組のソロモン・キプチェンバという、ケニアからの留学生だった。ソロモンは男子陸上部の生徒で、1年生ながらエースとして期待されている。中学1年の時から秋田学院に留学しているため愛たちとの付き合いも長く、日本語のコミュニケーションにもほぼ苦労しない。

「ハルナサン、ナニソンナニ緊張シテルノ?」

「えっ、だってもうすぐだよ、大会。モンちゃん緊張しないの?出るんでしょ?」

 春奈が聞くと、ソロモンはにっこりと笑って首を振った。

「ワタシ、緊張シナイ。ワタシ、駅伝タノシミ、メチャメチャタノシミ」

 そういって、春奈たちのすぐ横で小躍りしている。

「いいなぁ…わたし、緊張しっぱなしだよ」

「ハルナサンモ、踊ッタライイヨ。踊ッタラミンナハッピーネ」

 ソロモンの超ポジティブ思考に、春奈は思わず苦笑いを浮かべた。

「ハハハ、モンちゃん…わたしも踊ったら緊張とけるかな…」


 放課後の寮では、会議室に岩瀬、太希、あかりの3人が膝を突き合わせて、当日のエントリー選手を決める打ち合わせを行っている。太希のオーダーを見て、岩瀬は唸った。外国人留学生が数多くエントリーする3区にはソロモンの名前がある。スタートの1区を、2年生エースの悠で着実に攻め、3区のソロモンで粘る作戦だ。

「いきなり3区で、モンちゃん大丈夫なの?」

 あかりが尋ねると、太希は大きく息をついた。

「正直、走ってみないとわからない。他の留学生よりタイムはそこまでよくないけど、ピーキングはできているから1区の悠と4区の俺でどこまで貯金できるか…あとの2年と3年が粘れれば…だね」

 岩瀬も難しい表情を作っていたが、大きく頷いて太希に答えた。

「こんな状況の中で皆、できるかぎりのことをやってくれたと思う。あとは、凡事徹底…きみたちがしっかりと準備してくれれば、3連覇はおのずと見えてくる」

 「3連覇」という数字に、思わず太希はごくりと唾を飲み込んだが、表情を引き締めると岩瀬に向かって断言した。

「わかりました。絶対に今年も優勝してみせます。…期待していてください」

 その横で、あかりは浮かない表情で太希の話を聞いていた。

「どうしたかね?」

 あかりは岩瀬に問われると、視線を応接テーブルに落として言った。

「わたしがこんな怪我さえしなければ、今年は優勝できるって断言できたのに…」

 憔悴するあかりに、太希が慌ててフォローを入れる。

「いや!別にそんな、梁川さんのことを言ったわけじゃ…ごめん」

「そうとも。起きてしまったことは仕方がない。梁川さん、きみは現にこうしてチームを引っ張ってくれているじゃないか」

 岩瀬もあかりを労った。が、あかりはおたおたする太希を見て、首を横に振った。

「ううん、ごめん。変な気使わせちゃって…でも、今年はわたしがいなくても去年より上に行ける気がしてる」

「冴島さんと高島さん?」

「そう!」

 あかりは、そう言うと手元にエントリー用紙を置いた。


  1区 冴島 春奈(1年)6.0キロ

  2区 高島 秋穂(1年)4.0975キロ

  3区 川野 淳子(3年)3.0キロ

  4区 住吉 真衣(3年)3.0キロ

  5区 濱崎 一美(2年)5.0キロ


 「ほっほう」

 岩瀬が感嘆の声をあげる。あかりは説明を始めた。

「1区と2区を春奈と秋穂、どっちにしようか相当迷ったんです。でも、春奈はこの前の東日本女子駅伝で10キロを走っているので長い距離にも対応できる。2区は、他の学校が留学生をぶつけてくるので、そういう意味で春奈をどっちに持ってこようか考えたんですが、距離の短い2区なら秋穂のほうがスピード勝負では強いのでこの並びにしました」

「なるほどね!そっから、川野さんと住吉さんで粘ってアンカーが濱崎なんだ」

太希が腕組みをして唸ると、あかりはコース周辺の高低差を示す図を見せた。

「一美は上りにそんな強くないから、スピードを生かして下りで一気に追い上げられればって感じかな…ただ、この何か月かで自己新記録連発してるからね。強いと思うよ…」

 そこまであかりが言うと、会議室のドアをたたく音が聞こえた。

「はい!」

あかりがそう答えると、慌てた様子のマサヨさんが会議室へ飛び込んできた。

「どうしたんですか…?」

 マサヨさんは、顔をしかめて言った。

「いま205号室から内線があって、真衣、熱があるって言ってんだ。今から車出して、秋田医科大連れてくからそこで検査してもらうけど…このタイミングに悪いニュースでさ」

 そういって、マサヨさんはリモコンを手に取り会議室のテレビを点けた。

『インフルエンザが流行の兆しを見せています。特に、関東、東北、北海道ではすでに患者数が増え始めており、秋田市内の小中学校では学級閉鎖となるクラスも出ているとのことです――』

 あかりはマサヨさんと顔を見合わせると、険しい表情で太希に尋ねた。

「インフルにせよそうでないにせよ、このタイミングで熱だと…」

「エントリー見直した方がいいと思う。無理に走らせたら絶対にダメだ。どうにか走れたとしても、途中で脱水症状起こして住吉さんが危ない」

 話を聞いていたマサヨさんは、大きく頷くと岩瀬に言った。

「今日このタイミングで真衣を寮にそのままいさせるのは危険です。どっちみちわたしは留守番ですし、インフルであれば親御さんにも連絡をしたうえで入院させます…真衣は残念でしょうが…」

 岩瀬は、無言でうなずくと顔の前で手を組んだ。険しい表情のまま、マサヨさんは真衣の部屋へと向かっていった。あかりは、ソファーに腰かけると両手で頭を抱えて大きな溜息をついて、一言嘆いた。

「真衣…どうしよう…」


 会議室には、春奈と一美が呼ばれ、あかりが真衣の件を伝えた。

「マジですか…」

「でっ…す、住吉先輩の代わりを…?」

「そう…、誰がいいかな」

 先ほど記入したエントリー用紙に、あかりは赤いボールペンで3人の名前を丸く囲んだ。

「補欠は沙織、愛花、有希。ただ、真衣は多分京都にも行けないから、もう1人このタイミングで補欠も選ばないといけないんだ」

 あかりの言葉に、一美と春奈は顔を見合わせてため息をついた。そして、一美が続ける。

「4区って…、上ってから下るんでしたっけ?」

「一美の5区ほどじゃないけど、最初上ったらあとは2キロちょっとずーっと下り。下りの適性があるほうがいいと思うけど、序盤の上りをどう考えるか」

 そういって、さらにエントリー用紙に書き加える。

「とはいえ、春奈たちが当日体調崩したりすることも考えないといけないんだよね…だとすると、愛花はもし春奈や秋穂に何かがあったときに1区か2区に入ってほしいから、4区には入れられない」

 あかりは、愛花の名前に赤く線を引いた。

「で、3区と5区は下り区間だから、スパートもできる沙織がいい。となるとスピードのある有希…なんだけど、補欠は誰に入ってもらう?」

 一美も、首をひねった。

「できれば…、アップダウンに強い子がいいってことですよね」

「うーん…」

 春奈はしばらく思案すると、突然手をたたいた。

「どうしたの?」

 あかりが問うと、春奈はニッコリと笑みを浮かべて答えた。

「ちょっと、本人を呼びますね」


「…これは…、何の集まりですか?」

春奈が呼んだのは、怜名だった。要件を知らせずに呼んだのか、きょとんとした表情を浮かべている。あかりと一美が同時に声をあげた。

「あぁ!なるほどね!」

「…なるほど?」

 突然の呼び出しに、事態が全くつかめていない怜名は怪訝そうな表情で3人を眺めた。が、あかりが真衣の容態を説明すると怜名は飛び上がるようにして驚いた。

「ええええっ!?それで、わたしが補欠枠に…?」

「そう。春奈のお墨付きでね」

「えっ、ちょっと春奈、どうして…」

 春奈がニヤリとすると、あかりが口を開いた。

「真衣の走る予定だった4区は有希に入ってもらおうと思うんだけど、万が一有希にもトラブルがあったら、4区はアップダウン強い人じゃないと難しいんだ。上って下るコースだし、途中で風向きも変わる。ただ速いだけじゃ攻略できないと思う」

「それで、どうしてわたしが?」

「マキレナ、あれだよ。8月の2,000m障害」

 一美がいう2,000m障害とは、通常のトラック走だけではなく、コース上のハードルや水濠を通過しながら競う種目だ。怜名は、8月に大阪で行われた大会に他の部員と出場したが、見事に秋田学院のこれまで記録を更新する快走を見せていたのだった。

「それに、怜名、山を走るの得意でしょ」

 生まれも育ちも箱根の怜名だ。事実、アップダウンのあるコースや、気象条件が激しく変わるレースでの安定感は上級生に勝るとも劣らない。春奈の言葉に怜名は思わず頬を赤くしたが、戸惑ったように不安をこぼした。

「でも、いきなり本番なんて、わたし、つとまるでしょうか」

あかりは、首を振った。

「今回は補欠メンバーだから、直前まで出番があるかどうかはわからない。それでもキミは、地道に努力してきたのはわたしも知ってる。だから、もし急に走ることになっても実力を発揮できると思うし、もし出番がなかったとしても、4区の伝令に入って有希をサポートしてほしいんだ。…先生、阿波野くん、このメンバーで行こうと思うんだけど、どうですか?」

 話を聞いていた岩瀬も太希も、笑みをたたえてうなずいた。春奈が、怜名に呼びかけた。

「怜名と一緒に行くの、夢だったんだ。がんばろうよ!」

 春奈の言葉に、怜名は目を潤ませて答えた。

「うん!」


<To be continued.>

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