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#3 とまどい

【前回のあらすじ】

春奈と美帆の差は徐々に開き、観客の注目は春奈の日本新記録樹立へと移った。順調なペースで走る春奈は、レースも終盤に差し掛かるとまるでスイッチが入ったかのように一気にスピードアップ。そのままのペースでゴールし、14分42秒という日本歴代1位の新記録をマーク。会場は興奮に包まれた。

 ゴールテープを切った瞬間、春奈は場内の観客からどよめきにも似た歓声があがったのを耳にした。他校の選手や監督・コーチが、異次元のモノを見るような目で驚嘆していたのも見えた。そして、引率の教師やチームメイトの部員たちが歓喜を爆発させて自分の方に近寄ってくるのもわかった。そんな中、当の本人だけが、状況を飲み込めずにキョトンとしていた。


「どうしたん…ですか?これ?」


「いやいや、どうしたもこうしたもないよ、冴島。日本新記録だよ!」


「ええっ!?」


 顧問の西端正夫(にしはたまさお)にそう言われると、その大きな目を見開いて春奈は驚きの表情を見せた。自分が達成した偉業の重さなど、理解できる余裕は全くなかった。目の前の距離をひたすら走り切ることだけを考えて、あっという間に過ぎた14分42秒。傍らには、報道のカメラマンが群れをなすように構え、フラッシュの嵐が降り注いでいる。事態を1ミリも飲み込めないまま、促されて春奈は表彰台へと歩を進める。

 


 2位には15分12秒という記録で美帆がゴールしていた。15分12秒でも、従来の学生記録を塗り替える大記録だ。それが全く話題にならないのは当然の流れだろう。美帆本人は、怒りや焦り、戸惑い、恐怖、それらの感情の渦巻く表情のまま、表彰台の一番上で両手を掲げる春奈を見やっていた。が、どういう表情をすればよいのか分からないのは春奈も同様だった。ただ、この数十分の間に自分の立場が大きく変わったことだけは何とか理解できた。




「冴島選手、こっち向いてください!」


「カメラに向かって、笑顔で賞状を見せてください」


 バシャバシャバシャと、激しい雨音にも似た無数のシャッター音を全身に浴びる。


「ど、どうしよう」


 表彰台を降りるその時に、ぼそっと口から出たその言葉が今の心情をすべて表していた。




 新星の登場に、報道陣は色めき立っていた。無理もない。これまで、中学駅伝はおろか公式記録会に一度も出場のない選手が、突然日本新記録を叩き出したのだから。平井も例外ではない。すでに、来月号の見出しが頭の中を巡る。新女王は中学生。女子長距離界100年に一度の超逸材。謎の美少女が日本新を樹立―。国立競技場にいるすべての者が、歴史の目撃者になったのだ。興奮するのは当然だった。


 報道陣の真ん中に春奈が進み出た。新聞社の記者が口火を切る。




「日本新記録の樹立です。今どのような気分ですか?」


「まだ、そんなすごい記録を出したという実感がなくって…私自身がビックリしています」


「レース前から自信はあったのですか?」


「全然……すごい選手がたくさん出ていると聞いたので、自分の力を出し切ってゴールしよう、ということぐらいしか考えていませんでした」


「優勝の瞬間は、何を思いましたか」


「あまりにも無我夢中すぎて、ゴールしてもしばらく頭が真っ白でした。いえ、えっと、まだ頭真っ白です…」


「2位入賞の片田選手は、世代を代表するスピードランナーと言われています。そんな片田選手に勝った感想を教えてください」


「ほかの選手のことを全然知らなくて…そんなすごい選手に勝ったことが、まだ信じられないです…」




 矢継ぎ早に繰り出される質問に、春奈は戸惑いながら言葉を発していた。それにしても、だ。これだけの逸材が、なぜいままで一切表舞台に出てこなかったのか?報道陣はみな同じ疑問を頭に浮かべていた。平井が質問の手を挙げる。


「今回が初めての公式記録会だと聞きました。これだけのスピードを持つあなたが、なぜ今までこういったレースに出場したことがなかったのでしょうか?」

「う…あ、え、えーと…先生」


 突然個人的な事情に関しての質問を受け、春奈は一瞬戸惑いの表情を見せた。傍らにいる西端に一言二言相談をすると、口を開いた。




 冴島春奈は、貿易業を営む父とプロカメラマンの母の間に一人娘として生まれた。両親の仕事の関係で、出生以来アメリカ・コロラド州の州都デンバーで育った。ところが、昨年父を病で亡くしたことで日本に帰国し、母の実家のある横浜で暮らし始めた―という。


 自己紹介を照れ臭そうに済ませた春奈に代わり、西端が口を開いた。


「授業では1,500メートルの持久走があります。これまで特に本格的なスポーツ経験はないということでしたが、授業でもダントツのタイムでゴールしたのです。聞けば、本人もまだどの部活に入るかを決めかねているということだったので陸上部への入部を薦めたところ、やってみたいということだったので部活動を始めたのですが、距離を伸ばしてもそのスピードが衰えるどころか、どんどん記録が伸びていくので今日の記録会にエントリーしたのですが、まさかこれだけの結果を残すとは…」


 春奈が全く無名だった理由は分かった。が、それにしてもこれだけの身体能力を持つ選手が日本に存在し、今の今までクローズアップされてこなかったことも、大きな衝撃であった。話す姿は中学生らしく、緊張にまみれてたどたどしいものだったが、ロングヘアに大きなその瞳は見る者の印象に強く残り、その場にいた誰もが日本女子陸上界の新たなスーパースターの誕生を確信していた。


「どうしよう、先生、恥ずかしい」


 相変わらず止むことを知らないフラッシュの嵐と、取り巻く記者たちの人数を目の当たりにし、春奈は顔を赤くしてやや後ろにいた西端の方をぷい、と向いてしまった。それまで異様な空気に包まれてていたグラウンドの一角に笑いが起こる。


(なかなかすごい子だ。走りの実力は言うまでもないが、この歳にしては肝も据わっているし、人を惹きつける魅力のようなものがある。本当のスターに育っていくのはこういう子なのかもしれない...)


 平井は新たなスターの誕生に、胸の高鳴りを押さえられずにいた。




 <To be continued.>

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