#19 静寂、のち歓声
【前回のあらすじ】
遅れてトラックへやって来た悠来は、1年生の春奈があかりよりはるかに先を走っている事実が許せない。「あれはまぐれ」「計測がおかしい」などと因縁をつけて去っていった。残り半分を過ぎ、体力の限界と戦う秋穂。これまで会話を交わしていなかった同級生たちに声援を送られて顔を真っ赤にしてしまう。
いつの間にか、トラックの周囲には陸上部員による人垣ができていた。
女子部員だけではない。スーパー中学生と騒がれたレコードホルダーの入学は男子部員ももちろんリサーチ済だ。女子寮に隣接する男子寮からは、バルコニーから戦況を眺める生徒も散見される。
「冴島って、どれだよ!おっ、あのポニーテールのカワイイの?」
「宮司!あんた、んなとこばっか見てんの!?変態」
宮司と呼ばれた男子生徒の頭を、怜名は平手でバシッと叩く。怜名と同じ中学からこの秋田学院にやってきた、宮司琥太郎というこの生徒も、春奈の走り…いや、その愛らしい風貌に興味津々といった様子でレースを眺めている。
「ていうか宮司、多分春奈ちゃんと走ったら、あんた負けると思うよ」
「ウルセエ。俺が負けるわけねえってえの。フーッ、まじカワイイじゃん、冴島春奈!」
怜名は春奈に夢中の琥太郎を無視すると、改めて春奈に声援を送った。
「春奈ちゃーん!ラスト1周、ファイトー!」
萌那香の「ラスト1周」の合図にふと我に返った春奈は、いつの間にか増えたギャラリーに気づくと表情を崩し、怜名たち1年生女子に手を振ってみせた。
(オォ、なにあの集団!いつの間に?)
つい先ほど先行したばかりだと思っていたが、すでにあかりと秋穂ははるか後方にいた。秋穂に至っては、もう少し詰めれば周回となりそうなほどの距離感となっていた。残りは400メートルを切っている。タイムはもう少しで14分を指す。春奈の脳裏には、ちょうど1年ほど前に記録した14分42秒の自己記録がちらつく。
(さすがにこの距離だと…無理かな)
すると、あかりや秋穂の言葉が再び響いた。
(ここにいるのは全員ライバルじゃ。一生懸命やらんのはいかん!)
(私に遠慮してたら、チームが強くなんないからさ)
春奈は一瞬目を瞑り、自分に言い聞かせるように反芻する。
(そうだよね、練習は本番のように、だもんね。行かなきゃだよね)
再び目を開くと、笑顔になり、あかりと秋穂の走る方向を向いて小さな声で呟いた。
「…じゃあ、遠慮は無用で、行かせていただきます!」
直線に入った瞬間、トラックを囲むように3人のレースを食い入るように見つめていた生徒たちに、本来聞こえるはずのない音が聞こえた気がした。
そう、カチッ、と。
春奈が残りの200メートルに入り、最後のスパートをかけたのが全員に分かった。まるで、ラストスパートという名前のスイッチを、春奈が入れたかのように。
腕、足の振りがさらに軽快になる。その身体は、羽が生えたかのようにトラックを前進していく。風を切って走る姿に、ゴール地点の萌那香の目線は釘付けになっている。
「もう、鳥みたい…」
最後のコーナーを曲がりきると、ゴールラインに向けてあとは一直線だ。拳を強く握り、スピードに身を任せるかのように足を振り出す。
その身体が、ゴールラインを超えた。
萌那香は手元のストップウォッチを見ると、部員たちに向けて叫んだ。
「14分59!」
一瞬の静寂が訪れたのち、一団からは歓声と拍手が沸き起こる。怜名たち1年生が春奈に駆け寄り、思い思いにハイタッチや握手を交わす。春奈は照れくさそうな笑顔を浮かべると、先輩部員たちに一礼した。
「萌那香先輩、ありがとうございました!」
「いいのいいの、私は見てるだけだし。ほら、ふたりのゴールも待たなきゃね」
そういって、萌那香は最後のコーナーに差し掛かるあかり、それを追う秋穂の姿を指した。
「あかり、15分46!」
観衆からため息が漏れる。高校生女子5,000メートルで15分40秒台といえば、それでも歴代の数十番目以内に入ってくる猛スピードだ。それを練習で軽々とマークするあかりと、それを大幅に超えて15分を切るタイムでゴールする春奈、双方への畏怖ともとれる溜息だった。
ゴールラインを超えて一礼すると、ひざに手をつき肩で息をしている。
残る秋穂は、最終周に入って一気にスピードダウンした。春奈、あかりのゴールを横目に確認したその瞬間、それぞれにガクンとペースを落とした。
気持ちは、とっくの昔に切れていてもおかしくはなかった。むしろ、限界を超えたこのタイミングまで気持ちを切らさずに走ってきたことがある意味奇跡でもあったのだ。もはや、最後のコーナーを前にしても、ラストスパートをかける体力の余地はない。
「ハアアッ、ハアアッ、ハアア!」
すっかり息もあがり、顔からは玉のような汗が吹き出す。目はうつろで、目前のコースをぎりぎり捉えているが、ギャラリーに顔を向ける余裕はない。
「高島さん、あと少しだから!ファイト―!」
「がんばれ、高島!」
「あと少し、行けー!」
最後のゴールを待ち構える生徒たちから、声援があがる。
重い足をなんとか前に振り出しながら、ゴールラインを超えた。そのまま前方へ倒れこんでしまい、1年生たちが慌てて駆け寄る。
「ハアッ ハアッ ハアッ ハアッ…ガハッ、ガハッ」
「大丈夫!?」
春奈も慌てて、秋穂の傍らに駆け込んだ。
「秋穂ちゃん!」
「…冴島春奈ァ…ハァ、ハァ、全然ダメじゃった…」
「…」
「どがいなに速い言うたって、勝てる思うとった…完敗じゃ…」
「そんなことないよ」
言葉をどう返すべきか迷う春奈に代わり、萌那香が答えた。
「16分52。入学すぐの5,000メートルって考えたら、すごいタイムだよ」
「…モナコ先輩…」
「萌那香!なんでそんな面倒くさい間違え方するかな」
「ひひひ…ありがとうございます」
「秋穂ちゃん」
「どうしたん…冴島春奈…」
「人にファーストネームで呼ばせておいて、自分は他人行儀なのやめてよね。春奈でいいよ」
「…わかった…冴……いや、春奈、どしたん?」
秋穂に問われると、春奈はニヤリとして答えた。
「楽しかった」
「…お、おぅ」
「なんか、知らない場所に来て、どっかで勝手に遠慮のブレーキかけてたんだと思う。目立っちゃいけないのかなとか、なんか言われたりするのかなって。でも、そういうのどうでもいいっていうか、梁川先輩と秋穂ちゃん見てて、一生懸命走るのって気持ちいいなって!」
「春奈…」
「わたしたちはライバルだけど、みんな一つの目標持ってる仲間だって、意味がわかったんだ」
満月を見上げながら、春奈は続ける。
「多分、梁川先輩は私たちにすごい期待してくれてるんだなって。だから、1年生とか関係なく、私たちがチームを引っ張っていけば、全国で勝てると思ってこういうチャンスくれた…んですよね?梁川先輩」
「えっ?…ああ、うん」
突然話を振られたあかりは、慌てて答える。
「私も、楽しかった。キミたち2人が中心になってチームを引っ張れるようになれば、全国で優勝するのも夢じゃないと思うんだ。だから、みんなで頑張って実現しよう。いいかな?」
「はい!」
「もちろんです!」
あかりの問いかけに、ふたりは目を輝かせて答えた。そこへ、
「おーい、練習熱心なのはいいが、お前らいつまでやってるんだ!もう消灯の時間だぞ!その気持ちは大事だがな!ガハハ…」
先ほどの出来事を知らない本城が、私服姿でやってきた。そこへ、レースを見守っていた生徒たちが群がる。
「ええー!?先生、ここで何があったか、まさか知らないんですか?」
「お…おう、おまえたちが自主練してた…のと違うのか?」
本城は、一体何のことやらという表情で不思議そうに春奈たちを眺めた。
「それはそうですけど、さっきまですごいことが起きてたんですよ!」
「先生、まさか見てないんですか?勿体なーい!すごく勿体ない!」
「ん、何の話だ!何が起きたんだ!おい、教えろって」
「そうしたら本人たちに聞いてみたらどうですか?でも誰かは内緒です」
「んな…顧問に内緒話とかいかんいかん!おい、梁川、どういうことだ!」
「え、先生、ただの練習ですよ、ただの練習。ね、キミたち」
そういうと、あかりは春奈たちを見ていたずらっぽく舌をペロッと出した。
厳格なイメージのあかりの思わぬ行動に、思わず春奈と秋穂は声を出して大笑いしてしまった。
本城を中心に、にぎやかなトラックが見える。その光景を遮るように、サッとカーテンを引くと、部屋には暗さが戻った。蛍光灯のついた机に突っ伏すと、長い髪をグシャグシャとかき乱し、机に積まれた教科書やノートを手で払った。床に散らばり、バサバサと音をたてる。
本城やあかりと談笑する春奈と秋穂の姿を脳裏に浮かべると、それを信じたくないかのように大きくかぶりを振って、忘れ去ろうとするしぐさを見せた。
しかし、その温かな光景は忘れ去るどころか、脳裏に焼き付いて離れない。
――悠来は、手元の鉛筆をとると乱暴にノートに書き殴った。
つらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらい
そして、泣き腫らした真っ赤な目で、悠来は呻くようにつぶやいた。
「落ちたくない…A班から絶対落ちたくない…あかり先輩から離れたくない…」
<To be continued.>




