#53 死んだフリ
最終区を走る春奈は、しばらくリレーまでは時間がある。多少電波が悪いようだが、テレビ局による中継がスタートしている。秋田チームの1区は秋穂が務める。
(他のチームは…と…あっ!)
春奈が画面に目を凝らすと、鉢巻きを頭に巻いたショートカットの選手が秋穂と隣り合う形でストレッチを行っている。春奈には、見覚えのある顔だ。
(…堀内先輩だ!)
都道府県対抗駅伝でも神奈川チームの1区を走ったが、序盤に他の選手との交錯によって足を痛めてしまった堀内美乃梨の姿だった。美乃梨はこの春高校を卒業すると、地元の海南学院大学の陸上部へと入部し、そのスピードで頭角を現していた。
秋穂は既にサングラスをかけ、手元の腕時計をセットしている。中継ではスターターが紹介された。スタートはそろそろだ。黄色や淡いブルーのユニフォームが多い中、上着が赤、パンツが紺青色の秋田チームのユニフォームは良く目立つ。
「位置について…」バン!
競技場にピストルの音が響くと、ランナーたちは一斉に駆け出した。昨年の反省を踏まえてか、神奈川チームの美乃梨はすぐさま先頭へと進み出て集団をリードしている。秋穂も、長身の美乃梨のすぐ後ろにつけて機会をうかがっている。
競技場から出るタイミングで、美乃梨は後ろのランナーを一気に数メートル離した。序盤から飛ばしていく美乃梨を追うように、秋穂も2位集団から飛び出す。そこへ、東京、埼玉といったチームが追いすがり、1位集団を形成している。
秋穂は、後ろも振り向かずに速いペースを保ち続ける美乃梨を追っていた。
(この人、メチャクチャ最初っから飛ばしよる)
秋穂は、中盤から徐々にペースを上げ、ラスト数百メートルでのスパートという形をとることが多い。すでに、美乃梨は秋穂の想定を超えるペースで飛ばしていた。スタミナにもある程度の自信があるとはいえ、オーバーペースで終盤に失速するのが怖い。そう思い、秋穂は美乃梨の一歩後ろに下がった。すると、
「あれ、春奈ちゃんのライバルなんでしょ?来ないの?」
美乃梨が、後ろをスッと振り向き、秋穂に向かって叫んだ。
「なっ…」
その言葉に、秋穂はドキッとすると表情を変えた。再び、美乃梨に並ぼうと腕を振りだそうとしたが、一瞬思案顔をしそれまでのペースを保った。秋穂は、徐々に美乃梨との間隔をあけていく。
(…心理戦か…誘いに乗ったらアカン!)
秋穂は、ちらと手元の時計を見た。最初の1 キロを、設定タイムより10秒も速いペースで突っ込んでいた。また後ろを少し振り向いた美乃梨は、秋穂が誘いに乗ってこないことに不満げな表情を見せたが、すぐに前を向き直りハイペースを保っている。
マイクロバスの中で戦況を追っていた春奈の元へ、着信があった。
(…淳子先輩だ)
「お疲れ様です」
春奈が応答すると、淳子は少し不安げな声で切り出した。
「秋穂、大丈夫かな?神奈川の堀内さん、かなり飛ばしてるけど」
「秋穂ちゃんは、大丈夫だと思います。最初はかなり抑えて入る方だと思うので。ただ…堀内先輩が全然読めなくて」
「読めない?」
「今年の1月の都道府県対抗で一緒だったんですけど、スタートしてすぐ足をひねっちゃったので、ベストコンディションで走っているところをまだ見てなくて…5000のタイムでいえば、秋穂ちゃんのほうが速いので大丈夫だとは思うんですが」
「そうか…後半勝負に期待って感じかな」
バスの運転手が、テレビの音量を上げた。実況が耳に入ってくる。
『神奈川の1区を走るのは、海南学院大学1年の堀内美乃梨です。この堀内は1月の都道府県対抗女子駅伝にも出場いたしましたが、スタート直後に他のランナーと交錯して足を捻挫。完走はしたものの、区間39位という悔しい結果に終わりました。ですが、先日の記録会では5000メートルの自己記録を更新し優勝と今非常に波に乗っている選手です。この堀内を追うのが秋田の高島秋穂です。秋田といえば、五千メートルの日本記録を樹立したスーパー1年生・秋田学院の冴島春奈が有名ですがこの高島も負けてはいません。なんと、5000メートルの自己ベストはこの堀内を上回るタイムを持っています。スタートダッシュを得意とする堀内と、ラストスパートに強みを持つ高島でそれぞれタイプは異なりますが、この二人の対決、非常に面白い争いと言えるかと思います――』
(や、面白くないって!やってるこっちはヒヤヒヤしてるって!)
春奈は、手に持っていた携帯電話をギュッと握りしめ、画面の秋穂を見つめていた。
先頭集団からは一人、また一人と遅れ、とうとう美乃梨と、そこからやや離れた所から追う秋穂との二人の争いとなった。
(ペースが落ちてこん)
路肩の「あと2キロ」の看板が目に入った。秋穂はそれを目で追うと、前方へ視線を戻した。すると、さっきまで小さくなりかけていた美乃梨の後ろ姿がまた徐々に大きくなってくる。足取りが重くなっているのか、先程よりも動き自体にもキレがないように見える。
(行ってしまうか…?)
好機と見るや、秋穂はギアを上げた。すると、美乃梨は秋穂に並ぶでもなく、あっという間に後方へと下がっていった。秋穂は二度後を振り返り、美乃梨が追ってこないことを確認するとそのペースを保ちながらどんどんと前に出ていく。
実況が叫ぶ。
『ここへきて1位を走っていた神奈川の堀内美乃梨のペースがガクンと落ちました!それを見て、2位の秋田・高島秋穂が大きくペースを上げて一気に堀内を抜き去りました。高島と堀内の差はぐんぐん開いていきます!高島が残り2キロの地点で大きくスパートし、先頭に立ちました!現在先頭は秋田の高島が走っています!』
美乃梨との差が数十メートルに開いてもなお、秋穂はそのペースを緩めずにどんどん前へと突き進んでいく。市の中心部へ入るころには、美乃梨の姿は後方にわずかに見えるまでになっていた。
コースは、福島県庁が見えると直角に右に曲がり、さらにもう一度左に曲がる。前方に見える阿武隈川を渡れば中継所はすぐその先にある。秋穂は、県庁の姿が目に入るともう一度後方を振り向いた。美乃梨の姿が迫っていないことを確認すると少しペースを下げた。
(あと少し…)
すると沿道から、何かを呼びかけられていることに秋穂は気づいた。
「後ろから神奈川が来てるよ!」
「秋田、頑張れ!また神奈川くるぞ!」
(なんじゃと…?)
声を掛けた観衆は、手元の携帯でテレビの中継を受信していた。観衆の耳には、実況があげた大きな声が届いていた。
『先程一旦は後方へと下がった神奈川の堀内ですが、市街地に入り再びじりじりとスピードを上げていました!一時、30秒ほどに開いた差は残り1キロの地点でわずか10秒に縮まっています!ブレーキにも見えた堀内ですが、ところがどっこい最後の最後に余力を残していたということになります!先頭の秋田・高島に再び追いつこうというペースです。その高島ですが、先程のロングスパートもあってかなかなかスピードが上がりません!今、高島が阿武隈川を渡ろうという所ですが、その後方には再び堀内の姿が現れています!』
残り1キロになり、まるで先程まで死んだふりをしていたかの如く美乃梨のスピードが蘇り、先を行く秋穂をぐいぐいと追い上げていく。
(いかん…足が動かん!)
秋穂は懸命に腕を振るが、負荷を強いた足が思うように進まない。息もあがり、前方にわずかに見え始めた中継所の人垣が果てしなく遠く感じる。
最終の中継所に到着した春奈は、依然マイクロバスの中でテレビを眺めていた。
(堀内先輩、めちゃくちゃタフだ…秋穂ちゃん!)
実況は、第1中継所のアナウンサーに切り替わる。
『この第1中継所、最初に飛び込んでくるのは秋田の高島秋穂と思われましたが後方から迫る神奈川の堀内の姿がどんどん大きくなってくるのが分かります!慌てて、第2区のランナーがリレーゾーンに飛び出してまいりました。神奈川の第2区は明邦大学の矢島姫花、秋田は八郎潟高校の菅原彩里がスタンバイしていますが、これは中継所でのタスキリレー、どちらが先に飛び込んでくるかわからない状況になりました――』
秋穂は橋を渡り切ったタイミングで後ろを振り向くと、美乃梨の姿はもう数秒のところまで迫っているのが見えた。タスキを手に取り拳に力を入れると太腿を三回たたいた。
(あと少しだけ…動け!)
美乃梨は、もどかしさを隠せずにいる秋穂の後方についた。前方からの向かい風の強さに気付いたか、前に出ようとはせずに秋穂の背後にぴったりとくっつくように、中継所へと歩みを進めていく。美乃梨もかなりの高身長ではあるが、160センチを超える秋穂は風よけには十分だ。
中継所の手前にある最後の交差点を抜けると、美乃梨は一瞬にして秋穂をかわし、最後のラストスパートの体勢に入った。
実況はヒートアップする。
『最後の直線勝負に勝ったのは神奈川の堀内美乃梨です!今、2区の矢島へタスキが…渡りました!そして、2位で秋田の高島秋穂がこの中継所に飛び込んできます。その差はわずかに5秒!激しいスパート合戦を制して神奈川がこの1区、まずトップでタスキリレーを果たしました!その神奈川を追う秋田は、高校2年生の菅原が矢島を追いかけていきます!』
<To be continued.>




