#2 スイッチ
【前回のあらすじ】
国立競技場で行われている、女子5,000m走の記録会。注目を集めていたのは高校陸上界のエース、片田美帆。ところが、そんな美帆を抜き去って颯爽と先頭を走る中学生の姿が。その中学生の名は冴島春奈。誰もが初めて聞く名前だが、彼女の快走に国立競技場は騒然とし始める。一体、彼女は何者なのか?
レースは中盤に差し掛かろうとしていた。
なんとか一旦は並走に持ち込んだ美帆だったが、その差はじりじりと開き始めていた。決して美帆が遅い訳ではない。もはや自己記録のペースすら超えるオーバーペースだった。それをゆうに超えたペースで快調に先頭をひた走るのが、颯爽と現れたニューカマー・冴島春奈、その人だった。序盤こそ、強烈な出足もある種のパフォーマンスで、そのうち失速するだろうというのが大方の見方だった。が、観衆も、記者も、徐々にその言葉を失っていった。速い! 高校生どころか、大学生、いや実業団選手ですら見たことのない驚異的なハイペースだ。春奈本人は顔色を変えることなく、むしろうっすらと笑みすら浮かべているかのような表情で、後続の美帆たちを置き去りにしていく。
(なんなの?この子!)
小さくなっていく背中を追うことももはや美帆には厳しく、春奈と対照的にその表情を失っていくのが自分でもわかるようだった。
追うことも、並ぶことすらも叶わぬ―。敗色を悟った美帆の脳裏に、絶望のふた文字が浮かぶ。新記録ペースで追いかけても縮まらないその差をどうしろというのか。懸命に振り出すその両の手足を、今すぐにでも止めたくなった。だが、レースは残り1,000メートルを切った。諦めたくない―。美帆はその一心で、視界から外れそうな先頭の中学生―春奈の背中を追っていく。
記者席の平井は、手元の資料を慌ただしくめくっていた。美帆の記録のことを調べているのではない。先頭の春奈がどのくらいのタイムでゴールするのか。使い込まれて皴々になった記録年鑑を持つ手は汗ばみ、震えている。中学生が5,000メートルを15分台でゴールすること自体が前代未聞だ。それどころか、このままのペースを持続するなら、14分台すら見えてくる。日本女子陸上界において、過去に5,000メートル15分を切ってゴールした選手はわずか1名しかいない。14分台といえば、もはや男子選手に比肩するスピードだ。その記録を、10代半ばの中学生が樹立しようとしている。興奮するなという方が無理な話だ。他の記者も一様に、春奈と手元の記録を交互に見やっている。時計は14分を回った。先頭の春奈と2位の美帆の差は半周以上。誰が見ても、春奈がトップでゴールテープを切ることは明白だった。あとは、そのタイムだ。最後のコーナーを前に、春奈は大きく息を吸う仕草を見せる。一瞬頬を膨らませると、その息をはあっ!と吐き出し、
カチッ!
誰もが、春奈が「スイッチ」を入れたかのように見えた。コーナーも終盤にさしかかったその瞬間、春奈は最後のスパートに入り、その勢いで直線へと突き進む。もはや、目の前にも、後ろにすらもライバルは不在だった。だが、そのスピードを緩めるどころか、視界にはっきりと入ったゴールテープをめがけて、一心不乱に腕を、足を振り出す。
ぴん、と張ったゴールテープが宙に舞った。女子5,000メートル、優勝を飾ったのは、大方の予想を裏切る―いや、誰も予想しえなかった、中学3年生の春奈によって達成されたのだ。それも14分42秒という、日本女子5,000メートル歴代1位のとんでもない記録によって―。
ゴールした瞬間、一瞬会場はしん、と静まり返ったが、その瞬間観客すべての大歓声に包まれた。会場にやってきた全ての人間が、中学生によって日本記録が樹立された瞬間の目撃者となったのだ。それは、記者とて例外ではない。平井は、春奈がゴールした瞬間に手元の資料を放り投げた。
「すごい...すごいぞ、この選手!」
誰に聞かせるでもない。自分の興奮を確かめるかのように平井は繰り返した。通気が悪く蒸し暑い記者席も、自販機で買った缶コーヒーのまずさも全く問題ではない。ICレコーダーを手に、平井はグランドへ急いだ。
<To be continued.>




