#60 誓い
まだ陽も上がっていない、朝5時半。相浦家では、操が部員たちのためにいつもより早く起床し、朝食の支度を始めている。操は炊飯器のスイッチを入れると、一旦手を休めて居間のテレビに目をやった。スポーツコーナーでは、昨日のニュースを改めて伝えている。
『秋田学院は全国高校駅伝への出場を控えていますが、今朝の秋田日日新報ではこのように伝えています。――秋田学院、高校駅伝出場辞退も、とあります。昨日の記者会見で、同校の岩瀬勲雄校長は全国高校駅伝への出場辞退について言及し、「全国高等学校体育連盟の判断を待つ」とコメントしました。高体連では今週末の理事会で同校の処遇について審議し、結果次第で高校駅伝への出場有無が決まりますが、部活動顧問の不祥事とあって、非常に厳しい対応が考えられるとのことです――』
操は険しい表情でリモコンを手に取り、大きくため息をついた。
「まったぐ、子供だぢがけっぱってらでいうのに、なんてごどしてぐれだんだ…」
すると、階段を下りてくる人の気配を感じ、操は廊下に目をやった。
「あれ、春奈ちゃん、こんた朝まからどうしたの?」
春奈が、顔をしかめてよろよろと台所へとやって来た。
「おはようございます…全然寝れなくて…」
「んだな、心配で寝れながったのね、かわいそうに…」
「そうじゃないんです…」
「ん?」
「あの…いびきが…」
春奈は操を連れて2階に上がると、泊まっていた翼の兄・遼の部屋の引き戸を開けた。
「グガーーーッ…フガー…グゴッ!ガー…」
「…」
その状況に思わず、操も絶句した。
「秋穂ちゃんのいびきがすごくて…」
当の秋穂は、いびき高らかに全く目を覚ます様子もない。春奈が夜中に一度目を覚ましたが最後、秋穂の爆音で一睡もできなくなってしまったというのだ。隣の部屋の翼たちはまだ寝ているようだ。
げっそりとした様子の春奈を見て心配になったのか、操が優しく声をかけた。
「そ、そいだば朝ごはんでぎるまでごだづで寝でらが?」
「はい…!あぁでも、今日、学校どうなるんだろう…?」
春奈がまだまだ眠そうな顔で首を傾げると、操は隣の部屋の戸をサッと開けた。
「翼!つーばーさ!早ぐ起ぎな!もう、今朝は学校戻んだべ!?」
「う、うーん…え!?何!?このすごいいびき!?誰!?」
「秋穂ちゃんです」
春奈の説明に、翼は一瞬驚いたがすぐに何かを思い出したらしく、枕元の携帯電話に手を伸ばした。
「あれから、連絡は何も来てないね。萌那香に電話してみようか?起きてるはずだから」
そういって、翼は携帯電話を片手に1階へ降りていった。淳子、沙織も目を覚ます。あとは、ただ一人だ。
起き抜けにとんでもない爆音でいびきを聞かされ、淳子たちもしかめっ面だ。春奈たちは、息をすうっと吸い込むと、大きな声で叫んだ。
「秋穂!起きて!朝だよ!」
「フガッ!…ん…?あれ?ここは…?」
「もう!寝ぼけてないで、学校戻る支度だよ!」
目は覚ましたが、昨晩のことを思い出せないのか、頭がぼんやりとしているようだ。そのまま、枕元にガサゴソと手を這わす。
「メガネ…メガネないと何も見えん…メガネ…」
「え、秋穂ちゃんメガネしてたの?」
「普段はコンタクトやけん、よう使わん…寝起きはメガネないと見えん…あれ…フワアアアアア…よく寝たわあ」
のんきに大あくびをする秋穂に、思わず春奈は心の中で悪態をついた。
(あなたのせいでわたし、2時から一睡もできなかったんですけど!)
居間で待っていた翼は、首を横に振った。
「特に何も言われてないから、普段通りの授業みたいだけど…わたしたちはいいけど、春奈ちゃんたち正面から戻って大丈夫?…あ、1年D組は今日は自習みたいだよ…」
朝のニュースでも、いまだに正門の周囲にはマスコミが群れを成している。大会を終えたばかりの春奈がまっすぐに学校に戻れば、マスコミの餌食になるに違いない。すると、メガネを掛けた秋穂が、ゴニョゴニョと耳打ちする。春奈はポンと手をたたいた。
「なるほどね!そうだ、そうしようか?」
「?」
「まだ暗いけど、大丈夫?お弁当もうちょっと持っていく?」
翼が、心配そうに声をかける。
「ありがとうございます、ぜひ!お味噌汁、おいしかったです!」
操の作った弁当を両手に目いっぱい抱えて、春奈は笑顔を浮かべた。まだ日の上がりきらないうちに出発して、高校の敷地に隣接する農道から寮に戻ろうという魂胆だ。淳子が、感心したとも呆れたともとれる笑いを浮かべた。
「昨日あれだけ走って、今日も朝から…体力あり余りすぎじゃね?」
「学校戻ったら、もしかしたらしばらく満足に練習もできないかもしれないし…だけど、まだ出れないって決まったわけじゃないから、練習しときたいなって」
そういって笑みを浮かべる春奈と秋穂の姿に、淳子たちはハッとした表情を浮かべる。沙織は、2人の姿を交互に見つめた。
「ハハハ、そうだよね。まだ、何も決まってないもんね。春奈たちが正解だと思う。わたしたちも落ち込んでたらダメだよね」
「そうですよ!願いは叶うんですから。じゃあ、先に戻ってます!ありがとうございました!」
春奈たちは頭を深々と下げると、荷物を背負って走り出した。2人の前方からは太陽が昇り始めていた。
遠ざかる2人の姿を見ながら、淳子がつぶやいた。
「…なんだか1年たちの方が全然平常心って感じだね。わたし、ニュースだけみて勝手に沈んでたよ」
「ね。なんかあの子たち、すごく前向きで堂々としてる」
沙織の言葉に深くうなずいて、翼も笑みを浮かべた。
「負けてらんないね。ご飯食べたら、わたしたちも学校戻らないと」
「フアァアァ…眠い…ハァッ」
大きなあくびで吸い込んだ息が、湯気のように白く立ちのぼる。大きなリュックを背負いながら、春奈と秋穂は高校への帰り道を進んでいた。車通りもそこまでない住宅地の中は、わずかに鳥がさえずる程度だ。足音に反応した犬の吠える声が後方へと遠ざかっていく。2人は、何も語らずに走っていたが、大通りに面した交差点で歩みを止めた。赤信号の時間が、やけに長く感じる。
「秋穂ちゃん」
「うん?」
ふいに、春奈が訊ねた。
「家に帰りたくなることって、ある?最近」
「ん?どないしとん、急に」
「や、なんかちょっと聞いてみたくなって」
秋穂は空を見上げて数秒考える仕草をしたが、信号が青になって再び走り始めると口を開いた。
「最近は…ないなぁ。春奈は?」
「わたしも同じ。…最近はってことは、最初の頃はそう思ってたの?」
「ちょっとだけな…なんか、周りの子らと全然違う世界を見てるような気がして、もう辞めたろか!って思うとった」
「違う世界?」
春奈が不思議そうな表情を浮かべると、秋穂は遠い目をして春頃の自分を思い出していた。
「先生に誘われてこっち来て、いざ部活に入ってみたらみんな仲良くしとって、誰も競争しようとしとらんし、仲良く喋っとるのとか無駄やと思とった…」
「そうだったんだ…」
「アンタと話すようになってからかな、変わったのは」
突然秋穂に指名されて、春奈は驚いたような表情を浮かべた。
「えっ、わたし?」
「恥ずかしくてよう言わんけど…春奈と会ってから、みんなで1つの目標に向かって頑張るってええな、って思えるようになったんよ」
そう言って秋穂は口元に力を入れて、何かをこらえるような表情を見せた。しばらく黙った後、大きく息を吐きだすと、一言一言に力を込めるように言った。
「だから、昨日のことは悔しいし、悲しい…!」
今に至るまで、昨日の出来事について自分の考えを口にしなかった秋穂がはじめて、自分の感情を口にした。春奈も、それに呼応するように言った。
「わたしも、悔しい…!」
春奈は、そう言って一度立ち止まった。数歩先に行った秋穂も、春奈のもとへ戻ってくる。春奈は、秋穂の腕を引き寄せると目を見つめた。
春奈の目元には、朝日に照らされて涙が光っている。
「どうなるかわからないけど、可能性がゼロになるまではわたし、諦めたくない。出場できるなら、全力で頑張って、ゴールした後にみんなで笑い合いたい…だから」
春奈の声は、かすかにふるえていた。秋穂の頬にも涙が流れ落ちる。秋穂は、春奈の目を見てうなずくときっぱりと言い切った。
「出れたら、絶対に勝とう。ウチら、チームのために」
朝日はすっかり昇り、涙の跡を照らしていた。
主のいないホームルームの予鈴が鳴り、1年D組の生徒たちは座席についた。授業の予定は白紙となり、1限は岩瀬がやってきてクラスの生徒たちにも説明を加えることになっていた。
「冴島…大丈夫かな」
琥太郎が、まだやってこない春奈の座席を複雑な表情で見つめる。怜名は、携帯電話の画面をただ眺めていた。電話、メールが着信した様子はない。
「秋穂と、相浦先輩の家からは出たって言ってたんだけど…そのあと連絡がつかなくて」
「昨日あれだけ走ったのに?…マジかよ」
2人が話していると、廊下からせわしい足音がいくつか近づいてくる。隣のE組の担任が、足音の主に向かって叫ぶ。
「廊下を走らない!」
「はい…、ごめんなさい!ハァ、ハァッ」
「春奈!」「冴島!」
怜名と琥太郎が声を合わせて叫ぶと、そこには廊下で秋穂と別れてD組の教室に駆け込んでくる春奈の姿があった。
「…おはよう!」
<To be continued.>




