#17 月夜のど根性
【前回のあらすじ】
レースがスタートし、手加減なしを厳命された春奈は遠慮から、なかなかあかりと秋穂を追い抜くことができない。「遠慮をしていたらチームが強くならない」というあかりの言葉に、ようやく本気になった春奈は全力でスパートを始める。そのスピードは、あかりと秋穂が唖然とするほどのものだった。
それまでの、どこかぎこちなく不安げな受け答えは一体何だったのだろう、とあかりは思った。あの一瞬で人が変わった――いや、スイッチがカチッと入ったかのようにペースが激変し、並走していたふたりをあっという間に置き去りにしていった。
(そりゃ、争奪戦になるよね…)
東京から意気揚々と帰ってきた本城が春奈の勧誘に成功したと、まさしく破顔一笑といった様子で高笑いする様子を部室で聞いていた時のことを思い出す。
「よくぞ、よくぞうちに決めてくれた。東北で寮生活という時点で我々は圧倒的不利だったわけだ。そんな中での決め手は熱意つまりパッション、そういうことだ!ハハハハハ!」
「監督なんですか…その『毎日がエブリデイ』みたいなの…」
その時は馬鹿笑いの止まらない本城を冷たい視線で見やっていたが、実際にその走りを目の当たりにして、今なら本城の気持ちも十二分に理解できる。
(…っていうか、感心してる場合じゃないな!)
頬をパンパン、と2回両手で叩き、あかりは秋穂に続くべくスピードを上げた。
「ハッ…ハッ…ハッ」
秋穂の息があがる。自己ベストの感覚から比べると随分とオーバーペースであることは、容易に想像できた。しかも、今回は経験のあまりない5,000メートルでの勝負だ。未曽有のスピードに額から汗が滴り落ちる。相手は、日本人でもひとりかふたりしかいないレコードホルダーだ。5,000メートル14分といえば、男子大学生の上位クラスと一緒に走るようなものだ。春奈の姿は、既に直線上にはいない。カーブに既に差し掛かっている。
「嘘じゃろ…ハァッ…ハアッ」
歯をギリギリと噛み締めながら、苦悶の表情でつぶやく。今のところ、春奈に追いすがるための有効な策は頭に浮かばない。自分の限界と勝負するのか。それとも――
「いや、…ハアッ、待っとけよ、冴島春奈…ハアッ」
勝負を投げるわけにはいかないと、一度汗をぬぐって再び腕を大きく振り出した。
まるで後に続くふたりを忘れたかのように、春奈はさらにペースを上げている。
1キロに差し掛かるタイミングで、待機していた萌那香が春奈に叫ぶ。
「2分57!」
春奈は軽く萌那香を見て、左手で合図を送る。萌那香は目を細めて、遠ざかる背中を眺めた。
(3分切ってくるとか…さすがだね、スーパールーキー!)
数秒空いて秋穂、そのすぐ後ろをあかりが追走する。先程より、秋穂とあかりの間の距離は詰まり、ほぼダンゴのような状態となった。あかりが秋穂の背に語り掛ける。
「どうしたの、1年生、ここまでか?」
「そんなことは…ない!」
相変わらず息は荒いが、あかりをキッと睨みつけると再び前に向き直り、あかりを引き離しにかかる。あかりも即座に対応し、今度は秋穂の隣に並ぶ。あかりが再び叫んだ。
「ごめんね、私も負けるわけにはいかないからさ」
そう言うと、秋穂の右肩をポーンと叩き、一瞬で前に出る。歩を進めるたびに、その差がじりじりと開き始める。
「なにお…」
秋穂は既にこの時点で相当のスピードだった。遠ざかるあかりの背中に追いすがろうとするが、水の中を歩いているかのように、あかりに近づけるようで近づけない。
「あ゛あああぁ!」
秋穂は、走りながら右足の太腿を拳で殴りつけるような仕草を見せた。
『速すぎる中学生、冴島 秋田学院へ進学』
『東北で大きく羽ばたく ニューヒロイン・冴島 秋田の地で成長へ』
2月の中旬、まだ中学生だった秋穂は、部室で雑誌の見出しに目を留めた。
(えっ、この子、秋田学院に来るんか…!?)
1か月前の都大路に実は秋穂もエントリーしていたのだ。怜名とおなじ8区を走り、区間2位の成績を残していた。ところが、レース終了後の秋穂は浮かない表情をしていた。
「秋穂、どうしたんか?」
「2位じゃった…勝たれんかった…」
「2位じゃろ?全国の2番目じゃろ?頑張ったわい!」
「ほじゃけど1位以外は、ビリも同じやけん…勝たれんかったけん悔しい…」
「秋穂…」
「あと、神奈川のあの子、何位やったん?」
「あぁ、冴島春奈っちゅう子?ブレーキだけん、リタイヤはせんかったけど」
「え、嘘じゃろ」
(何でじゃ…日本記録の中学生見れるええチャンスじゃったのに…)
区間は違うとはいえ、世代最強かつ日本最強かもしれないランナーにお目にかかる機会を逸し、秋穂は悲嘆にくれた。そんな中、進路先が同じ学校だと知り、秋穂のテンションは最高潮まで上がるのが自分でもわかった。
「やった!日本一のランナーと毎日勝負できるけん、めっちゃ気合入りよる!」
「…秋穂、テンション高すぎだけん、ちょっと抑えんか…」
つまり、この勝負は、秋穂にとっては待望の”邂逅”だったといえる。
春奈はおろか、つい先ほどまで並走していたあかりにもじりじりと距離を離されつつあることに、悔しさと苛立ちが隠せなかった。いくら追いかけても、前のふたりは逃げていく。感情が高まるあまり、目には涙が浮かんだ。
(…ウチ、何をしよんじゃ!)
すると、走りながら両手を掲げたと思うと、その手で自分の頬をありったけの力で叩いた。
パチン!パチン!
「ひっ!?」
前を走るあかりにもその音が聞こえ、ギョッとして後ろを振り返った。両の頬に真っ赤な手の跡をつけた秋穂が、涙を流しながら追ってくるではないか!
「えっ、えっ、何が起きたの!?」
「まだ、こんなところで、諦められんのじゃ…!ハァッ」
再び並走の体勢についた秋穂は、あかりの顔を必死の形相で睨みつけるとつぶやいた。
既にレースは2.5キロに到達し、先頭の春奈はふたりに半周近い差を既につけていた。
<To be continued.>




