#62 再始動
マサヨさんの話を受けて、春奈と萌那香、そして愛は早速大学の本館へ向かうことになった。
「あっ、冷たっ!…雨じゃん」
萌那香が濡れてしまった眼鏡を拭きながら、顔をしかめた。
「傘、取ってきましょうか?」
春奈が問うと、萌那香は首を振った。
「ううん、それなら建物の中から行けるからそっちから行こう。相当、遠回りだけど」
そういって、萌那香は特に案内を見ることもなく歩き出した。
「じゃ行こう。春奈、ボーッとしてると置いてくよー」
「さえじ、早く!」
萌那香と愛に急かされて、春奈は慌てて2人の背中を追う。
「あ、ちょ、ちょっと待ってください、進藤先輩、まなち!」
高校も私立有数の生徒数なら、大学も東北地方の私立大学としては上位3つに数えられる学生数だ。ドーム球場が軽く5個は入ると言われている広さだけあって、数分歩いてもまだ高校の校舎を出られる気配はない。
「大きいですね…」
「そうね。わたし、中学は大学の付属だったからやっぱり大きかったけど、ここまでじゃなかったな…え!?階段上るの?…はぁー…」
延々と続く廊下に、今度は上り階段とあって萌那香はげんなりとした表情を見せた。その横で、春奈と愛は悠々と階段を上っていく。
「進藤先輩、置いてっちゃいますよ!」
「あっコラ!先輩の真似したな!?待て!」
そこから、大学の敷地に入ってもひたすら長い廊下が続き、立派な本館の建物にたどり着く頃には3人とも疲労の色が顔に浮かんでいた。エレベータで三階へと昇ると、教務や学務といった窓口が並ぶ。
管財課は、その一角の奥まったところにあった。
「えーっと、入口はこっち…萌那香先輩、さえじ!」
愛は二人を呼び寄せると、「管財課」と書かれたドアをノックした。中から現れた制服姿の男性は、愛に声を掛けた。
「おーっ、おめが瀧原の妹さんか。校長先生がら話は聞いだよ。まあまあ、立ぢ話もなんだ、中さ入りなさい。おーい、瀧原、おめの妹さんが来だぞ!」
男性の呼ぶ声に、部屋の中から愛の姉、瑠衣が顔を出した。
「姉っちゃ!」
職員は5人だが、書棚や修繕のための部品などが溢れかえり、ただでさえ広くない部屋は雑然としている。春奈たちは、パーテーションで区切られた応接スペースに通されたが、3人がぎゅうぎゅうに詰めてようやく座れる程度の広さだ。瑠衣が、申し訳なさそうに言った。
「わざわざ来でくれでごめんね、こんな狭ぇどこ」
「ううん、それより姉っちゃ、お願いがあんだげど…」
愛が言うと、先程3人を部屋に通してくれた小柄でパンチパーマの男性――管財課長を務める小島が、奥から何かの帳簿を取り出して瑠衣に渡した。
瑠衣は、眼鏡をずり上げると少し困ったような表情を浮かべて萌那香に尋ねた。
「貸し出しは、全然問題ないんだけど。ただ…これ見てほしいんだけど、半月先までの予定表。どうしても大学の部活が優先になっちゃうんだよね…どうかな」
萌那香も同じように、眼鏡をずり上げて帳簿を見回した。スポーツセンターの利用管理表だが、向こう半月、日中の予定は蛍光マーカーで塗りたくられている。日中の空きは、長くて30分。撤収を含めると、ものの10分も走れないことになる。
「うううーん…」
萌那香は、腕組みして唸ると、やがて黙ってしまった。すると、横から春奈が帳簿を覗き込んで瑠衣に尋ねた。
「まなちのお姉さん、ここって使える時間なんですか?」
春奈の指さした箇所は、薄くグレーでつぶされている。夜6時以降のスケジュールは、どの曜日も空いている。瑠衣は、難しい顔をして首をひねった。
「一応、6時から8時は利用時間ではあるんだけど…、何かの行事の時にしか開放してなくて、鍵を閉めないといけないから、わたしたちが立ち会わないと使えないんだよね」
瑠衣の答えに、春奈はがっくりと肩を落とした。すると、傍らで見ていた愛が、瑠衣に向かって急に両手を合わせた。
「姉っちゃ…お願い!出れるようになるかわがんねけど…、大事な時期なんだ。なんとが使わせでもらえねぇがな…?」
「うーん…」
唸る瑠衣に、春奈と萌那香も立て続けに頭を下げた。
「お願いします!…なんとか…この子たちに走らせてあげたいんです」
「お願いします!」
女子高生3人が、事務室の片隅で頭を下げている。その異様な雰囲気に気付いたのか、デスクで作業をしていた小島が応接スペースの方を向いた。
「瀧原!さっとこっちゃ、ええが」
小島に呼ばれた瑠衣が、帳簿を抱えて小島の元へと向かう。小島と、何かを調整しているようだ。小島の言葉に最初は首をかしげていた瑠衣が、縦に二度三度首を振った。春奈たちは、そのやりとりをじっと見つめている。瑠衣が、広げた帳簿にペンで線を引いているのが見える。
すると、ポン、と帳簿を閉じた瑠衣が応接スペースに戻ってきた。
「姉っちゃ…」
愛が、不安そうな様子で尋ねる。すると、瑠衣は笑顔で帳簿を広げた。
「小島課長と話をして、明日から2週間…6時から8時まで時間を取ったから。わたしが残るようにするから、終わったら本館の通用口から呼び出してくれればわたしが確認するよ。ただ、8時に撤収完了だから、そこだけ協力よろしくね」
広げた帳簿には、ピンクの蛍光ペンでスケジュールが引いてある。
『高等部使用:瀧原』
「…わぁ!…お姉さん、小島課長さん、有難うございます!」
春奈が、満面の笑みで頭を下げる。萌那香も同じように頭を下げている。デスクから、小島が笑顔で手を振っている。すると瑠衣が口を開いた。
「愛、さっとえがな?」
「ん?なに?」
「大変な時だんだども、けっぱるんだよ。姉っちゃは愛のごど見でらがら、何があったらいづでもおいで…」
そういって瑠衣は、愛の肩を2度叩いた。愛は一瞬感極まったようだったが、笑顔を見せると瑠衣に答えてみせた。
「うん!姉っちゃ、ありがとう!みんなでけっぱるよ!」
寮の談話室に戻っていたあかりたちは、室内トラック確保の報に歓声をあげた。
「よっしゃ、ナイス!」
「みんな、ありがとう!グッジョブだね!」
怜名や琥太郎たちも、飛び上がって喜んでいる。すると、あかりが何かを思い出したように、春奈たちに尋ねた。
「でさ…、これ、そもそも誰が考えたの?」
その場の全員が、一瞬ピタリと止まる。すると、春奈がおずおずと手を挙げた。皆の視線が春奈に集まる。
「…わたし、何か悪いこと…しました?」
春奈が戸惑いながら答えると、あかりはニヤリとして春奈に抱きついた。
「そんなわけないじゃん!最高だよ、春奈!」
「で、でもわたし、それを思いついただけで、他は…」
怜奈は首を振って、春奈の手を握ってにこやかに言った。
「ううん!だって、普通だったらみんな諦めてるよ。春奈がアイディア出してくれたから、みるほが先輩たち呼んでくれて、それで校長先生の許可もらえて…いろいろあるけど、とにかく春奈が動いたから実現できたんだよ。すごいよ!」
怜名のべた褒めに、春奈は照れ笑いを浮かべた。男子部の太希たちも続く。
「冴島さん、やるじゃん!なんか、何でも乗り越えられそうな気がしてきたよ」
「太希、単純だな!でも、確かに冴島さんのおかげだよ。サンキュー!」
春奈はずっと恥ずかしがっていたが、視界にソファーが見えると緊張の糸が切れたのか、ソファーにもたれかかると、大きな溜息とともにぽつりとつぶやいた。
「はぁー…疲れた」
その翌日から夜間のトラック練習は再開され、選抜チームであるA班のメンバーが室内トラックでの練習を行うことができた。本城は当初、駅伝メンバーに限定しての練習を想定していたが、あかりの意向で通常どおりのメンバーでの練習となった。
「そもそも駅伝メンバーだけっていったって、前日に風邪ひいたり何か怪我したらどうするの?もし誰かが欠けても、すぐにカバーできるようになってないとね」
顧問不在という異常事態も、あかりたち3年生が主体で練習メニューを組み、目の前の課題を一つ一つクリアしていく日々が続いていった。
そして、室内練習が10日目となった日の夕方、部員たちは高校の視聴覚教室へと集められた。
岩瀬がゆっくりと扉を開けて教室へと入ってくる。もう、ここまで来たらどんな結果でも受け入れるしかないとわかっていながら、部員たちはみな固唾をのんで岩瀬を見つめていた。春奈も、隣の秋穂と一緒に祈るように両手を合わせている。
岩瀬は、フーッと息をひとつ吐くと話し始めた。
「今日高体連から連絡があり、高校駅伝の出場についての結論が出ました。結果から話すと――出場に問題なし、とのことで、出場辞退は回避することができました」
岩瀬が言い終わる前に「出場辞退を回避」と聞いた部員たちから、歓声が上がる。男子部員は喜びの声を上げ、安堵した女子部員は涙を流して喜んでいる。
春奈と秋穂も、顔をお互いに見合わせるとがっちりと握手をして、お互いを労った。岩瀬は、一つ咳ばらいをして話をつづけた。
「暫定的に、顧問と男子・女子部の監督代行はわたしが務めることにしました。ですが、知っての通りわたしはスポーツに関しては素人です。男子は阿波野くん、女子は梁川さんを中心に、全国高校駅伝に向けてチーム一丸となり、万全の準備を重ねていきましょう」
「はい!」
全部員が一斉に答える。
突然止まってしまった時計の針が、ようやく再び動き出した瞬間だった。
<To be continued.>




