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#56 ル・ララ

 7区を走る淳子はじりじりとペースを上げ、茨城を再びかわして埼玉と5位集団を形成して前を追ったが、先頭の宮城との差は開く結果となった。神奈川チームも、7区の琴音が途中足を攣るアクシデントに見舞われ順位を1つ落とした。第7中継所で、中学生の凜花が淳子からタスキを受け取った時点で、先頭との差は1分20秒ほどとなっていた。

 最後の第8中継所で凜花を待ち受ける春奈は、ウォーミングアップを続けていたが、何かを思い出したのか、あわてて中継所近くのテントへと戻っていった。

「すみません、油性のサインペン…ありますか?」

 中継所の係員にサインペンを受け取ると、春奈は左手の甲につらつらと何事かをメモし始めた。見ると、何やら数字を記しているようだ。様子を見ていた史織が声をかけた。

「ラップタイムを書いてるの?」

「はい…レースで10キロを走るのは初めてなので」

 少し、戸惑ったような表情を春奈は浮かべた。練習では20キロ単位の長い距離を走ることはあっても、これまでのレースでの最長距離は長くても6キロだ。未体験の距離に備えて、1キロごとの目標を手に書いていたのだ。

「初めてがこの天気なんてハードだね…完走することが大事だから、無理をしすぎないようにね」

 春奈は、史織の激励にうなずいて笑顔で答えると、最後ゴール地点での目標タイムを記して、一言付け加えるように大きく記した。

“aim to top!”


 春奈は、リレーゾーンのすぐ横に待機した。実況のアナウンサーの声が、すぐ近くにあるモニターから漏れ聞こえてくる。バスを降りて以降、ウォーミングアップを続けていた春奈は順子にタスキが渡って以降のレース展開を知らない。ただ、どんな順位で来ても動じずに自分の走りをしようと決めていた。冷たい空気を二度吸い込むと、大きく息を吐いた。吐息は湯気のように白くなり、空へと消えてゆく。

 ふと、春奈の横に長身の天が立った。実況がレース展開を知らせる。

『この8区で再び首位交代がありました。東京の中学3年生・小橋未菜が宮城をかわして先頭に立ちました。東京の9区は高校ナンバーワンの呼び声が高い八王子実業高校の2年生・井田天です。その井田はすでにリレーゾーンにスタンバイし、小橋の到着を待っている状況です――』

 天は、ストレッチをしながら春奈に話しかけた。

「いよいよだね。並んで走るのは難しそうだけど、同じ区間同じ条件で走るから、どのぐらいの記録になるか楽しみにしてる」

 春奈も、自信ありげな表情を浮かべて天に答えた。

「もちろんです。ご一緒できて嬉しいです」

 天だけではない。この区間、神奈川は史織が満を持してスタンバイし、千葉も大学ナンバーワンといわれる城南大学の酒井咲穂が今か今かと8区のランナーの到着を待っている。それ以外にも、大学・実業団で実績のあるランナーがズラリと揃うのがこの区間だ。そんな中で、高校1年生の春奈は年齢だけで言えば異質だが、5,000メートルのレコードホルダーが満を持して10,000メートルに挑戦するということもあり、他のランナーも春奈を意識しているようだった。

 そこへ、実況の大きな叫び声が聞こえてくる。

『先程まで7位付近を走行していた秋田の中学3年生・高橋凜花ですが、…腹痛でしょうか?脇腹を押さえるような仕草を見せています!残りあと500メートルを切っていますが、脇腹を押さえて蛇行している状況です。すでに2人に抜かれ9位…さらに後ろには山形のランナーが迫っています。…抜いていきました。これで秋田は現在10位まで落ちました!秋田の8区を走る高橋凜花がブレーキとなってしまっています!』

 春奈は、視線をコースへ移した。先頭の東京のランナーがすでに中継所に迫ってくるのが見える。すぐ後ろにも宮城など、後続のランナーが連なる。ここに凜花はいないということが分かると、一度春奈はリレーゾーンから離れた。他県の選手から少し距離のある場所へと移動すると、スッと目を閉じた。

 春奈は両手をグッと胸に押し当てると、小さな声で歌を口ずさみ始めた。


――「握手会?」

 みるほの誘いに、春奈は思わず首をかしげた。

「そ、握手会。今度、ルナ=インフィニティの1月に出るシングルの発売記念で、秋田にも来るんだって」

「へぇ!えっ、メンバーと直接握手できるってこと?」

「その通り!春奈ちゃん、JULIAちゃん推しでしょ。握手券ゲットしておいたから、一緒にいこうよ」

 みるほは、胸を張って春奈にウインクしてみせた。

「ホントに?いつもありがとう!行く行く!」

「オッケー!じゃ話は早いね。1月の都道府県対抗終わった次の日曜日が握手会だから、一緒に行こうよ。JULIAちゃんにいい報告できるといいね」

「うん!」

 するとみるほは、机から何かを取って春奈に渡した。

「これ、この前出たばっかりのシングル。今までの曲と違って、明るくてスピード感があるステキな曲だよ。『Lu lah lahル・ララ』っていうんだけど。なんか…まるで春奈ちゃんのこと歌ってるみたい」


 先ほどまで聞いていた曲を反芻するように、春奈は歌い出した。

 

 ――ル・ララ ル・ララ 風のように

   走りだそう 熱い鼓動聞こえるから

   ル・ララ ル・ララ 険しくても

   乗り越えよう この長いはるかな道を


 冒頭のフレーズを歌い終えると、帽子を被り、頬を二度三度叩いた。

「よしっ!」

春奈は、再びリレーゾーンへ戻っていった。


 凜花は、歩くのも精いっぱいといった様子で、両腕を押さえながらゆっくりとリレーゾーンへ戻ってきた。沿道からは大きな声援が送られているが、その声も届いてはいない様子だ。

「凜花ちゃん!ラスト!」

 春奈が大声で凜花に呼びかける。ところが、その声にももはや応答できない様子で、涙をこぼしながら進むのがやっとだ。残り数歩のタイミングでようやくタスキを外すと、右手を前に突き出した。もう、春奈に何かを呼びかける余裕はない。

 凛花がラインを超えたのを確認すると、春奈は凜花の手からタスキを取った。凜花は、自分の手からタスキが渡ったことがわかるとその場にうずくまった。

 側道からサッと救護の係員が二人飛び出してきて、凜花を担ぎ上げて戻っていった。


 『7区までは7位にいた秋田ですが、8区で中学生の高橋にブレーキがあり、順位を5つ落として現在は12位。この最終九区は、スーパー高校生の呼び声高い秋田学院の冴島春奈が走っています。先程冴島にインタビューいたしましたところ、目標タイムはずばり32分ということでした。32分といいますと、昨年の9区区間賞だった千葉の酒井咲穂と同タイムということになります!ですがこの冴島、皆さまもよくよくご存知の通り、女子5,000メートルの日本女子記録保持者であります。この9区、10キロという距離は公式の試合では初めての挑戦というふうに申しておりましたが、そのポテンシャルは先を行く選手たちに勝るとも劣らないといえましょう。秋田の冴島春奈、ここからどこまで順位を上げられるのか、注目して見ていきたいと思います――』


 春奈は、不思議なほど落ち着いていた。先程よりも小降りになったとはいえ冷たい雨が降り続き、強い北風も吹きすさぶ。そんな中でも慌てた様子もなく、淡々と自分のペースを守っているように見えた。

 「あ、淳子先輩」

 再び信夫が丘競技場に戻ってきた淳子を、秋穂が出迎えた。秋穂は、携帯電話で中継を食い入るように見つめていた。

「春奈、どう?」

 淳子が心配そうに聞くと、秋穂は笑顔を向けた。

「落ち着いていますよ。凜花が遅れたから、そのせいで慌てないか心配してたんですけど、今のところ慌てないで落ち着いて走ってます」

「いいね!やっぱり、秋穂がずっと言い続けたから、その効果もあったんじゃない」

「え、いや、ウチは何も…」

「春奈が言ってたよ。他の子が褒めるようなレース展開でも、秋穂は気になったところを教えてくれるから、それを一つ一つノートに書いて忘れないようにしてるって」

「えっ…あ、そないなこと言うとったんですか、あの子…」

 ここのところ、つい春奈に対して何かと言いすぎてしまうことを気にしていた秋穂は、人づてに自分への評価を聞く恥ずかしさもあって顔を赤らめて、人差し指で頬を掻いた。


<To be continued.>

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