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#54 おまじない

 「ハアアッ、ハアアッ、ハアァ…」

美乃梨が仕掛けた予想外のスパートに、タスキを渡し終えた秋穂は崩れ落ちた。酷使した足は熱を持ち、乱れた呼吸がなかなか収まらない。汗を拭い、視線を上げると目の前にペットボトルが差し出された。

「あ…」

「お疲れ様。いい勝負できて楽しかったよ」

そこには美乃梨が、秋穂にニッコリと微笑んでいた。

「ありがとうございました…っ」

フラフラと立ち上がるが、目の前の世界が回り、秋穂はよろめいてしまった。

「大丈夫!?」

 慌てて、美乃梨が秋穂の肩を支える。

「すみません…ハアッ、ハアッ…」

手渡されたスポーツドリンクを口にして、呼吸を整えると秋穂は口を開いた。

「まさか二度もスパートするなんて…想像してなかったです」

 秋穂の言葉に、美乃梨はしてやったりと言わんばかりの笑みを浮かべた。

「きっと、春奈ちゃんにわたしのこと少しは聞いたんだよね?でも、知らないはずだから」

 秋穂はハッとした顔をすると、苦笑いを浮かべて答えた。

「はい…春奈は、都道府県対抗の時は堀内先輩は転倒してしまって、どういう走りをするかわからないと言っていました」

「だよね…『死んだふり作戦』。どうだった?」

「すごく強かったです…次の都道府県でご一緒できたら、その時はまたよろしくお願いします」

 いたずらっ子のような笑顔を浮かべた美乃梨に、秋穂もようやく呼吸が整ったのか、満面の笑みで応えた。


 秋穂が2位でタスキをつないだ秋田チームは、2区以降苦戦が続いた。

2区を走った高校2年生の彩里は残り500メートルの地点で左足の痙攣によるブレーキを起こし、順位を10位まで下げた。続く3区の田中礼亜、4区の中学生・城所萌は健闘したものの、第4中継所に萌がやってくる頃には、順位は18チーム中13位と苦しいレース展開を強いられていた。

 5区を走る大同自動車のキャプテン・荻野好美は、待ちかねた様子でせわしなく身体を動かしていた。大同自動車は秋田市内を中心に展開するタクシー会社で、本城が大学卒業後に就職した実業団チームでもある。そんな縁もあり、翼の姉である相浦空など秋田学院出身者が就職することも多い、縁のあるチームだ。好美は、関東の大学を卒業してすぐ地元の自動車メーカーの実業団チームへ入社したが、1年で退社し大同自動車へと移籍していた。

 直線の向こうに、萌の姿がようやく見えた。好美が大声を張り上げる。

「萌ちゃんラスト!あと少しだから全速力で走ろう!まだいけるまだいけるよ!!」

寒空によく響く大きな声は、萌にも届いたようだ。好美の声に顔色の変わった萌は、今一度腕を懸命に前後に振り、リレーゾーンで待つ好美の元へと向かってくる。

「荻野先輩!」

 萌が両手を広げてピンと張ったタスキを受け取ると、好美はやはり大きな声で叫んだ。

「おっけサンキュー!萌ちゃん頑張ったよ!」

 タスキを右手で高々と掲げ、好美は5区を走り出した。


 春奈は、まだマイクロバスの中で中継を眺めていた。

『中継はバイク、13位を走る秋田の荻野好美につけています。荻野は入りの1キロを3分ちょうどという記録的なハイペースでここまで進んでいます。荻野といえば、昨年の実業団女子駅伝でもエース区間・3区で区間4位という好成績で走っています。秋田チーム、2区以降非常に苦戦を強いられていますが、ここからの展開どうでしょう、花屋さん?』

 解説を務める花屋勝男にマイクが移る。

『秋田はなんといっても最終9区にはスーパー1年生の冴島がいますから、距離に若干の不安はありますが5,000メートルの記録保持者ですから、そこはあまり心配しなくてもよいと思います。本来であれば秋田学院の梁川あかりが走る予定だったと思いますが怪我で欠場ということで、その点残念ですがこの後も大同自動車の相浦、秋田学院の川野と非常に楽しみなランナーが控えていますので、彼女たちが冴島に入賞圏内でタスキをつなげるようなことがあれば、非常に楽しみな戦いになるんじゃないかと思いますね』

 一連のやりとりを見ていた春奈は一瞬顔を下に向けると、手に持っていたホットのスポーツドリンクをゆっくりと口にして、息をふーっと吐いた。目を見開いたまま、モニターに映る好美の姿を凝視している。

 すると、ポケットの中の携帯がブンブンとけたたましく響いた。

「…もしもし?」

 春奈が応えると、電話の主は予言していたかのように答えた。

「緊張しとったじゃろ、今」

 秋穂だった。

「なんでわかるの?」

「わかるよ、誰よりも緊張しいじゃろ、春奈」

「…ははは、ばれちゃしょうがないね…うん、緊張してる」

(…みんな知っとるけどな…)

 春奈の言葉に秋穂は内心突っ込みを入れたが、春奈を諭すように続けた。

「毎回言うてすまんけど、リラックスな。ずっと中継見とんのじゃろ?身体動かして、外の空気吸うて、ストレッチしといたほうがええよ。ケガしたら元も子もないよ」

「はーい」

 春奈は、電話口で頬を膨らませて答えると、数秒空いて秋穂が申し訳なさそうに言った。

「ごめん、ウチいつもこんな言い方しかできんけん、心配でつい言うてしまう…」

「わかってるよ、ありがと」

 電話を切った春奈は、席から立ちあがった。実況の声が遠ざかる。

『先程からバイクがついています秋田の荻野好美ですが、すでに4人を抜いて9位に上がりました!そして前方に見える埼玉、栃木、青森の3人の集団にまもなく追いつき、5位を狙おうかという勢いです!秋田の荻野、7人抜きも夢ではないここまで非常に快調な走りです!…』


 6区を走る空は、すでに第5中継所のリレーゾーンに現れ一人ストレッチをしたり、他県の選手に話しかけたりとせわしなく動き回っていた。

「姉っちゃ、何してらの!?」

 ふいに、沿道側の観衆から声が飛んだ。そこには、妹の翼の姿があった。

「何してらの、って、他の人たぢと話してらんだげど?」

 当然のことを聞くな、と言いたげな表情で、空は首を傾げた。

「んもう、あと何分がしたら、荻野さん来でしまうよ」

「大丈夫だよ、姉っちゃ、本番はバビューンど走っていぐがら」

あまりにもマイペースな空の言動に、翼は呆れて苦笑いを浮かべた。

「まったぐ、走れるって言うだば、おいはそれでえんだげど…」

「それより翼、おめは学院の子の心配しねでええの?」

「あっ…そうだった」

 空に言われ、翼は慌てて沿道の奥へと引っ込んだ。


 「相浦先輩!?」

 携帯電話の画面を見た春奈は目を見開いた。まさか翼が応援に来ているとは思わず、大きな声をあげて驚いた。

「ごめん、ビックリしたかな。お姉ちゃん出るから、家族で応援に来たんだ」

 聞けば、秋田学院にほど近い実家から父がマイクロバスを運転し、一族郎党を引き連れて福島まで数時間かけてやってきたという。

「さすがです…」

 春奈が呆気に取られていると、翼が切り出した。

「準備は順調かな?春奈ちゃん」

「それが…やっぱり、緊張しちゃって」

それを聞いた翼は、電話の向こうでにやりと笑みを浮かべた。

(…やっぱりね)

「春奈ちゃん、おまじない知ってる?」

「おまじない?」

「そう、緊張をほぐすためのおまじない」

「わかんないです…どうやるんですか?」

「手に、『人』って文字を書いて、それを3回飲み込むの」

「『人』?」

 アメリカ育ちの長い春奈には、初めて聞く話だった。

「そ。そうやると、緊張がほぐれて落ち着くんだって」

「先輩、ありがとうございます!…あむ…」

 話し終えたかと思いきや、何かの物音が聞こえる。翼が尋ねた。

「ん、春奈ちゃん、何か食べてるの?」

 すると、春奈は驚いた様子で返事した。

「えっ!?『人』を飲み込むんじゃないですか!?」

「えっ!?」

 予想外の答えに、翼は驚いた様子で聞き返した。

「…やってる人、初めて会った…」

「…!」

 電話口の翼にも伝わるほど、春奈は顔を真っ赤にして恥ずかしがっていた。

「ま、まあリラックスできたなら、方法はなんでもいいや。そろそろ、姉がスタートするからそっちに行くね。春奈ちゃん、頑張ってね」

「ありがとうございます、相浦先輩!」


 5区を走る好美は、6位集団の3人と並走を続けていた。残り1キロを切って、各県のランナーがスパートをかける素振りを見せるものの、誰もついてこないと見るや再び引っ込むという光景が繰り返されていた。

(…じれったいな)

 埼玉のランナーは、他の大会でもよく顔を合わせる選手だった。正確に調べてはいないものの、これまでの経験からそこまでのスピードがないと好美は知っていた。事前に共有された情報でも、この3人の中に突出したスピードを持つランナーはいない。

 足を踏み出すスピードが、徐々に速くなる。突如、集団につけていたバイクに乗るアナウンサーが叫んだ。

『6位集団に変化がありました!秋田の荻野好美が残り700メートルを切ったタイミングでスパートを試みました!埼玉の斉藤ゆりなが追いかけますが、荻野のスピードが勝っています!その距離は5メートル、10メートルと開いていきます!秋田・大同自動車のキャプテン・荻野好美がここで単独の6位へと上がります!続く6区には、同じく大同自動車の相浦空が控えています。アンカーの冴島までに先頭との差をできる限り詰めておきたい秋田、ここ5区のラスト1キロで荻野好美が好走を見せています!』


 中継所では、先ほどまでは饒舌に他のランナーとの会話を楽しんでいた空が、口を真一文字に結んで好美の到着を待ち構えている。


<To be continued.>

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