#36 逡巡
【前回のあらすじ】
夏合宿を終えた春奈たちは新人戦に挑む。男子の部では琥太郎が自己ベストを大きく更新し、春奈と怜名は大いに喜ぶ。女子の部のスタートを前に、怪我が治り今回が初めての公式戦となるみるほは緊張した表情を崩さなかったが、春奈がルナ=インフィニティの曲を口ずさむとようやく笑顔を見せた。
「30秒前!」
スタートラインに総勢20名ほどの選手たちが並ぶ。中でも、臙脂と白のユニフォームの秋田学院は人数も多いこともありよく目立つ。白いキャップを被り、サングラスを掛けた春奈は列の中央にスタンバイしている。
「20秒前!」
やはり、サングラスを着用した秋穂は、手足をぐるぐると回しストレッチしている。
(さぁ…春奈、勝負やけん、手加減はなしな)
一点に前方を見つめている春奈を横目に、秋穂はニヤリとして両手を回した。
「10秒前!位置について!」
スターターが、ピストルを持った手を静かに上にかざす。
パァン!
ランナーが一斉に飛び出す中、数名の選手がスタートでもつれる。集団からこぼれた中には佑莉の姿もある。
(…佑莉ちゃん!)
スタートからの波乱に、春奈は少し動揺した。しかし、佑莉のことを気にしてもいられない。一美から名前が挙がった、山形・酒田国際高校の一年生留学生、シラ・カマシがスッと集団から抜け出すと、それを追うように春奈もスピードを上げる。全身の筋肉を躍動させるかのように、シラは軽快にスピードを上げていく。
(さすが…速い!)
日中のピークとはいえ、気温の高い中で互いが牽制しあうレース展開になると読んだ春奈だったが、ことシラに関しては例外だった。平均気温の高いケニア出身のシラにとっては、ある意味慣れっこともいえる暑さだ。周囲のランナーを気にする様子もない。春奈は、シラの真後についてしばらく様子を見ることにした。
秋穂はその春奈のすぐ後ろの集団を引っ張る形になった。集団の後方には、愛と怜名が並走の体勢を取っている。集団の中から一美がすっと前へ抜け出し、秋穂と並んだ。
一美は、秋穂に目配せした。
(どうする?もうちょっと前詰める?)
一瞬秋穂は考えたようだったが、コクリとうなずくと後ろの数名を離しにかかった。序盤で転倒しかかった佑莉は、本来ならこのあたりの位置にいてもおかしくはないが、足が気になるのか後方から追い上げる気配が見えない状態だ。
秋穂は、後方を一瞬見ると心配そうな表情を浮かべた。
(佑莉、この暑さもあるし厳しいか…?)
シラは春奈を一度も見ることなく、速いペースを崩さずに進んでいく。ストレートに入ると、そのスピードがさらに増したように感じた。
(このままペース落ちなさそう…)
終盤にかけてペースを上げていく春奈にとっては、この序盤での競り合いは予想外だった。
(どうする…?)
ふと、レース前の一美の言葉が脳裏をよぎる。
(ベストだけみれば9分10秒だからサエコの方が速いけど、サエコ暑いのも寒いのも苦手だよね?だから、めっちゃ注意必要だね)
考えるよりも早く、春奈はスイッチを入れた。素早く右手前に出ると、シラの目を見て春奈がアイコンタクトを送る。
(まだ早いけど、勝負だよ)
その意味を理解したのか、シラは眉間に一瞬しわを寄せると、再び春奈に並んだ。目に見えて、両者がスピードアップしたのがわかる。競技場がどよめきに包まれた。
春奈は、苦しさこそないものの、深刻な表情を浮かべた。
(正直これ以上のペースは怖い…でも行くしか…!)
レースは中盤に差し掛かろうとしていた。
中盤を走る怜名と愛のすぐ横にいた選手が、中盤になってぐっとスピードを上げた。怜名たちは5名ほどの集団となっていたが、その選手はするするとスピードを上げたと思うと、10メートルほど前の集団をすぐにとらえ、それもすぐに追い抜いて行った。
(中盤でペース上げるって珍しい…あっ)
愛は、その後ろ姿を凝視すると、ユニフォームに書かれた校名に気づく。背中にはオレンジ色の鮮やかな地に白で「拓洋大学」と書いてある。
(あれが…星川美月!)
レース前に、一美が要注意として挙げていた星川美月だった。愛も、美月に少し遅れたもののペースをグッと上げ追走態勢に入る。が、怜名は暑さで体力を奪われつつあるのか、思うように足が前にでない。
少しずつ遠ざかる愛の背中を見ながら、苦し気に怜名がつぶやいた。
「あ、暑い…!」
陽も少し陰ったとはいえ、トラックの上は風もなく、蒸し焼きにされそうな体感温度だ。右手で汗を拭った怜名が顔を上げると、すでに愛は美月が先ほどとらえた集団の先を行こうとしていた。
(まなち…そうとう飛ばしてるけど、大丈夫かな…?)
先頭の春奈とシラは、2キロを過ぎてもハイペースを維持していた。2キロの通過タイムは6分13秒。後続の一美たちとは10秒ほどの差がある。春奈は、追走するシラの表情を覗きこんだ。先程と変わらない余裕を浮かべている。
すると、シラが春奈に何事かをつぶやいた。
「……!」
おそらく、母国語だろうか。英語をネイティブで話すことができる春奈だが、シラの言葉は聞き取ることができなかった。しかし、言葉を発した後、シラは再び春奈との距離を離そうとスピードを上げたのが分かった。残りは700メートルほどだ。残り2分ほどの間にレースは決する。
(どこでスパートしようか…)
そう一瞬迷ったとき、後ろに気配を感じた。振り返ると秋穂が一美との差を広げ、春奈たちふたりを猛然と追い上げている。以前とは違いフォームも安定し、表情にも余裕がある。
秋穂から目を離し、再び前方のシラを追う。春奈が逡巡したその隙にシラは数メートルの差をつけていた。ここで離されるわけにはいかない。意を決し、コーナーから出たそのタイミングで春奈は仕掛けた。
(あと500メートル…行きます!)
グッとスピードを上げて、一気にシラとの間を詰めてかわす。前方に誰もいないその直線を駆け抜けて再びコーナーへと入っていった。
その時、春奈の視界にコースアウトして歩いていく選手の姿が入った。しきりに足首のあたりを気にしながら、力なく地面にへたりこむ。春奈と、顔を上げたその選手の目が合う。
「佑莉ちゃん…」
佑莉は2キロすぎまでは何とか走っていたが、自ら途中棄権の判断を下してコースアウトしていた。佑莉は、申し訳なさそうな表情を浮かべて春奈に向かって一回うなずいた。
そして、一瞬佑莉に気を取られた瞬間、春奈のペースは無意識に落ちていた。その隙をシラは見逃さなかったか、春奈の背後にピッタリとついた。さらに、ふたりを追走していた秋穂も、シラとその差は3秒もない距離まで縮めていた。
追い上げる秋穂は、春奈を見て一瞬首を傾げた。
(さっきから、ずっと何をキョロキョロ気にしとる…?)
秋穂にも棄権した佑莉の姿が見えたが、一瞬その姿を見ただけですぐに前方に視線を戻した。
<To be continued.>




