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#48 軋轢

【前回のあらすじ】

一美はトップでタスキを受け取るが、途中で腹痛を起こし首位を明け渡し、5秒差で秋穂へとリレーする。痛みに顔をゆがめる一美の元へ、励ましに来たという悠来の姿が。悠来は言葉と裏腹に一美を一方的に責めたてるが逆に前日の晩からの行動を問い質され、逆切れしてその場から立ち去っていった。

 レースはいよいよ残り1キロを切った。コースは5区のスタートから並走してきた秋田運河を離れ、ゴールの八橋陸上競技場がもう左手に見える。先頭をひた走る秋穂に、沿道で待機していた礼香と明日香が声をかける。


「秋穂後ろ、34秒差!いい感じで離れてるよ!」

「ほーたん、ファイトー!」

 秋穂は二人の声に反応して、うっすらと笑みをうかべて右手を挙げた。ちらと後方を振り返ったが、もう、後ろのチームの姿は視界にはない。ペースをさらに上げると、秋穂は軽快な足取りで競技場へと入っていく。

 秋穂の姿が見えた瞬間、スタンドからは歓声が上がった。春奈たちも、秋穂に向けて大きな声援を送る。

「がんばれー、秋穂―!」

「あと一周半だよ、ファイト!」

 すると、先程中継所から戻ってきた怜名が声を張り上げた。


「あーきーほ!あーきーほ!あーきーほ!あーきーほ!」

 その声は次第に大きくなる。先にゴールし、都大路行きを決めた男子部員たちも、怜名の声に合わせて声援を送る。秋田学院は県内高校の陸上部の中でも最多人数を誇る。秋穂への声援が競技場全体を包んでいく。

 秋穂は、サングラスを外すとスタンドに向けて右手を挙げた。部員たちの応援に加え、一般客からの声援と拍手が徐々に大きくなってゆく。春奈たちはスタンドから階段を下り、グラウンドへと姿を見せた。目的はひとつしかない。その姿を見つけた秋穂は、険しい表情を崩して初めて笑顔を見せた。


 最後の直線に入るその少し前に、2位の秋田鳳桜が競技場へと現れる。だが、距離はすでに大きく開いている。直線に入った秋穂は、胸に掛けたタスキを右手でグッと握る仕草を見せると、右手で小さくガッツポーズを作った。

 ゴールラインにぴん、と貼られた純白のテープが宙を舞う。


 秋田学院女子陸上部が、12年連続で全国高校駅伝への出場権を手にした瞬間だった。



 12年連続の本選出場ということで、ゴールの瞬間は驚くほどあっけなく、部員たちの歓声も本城の胴上げもない静かなものだった。一列に整列したメンバーを前に、本城は語り始めた。

「お前たちも知っての通り、今回で12年連続、13回目の出場だ。ここで喜んでいる俺たちじゃない。これまで、本選の最高順位は13位。今回はそれを超えて8位以内ーーすなわち、入賞圏内を目指したい。だが、俺の気持ちだけでいえば優勝を狙いたい。梁川を欠くが、今回のメンバーは優勝を目指せるメンバーだと俺は思ってる」

 優勝という言葉に、部員たちの背筋が伸びる。すると、険しい表情だった本城から笑みがこぼれた。

「とはいえ、だ。さっきも言った通り、梁川がいない中でお前たち、よく頑張った。特に、1年の高島、冴島。プレッシャーもあっただろうに、素晴らしい走りだった。それに冴島、1区は区間記録を更新したそうだ。おめでとう!」

 本城の声に、部員たちの拍手が続く。春奈は、冬の風にさらされて冷えた首元を押さえると、緊張が少しほぐれたのか、はにかんだ笑顔を見せた。


「ありがとうございます」

「よし、いい笑顔だ。…じゃあ、男子部と一緒に記念撮影をしたら学校に戻る準備だが、さっき確かに『ここで喜んでる場合じゃない』とはいったが、お祝いはせんとな。マサヨさんに電話して、今夜は祝勝会と決起会をやることにした。男女とも、18時から食堂に集合だ。以上!」

 そういって本城がポンと手をたたくと、ようやく張り詰めた空気がほどけ、部員たちの顔に笑顔が浮かんだ。


「春奈!」

 春奈が振り向くと、秋穂が右手を上げていた。

「やったね!」

 二人は手をパァンと合わせると、固く握手を交わし微笑んだ。

「春奈ー!秋穂ー!おめでとー!」

 スタンドからは、怜名や愛たちが手を振っている。春奈も秋穂も満面の笑みでそれに応えると、お互いの顔を見やって微笑んだ。



 陽も暮れた合宿所では、食堂に男女それぞれの部員たちが集まっていた。寮母のマサヨさんや調理師たちが、あわただしく厨房と食堂を行き来する中、部員たちはそれぞれが思い思いに会話を楽しんでいた。特に、男子部の優勝に大きく貢献した2年生の悠の周りには、女子部員が大挙して押し寄せ、そのさまを他の男子部員たちが遠巻きに見つめていた。

「あいたたた…あっ」

 ふくらはぎに強い張りの出た春奈は、トレーナー室でアイシングとマッサージを終えて他の部員たちよりやや遅れて食堂へとやってきた。すると、春奈の元へと誰かが近づいてくる。

「新田先輩…お疲れ様です!」

 そこにはスタート地点で春奈が声をかけた男子部2年の新田涼矢の姿があった。

「ナイスランだったね、冴島さん」

「新田先輩も、区間賞おめでとうございます」

「いやいや、そうはいっても2位とは何秒とかしか差がないからね。区間新記録でしょ?やっぱすげーわ。さすがだね」

 そういって涼矢が褒めると、春奈は照れたような笑顔を見せた。すると、

「おいおいおい涼ちゃーん、さっそく冴島さんにアタックしちゃってんの?早いんじゃね?」

「モテる男は違うね!フゥーッ!」

 何人かの同級生がそういって囃したが、涼矢は首をかしげるとつづけた。


「ん?何言ってんの、区間新記録だから素直に褒めてるんだよ。じゃあ、冴島さん、また後でね」

「はい!お疲れ様です!」

 涼矢を見送る春奈の顔は、心なしか頬が紅潮しているように見えた。そして、そんな春奈を遠巻きに見つめる姿があった。

(さえじ…もしかして新田先輩気になっちゃってる?)

(えー、でも涼矢先輩、他の子からも結構噂聞くよ?)

(わたしは結構お似合いだと思うけどな。あの二人、なんかいい感じ)

 愛、怜名、涼子が寄り合って噂をしていると、背後から突然誰かが声をかけた。

「なーに、楽しそうな話してんの」

『うわああぁ!』

 三人が慌てて振り向くと、あかりがニヤニヤして立っている。

「わたしも仲間に入れてよ。何見てるの?」

「春奈と涼矢先輩が、お似合いだねって話してたんです」

 涼子が言うと、あかりは首をかしげた。

「新田くん?」

「はい、新田先輩と春奈がさっき話してて」

「新田くんかぁ…新田くん、誰にでもいいカッコするからなぁ…あっ」

「?…あっ」

 何かに気付いたあかりが、声を上げると足を少しひきずりながら近づいていく。怜名は、あかりが向いたほうを追って見ると、今朝方にスタート地点で激しく口論していた悠来と一美が、食堂の出口の近くでまたもや何かを言い争っている様子が見えた。

「あぁ…またあのふたりが…」


「わたし、今朝みんなより早く会場に行って設営とかしてたのに、遊び歩いてたとか酔っぱらってたとか出まかせを言うんです!」

 そういうと悠来は、こらえきれず話が終わる前に泣き始めた。服装は、朝の格好のままだ。

「出まかせじゃないじゃん。あかり先輩、悠来が遅れてきたのは見ましたよね。あの時、悠来がお酒と煙草臭くて、酔っぱらって会場に来てたんです」

「ちょっと、ふたりとも落ち着いて。一美、確かに悠来は遅れてきたけど、わたしは近くで見たわけじゃないから…」

「先輩、わたしも見たし他の子も見ました。こんな人を部に置いておけないと思います」

「でも、わたしは見てないから判断でき…」


「見てなかったら、夜遊び歩いてもお酒飲んでもいいって言うんですか!?悠来の肩を持つのはやめてください」


 常に毅然とした態度をとっているあかりが煮え切らない態度を続けることに憤慨した一美が、とうとう声を荒げた。天井が高くなっている食堂にその声が響くと、一瞬部員たちは水を打ったように静かになったが、徐々にざわめく声が聞こえ始めた。輪の中から沙織と淳子、真衣の3人が飛び出すと、あかりたちの元へと駆け付けた。淳子が3人に割って入りあかりと悠来と話し始めると、沙織は一美の肩を持って落ち着くように促す仕草を見せた。真衣は、他の部員たちに向かって両手をパタパタと交差させて、「気にするな」というジェスチャーを見せた。

 淳子たちのまさに鮮やかな動きに、怜名たちはポカーンと口を開けて立ち尽くした。


「まなち…、先輩たちさすがだね」

「うん、まるで過去にも同じことがあったみたいに」

 愛がそう言うと、涼子が呆れた顔でつぶやいた。

「あったみたい…っていうか、あれはたぶんあったんだよ、何回も」


 あかりたちから離された一美の興奮状態は収まらず、顔を押さえて泣いている。悠来も下を向いて押し黙り、あかりはよほどショックを受けたのか、絶句して固まっている。淳子があかり達に何事かを話しかけているが、ふたりは茫然としたまま口を開こうとしない。

 やはり、遠巻きにその様子を窺っていた春奈が秋穂に話しかけた。

「秋穂ちゃん…」

「…放っておいたらええよ」

「…そうだよね」

 春奈を遮るように食い気味でつぶやいた秋穂に、小さくうなずいて春奈は他の部員たちの輪の中へと戻っていった。


 そんなことが起きていたとは知る由もない本城が、食堂のただならぬ様子に不思議そうな顔をして入ってきたが、入口付近にいた悠来らの姿を見て何かを察したのか、きまずそうな表情へと一変し部員たちの輪の中へと進んでいった。本城が戻ってきたことに気付いたマサヨさんたちも、厨房から食堂へとやって来た。


「えー…ゴホン!生きていると色々なことがあるが…今日の県駅伝については出場したメンバー、サポートに尽くした部員も、皆それぞれご苦労様だった。日頃の鍛錬が実り、男子部は5年連続20回目、女子部は12年連続13回目の全国高校駅伝への出場権を獲得することができた」

 そう本城が切り出すと、部員たちから自然と拍手が起こる。あかりたちは、まだ部屋の隅で話を続けている。一瞬ちらと悠来たちの様子を見た本城だが、すぐに視線を部員たちに戻して続けた。

「日頃、俺は君たち部員には厳しい指導をしていると思う。それを理不尽に感じる者も、何クソと思う者もいるだろう…だが!こうやって結果として結実したことに、今本当に感謝している…」


「っさいなぁ!黙っててよ!」


 本城が自らのスピーチに酔い始めた頃を知ってか知らずか、今度は悠来が声を荒げた。説得する沙織の言葉に反応したのか、今にも掴みかからんという態度をとっている。部員たちも再びざわめき始めた。自分のスピーチに対する発言かと一瞬勘違いした本城は、ばつが悪そうに口を開いた。


「えー…あのー…あれだ、とにかくささやかだが、今日の結果を皆で祝って、来るべき本選に向けて英気を養おうというのがこの会だ!マサヨさんと栄養士さんたちがこれだけのご馳走を用意してくれたんだ、みんなで頂こうじゃないか…と、その前に皆で乾杯だ、な、お前たちみんなグラスは持ってるか…って酒は俺たちだけだが…」


 そこまで言うと、場の空気がなんとも言い難い、不穏なものに包まれるのを本城以外の全員が感じた。「酒」という言葉に、全員が悠来のほうをふっと向く。周囲の反応に本城もはっとして表情を歪めたが、もう遅い。


 春奈の頭にも、先程の一美の言葉が一瞬にして去来した。

(見てなかったら、夜遊び歩いてもお酒飲んでもいいって言うんですか!?)


 春奈には、悠来に向けて全員の白けた視線がうっすらと突き刺さっているようにすら見えた。悠来は依然として下を向いていたが、長い髪から見える耳は真っ赤に染まり、身体は震えている。

 すると悠来は、両の拳をぐっと握るとこう言い放った。

「何よ!じゃあ、あたしがもうここにいなかったらいいんでしょ。いいよ、ならあたし東京に帰るから」

 そういうと、マネージャーが持っている連絡用の携帯電話のついたストラップを首から外し、携帯電話を勢いよく床に叩きつけて悠来は食堂を出て行った。ガシャンという派手な音が食堂に響く。その場にいた部員たちは絶句し、悠来がいた場所を呆気に取られて眺めている。


「…ゆ…、あ、い、井田…」


 本城は慌てたように悠来の出て行ったほうへ手を伸ばしかけて、すぐに下ろした。祝勝会という名前が嘘のような気まずさに包まれた会場で、檀上の本城は心ここにあらずといった様子で立ちすくんでいたが、首を大きく2、3回振ると大きな声で叫んだ。


「とっともかく、今日は皆で…じゃあ、あの、ぐ、グラス、か、乾杯!」

『か、乾杯…』


 尋常ではない様子の乾杯の音頭に、困惑した様子の部員たちがバラバラにグラスを掲げた。本城は手にしたグラスに注がれたビールをぐいっと飲み干すと、流れる汗を拭うこともなく慌てて食堂の外へと出ていった。


 マサヨさんがその場をどうにか取り繕い、ようやく「祝勝会」の空気を取り戻した会場は、男女それぞれの部員たちが思い思いに集い語らっている。空腹極まった春奈は、テーブルに広がったご馳走を皿に山盛りにしてしばらく食べていたが、会が中盤に差し掛かると会場を出て、一人寮の外へと歩いていった。

「あっつう…」

 普段、男女は食事の時間帯も異なるため、地続きの構造になっているものの寮の中で顔を合わせることも稀だ。それが、ほぼすべての部員が食堂に集まったせいで、そろそろ冬に差し掛かろうかという時期にも関わらず室内は蒸し蒸しとした状態だった。


 手で顔を仰ぎながら春奈はトラックを横切り、校舎と体育館の裏にある噴水広場で腰を下ろした。校舎と体育館から漏れるわずかな明かりだけで、普段は生徒たちでにぎわう広場も静まりかえっている。春奈はふと空を見上げた。澄んだ空気の夜空に、吐息が白く溶けていく。広い敷地ということもあり、周囲の建物の光も届かない。空には無数の星が輝いている。

「はぁーっ」

 春奈は、大きくため息をつくとベンチに寝転がった。冷たい空気を吸うと、少し気分も落ち着くような気がした。深呼吸をするうち、入学してからの様々な出来事が胸をかすめる。

(色々あったなぁ…もう冬かぁ…お母さん…)

 琴美とは、日々の練習や授業で忙しく過ごすあまりメールでの連絡すらしばらく取っていない。琴美もまた、国内・海外問わず、撮影の仕事で忙しく飛び回っているのだ。

「…グスッ」

 琴美のことを思い浮かべるうち、鼻の奥がツンとして、目頭には涙が浮かんだ。すると、

「春奈?」

 すぐ近くから春奈を呼ぶ声がして、足音が近づいてくる。春奈は身体を起こした。

「梁川先輩…」


<To be continued.>

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