#55 突然の雨
すると、遠くにうっすらと、先導の白バイとランナーたちの姿が見え始めた。
東京と神奈川、群馬のランナーが、競り合いながら中継所へとやってくる。と、そこへ後方から猛然と追い上げてきたのは宮城のランナーだ。リレーゾーンに待ち構えるランナーたちも、位置取りを巡ってお互いを手で制する者もいる。先程までの静けさが嘘のように、中継所をピリピリとした空気が包む。
空は、懸命に目を凝らした。後方のランナーはまだやってこない。空たちのすぐ後方にある中継ブースから、アナウンサーの声が漏れ聞こえてくる。
『今、中継所をトップで通過したのは神奈川です!続いて宮城、東京。群馬が少し間が開いて4番目。続く5位のランナーはまだこの中継所からは姿が…見えました!中継所にやって来たのは茨城と…秋田です!先程埼玉をかわして6位に浮上した秋田の荻野ですが、さらに前を行く茨城を捉えていました!』
実況を聞くや、空はその場で二度三度ピョンピョンと飛び跳ねると、せわしなくその場で屈伸を繰り返した。空の目にも好美の姿がハッキリと映る距離になると、突然空が大声をあげた。
「このみさーーーーん!!」
すぐ横で待機していた茨城のランナーが、思わずその大きな声にギョッとして後ずさる。実況席にもその声が届いたのか、アナウンサーが驚いた様子で伝える。
『秋田の6区を走る相浦空、今向こうからやってくる5区の荻野に向かって大声で叫びました!しかしまだ中継所から荻野までは距離が…』
すると、
「うてなーーーーー!!」
中継所に向かってくる好美も、空に向けて大声で叫ぶ。今度は、並走していた茨城の5区のランナーが、その大声に驚いて反射的に横へと避ける。好美の声が聞こえたのか、空は先程までのように速射砲の如く叫び始めた。
「好美さん、10人抜いでぐるっつったじゃねえかー!まだ、8人しが抜いでねえでねぇが!」
空の“挑発”に、好美はカチンと来たのかこれまた大声で叫び返した。
「うるせぇな!だっだらおめがあど3人抜げばえでなぁー!」
「そ、そいだば約束違うでねえがー!?」
「あああっ、もう!ごぢゃごぢゃ言わねで、区間賞取っで来いっつってらの!!」
まるで口論のような大声による応酬が、タスキリレーの瞬間まで続いた。好美は、空にタスキを手渡すと、空の背中をポーンと叩いて再び叫んだ。
「空、けっぱれー!!」
走り始めた直後から、空はキョロキョロと沿道を眺めるように走っていた。その様子を捉えたアナウンサーが、不思議そうな面持ちで状況を伝える。
『先程5位でタスキを受け取った秋田の相浦空ですが、今は荻野がかわした茨城のやや後方に位置取って何やら沿道を見回しているような仕草を見せています…そうこうしている間に、茨城のランナーとの差が徐々に開いているように見えますが…?』
アナウンサーの心配をよそに、空はずっと沿道を見回している。すると、何かを見つけたのか、固かった表情が笑顔に変わり沿道に向けて手を振り始めた。
「父っちゃ、母っちゃ、翼、みんなー!来だよー!!」
沿道には、両親、翼、祖父母や親戚、総勢50人はいようか。横断幕を掲げた相浦家一同が陣取り、鳴り物を手に空に声援を送っている。
「空ーー!!けっぱれー!!」
「空、行げー!隣の県突ぎ離しちまえ!!」
「姉っちゃ!ファイトだよ!」
家族が口々に、空へ声援を送る。すると、空は手を挙げてその声援に応えたかと思うと、ぐっと両の拳を握りしめた。
(そいだば、行ぐか!)
親戚一同が後方へ過ぎ去ったのを確認するや否や、空は目に見えてスピードを上げた。数秒の差がついた茨城のランナーを捉えるとすぐに抜き去り、あっという間に差をつけた。
アナウンサーが、苦笑交じりに実況を加える。
『どうやら秋田の相浦、沿道には親戚一同が応援にやってきていたようです…その姿を見つけると表情が一気に変わりまして、前をゆく茨城にすぐに追いつき、そして抜き去っていきました…!その前の4位の群馬とは中継所の地点で36秒差がありますが、果たして相浦、群馬そしてその前をいく一位集団に追いついていけるのか注目です――』
中継を携帯電話のテレビ機能で見ていた淳子は、プッと吹き出してつぶやいた。
「先輩らしいや…さすがだわ」
おそらくあと10分もしないうちに、空が中継所にやってくる。アームカバーを着けると、再びウォーミングアップのために走り出した。すると、顔に何かが当たったのを感じてすぐに歩みを止めた。頬を拭うと、手を空にかざす。
一瞬の沈黙ののちに、淳子はつぶやいた。
「…雨だ…!」
そう言うと、慌てて中継所のテントへと走っていった。
茨城を追い抜き、一人旅になってからも腕時計の時間を見ては何かをつぶやき、時折吹く冷たい風にぼやいていた空だったが、残り1キロに近づこうかという頃には口数も減り、呼吸も少し乱れ始めた。前方の集団は遠ざかり、再び後方から茨城のランナーが迫りつつあった。
沿道の声援で茨城の接近を知り、空はギョッとして後ろを振り向いた。迫ってくる茨城のランナーは表情にまだ余裕がある。対して、空は自分の表情が険しくなっていることを感じていた。
(…ここで…抜かれるわけには)
並走の体制になり、できる限りの力で腕を振る。ところが、先程からの雨で体表の熱を奪われたこともあり、背筋のあたりから震えを感じ始めた。
(急がないと…)
苦しい表情を隠そうともせず、空は奥歯をぎりぎりと食いしばった。
淳子は、時計を見やりながら不安げな表情を浮かべてリレーゾーンで空を待ち構えていた。1位集団は、1分以上前にリレーを終えた。前の中継所では30秒ほどの差で空がタスキを受け取ったと記憶していたが、今のところそれらしき姿が見えてこない。再び時計をちらと見て顔を上げると、コースの先に人影が見えた。
「あ…!」
やってきたのは、空ではない。茨城に次いでやって来たのは、5区で好美がかわした埼玉のランナーだ。淳子がさらに遠くを見つめると、その後ろから空とおぼしきランナーの姿が見えた。だが、その影はなかなかこちらへと迫ってこない。そうこうするうちに、茨城がタスキリレーを淳子の真横で行っていった。埼玉も中継所の直前まで迫る中、空はもはや正面すら向けていない。雨で体力を奪われたのか、うなだれたように下を向きながら走っている。思わず、淳子は声を張り上げた。
「相浦先輩、もうすぐです!ファイト!」
どうにか顔を上げた空が、タスキを拳にぐるぐる巻きにしてやってくる。その表情は、こわばって硬直したままだ。リレーゾーンぎりぎりでタスキをぴんと張ると、弱弱しい声で空がつぶやいた。
「ごめん、淳子…たのむね!」
「オッケーです!身体、よく温めてくださいね!」
淳子が勢いよく飛び出したのを見届けると、数歩だけ歩いて空は崩れ落ちた。
その頃春奈は、最終の第8中継所でウォーミングアップを続けていた。
空が淳子へタスキリレーを行ったのを見届けると、春奈はバスを降りてストレッチを始めた。その前の1位集団の中には、神奈川チームで7区を走る琴音の姿もあった。琴音と淳子の差は1分以上開いている。淳子は確かに秋田学院の中では実力のあるランナーだが、大学駅伝界で注目を集めている琴音との勝負では分が悪い。
いろいろな思いが頭をよぎりそうになったその瞬間、春奈はテレビから目線を切った。たとえ、淳子が好走したとしても8区は中学生の凛花だ。どう転ぶかはわからない。
(――気にしても、しょうがない)
以前ならば、空がブレーキした段階で動揺していたはずだ。それを割り切れるようになったのは、以前学んだメンタルトレーニングの効果も少しばかりはあったようだ。
ジョッグからスタートすると、後ろから来たランナーにポン、と背中を叩かれた。
「やぁ、お疲れ様!」
「史織さん!」
先程からの雨は、勢いを増してきている。1月の都道府県対抗駅伝での春奈の姿を鮮明に覚えている史織は、心配になって思わず声をかけたのだった。
「気温がかなり下がってきたね…準備は大丈夫かな?」
「万全です!ほら」
そういって、春奈は閉じていたガウンのボタンを外してみせた。寒さ対策に保温効果のあるインナーを着込み、ゼッケンの上からはビニールを被せてある。足からの冷えを防ぐために履き始めたハイソックスは、春奈のトレードマークにもなりつつあった。
「さっすが!この一年、いろいろ対策してきたね」
史織に褒められると、春奈は満面の笑みを浮かべた。
「史織さんのおかげです」
「えっ?」
「都道府県対抗の時に、史織さんが色々教えてくれたことが秋田学院に入ってからわかるようになったんです」
大ブレーキを起こし、涙にくれた都道府県対抗女子駅伝。史織は、失意の春奈を慰めるだけではなく、自らの経験をもとにレースの心構えやコンディションの整え方など、細かに春奈へとアドバイスを送っていたのだった。
「痛い目にあってわかったところもありますし、周りの皆に伝えたりする中で自分が思い出しながら実践できたこともたくさんありました。あの時、史織さんと一緒のチームでやれて、本当によかったです」
目を輝かせながら話す春奈をにこやかに見つめていた史織だが、真剣な表情に戻ると言った。
「ありがと。でも、今日はライバル同士だね。同じ位置で走れるかはわからないけど、わたしも本気で走るから、春奈ちゃんも本気で来てね。よろしくね」
史織の目を真剣な表情で見つめていた春奈だが、史織の言葉に笑みを浮かべて大きくうなずいた。
「もちろんです!史織さん…今日はよろしくお願いします!」
<To be continued.>




