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#145 最終兵器、迫る

 先頭集団が残り1キロを切ったあたりから、第4中継所が(せわ)しなくなる。秋穂も、ガウンを脱ぎ捨てると入念にウォーミングアップの仕上げを行う。一連のアップが終わると、鏡を覗き込んで鉢巻を結んだ。


「ほーたん、いよいよだね」


 愛の呼びかけに、秋穂は無言で頷く。


「……そうじゃの。ほら、見てみい」


 秋穂はそう言って、自分の膝を指差した。小刻みにブルブルと震える膝を見て、愛は秋穂の顔を心配そうに覗き込む。


「……大丈夫?」


 愛の言葉とは裏腹に、秋穂は無理矢理に笑みを浮かべた。


「こんなん、始めてじゃ……去年ですら何ともなかったのに、足がガタガタしとる……でも、もう行かな……」


 その時、愛が胸元に提げた携帯電話が鳴った。


「もしもし……、あ、うん、ちょっと待って? 秋穂、さえじからだよ」


「どうした?」


 秋穂が耳にかざすと、春奈はすぐに話し始めた。


「ごめんね、直前に。秋穂ちゃん、リラックス、リラックスだよ!」


「オッケー、ありがとう」


 秋穂がそう言って電話を切ろうとすると、春奈がさらに続ける。


「秋穂ちゃん、トップで戻ってきてね。約束だよ!」


 秋穂は頷いて電話を切ると、苦笑いを浮かべた。


(リラックスさせようとしとんのか、プレッシャーかけとんのか……どっちじゃ? 注文の多いやっちゃの、フフ……)


 秋穂は、怜名たちがやってくる方向を目を細めて眺めた。さっきまであった車の往来がなくなり、対岸に行き来する沿道の観客の姿が見える。大きく息を吸い込むと、一瞬動きを止めてゆっくりと吐き出した。


(さぁ、怜名……待っとるよ!)




沿道で待ち構えていた瞳に手を挙げ、合図した直後から息が徐々に苦しくなるのを怜名は感じていた。先行していた伊織が少しずつ後ろに下がり始めるのと同時に、並走する仙台共和大高のあゆみのペースが衰えるどころか、徐々に前へと出てゆくのが見える。


『ここで先頭が入れ替わります! 後方から追い上げた仙台共和大高の佐藤が先頭に立ち、秋田学院、桜島女子と続きます――が、秋田学院の牧野と桜島女子の是永は苦しいか……』


 先行するオレンジのユニフォームが、少しぼんやりと霞む。視界がチカチカとするのがわかったが、腕を振るのを止めてはいけないと、朦朧とする意識の中で怜名は繰り返していた。


(わたしがここで……止まったら……春奈が……1年間の努力が……)


 こみ上げる気持ち悪さを紛らわすように、首を横に何度も振る。どうにか腕に力を込めると同時に、沿道から呼ぶ声が聞こえて怜名は振り向いた。


「怜名っち、しっかり! お母さんとお兄さん来てるよ!」


「怜名、頑張れー! 怜名ー!!」


「怜名、あと少しだからな! 踏ん張れ!」


 意識が朦朧とする中で、なんとか目を見開いて頷く。母の佐和子は、苦しげな娘の様子を見て思わず顔を押さえた。


「母ちゃん、俺中継所まで行ってくるわ!」


 兄の健太郎は、すぐさま中継所の方に向かって駆け出す。心配そうに涙をこぼす佐和子の背中を、傍らの瞳が慰めるようにさすっている。




 異変は、競技場で待つひかる達にも明らかなものだった。怜名が苦しそうに走る姿をビジョン越しに見つめたみるほが、心配そうにつぶやく。


「怜名ち……あと500メートル……」


 すると、ひかるが口を開いた。


「心配することはないよ。顔は苦しそうだけど足取りは変わってないし、共和大とも差は開いてない。最初のオーバーペースが効いてるんだろう」


 そこまで言うと、ふっと息を漏らす。


「怜名にとっても、あのペースで飛ばしたのは初めてだからね。つらいのは間違いない。あとは、秋穂がどこまで踏ん張ってくれるかだね」




『さぁ、最後の第4中継所がにわかに騒がしくなります! 先頭は3校の熾烈な争いが未だ続いています! 先頭は仙台共和大高、続いて秋田学院、桜島女子という状況ですが――佐野さん、この5区どのような展開となるでしょうか?』


 史織は、リレーゾーンで待ち構える選手たちを見渡すとうーんと唸った。


『秋田学院は5区に高島さんを残していますから、タイム的には非常に有利な立場にいると思いますが、今年は後ろから東広島のカリウキさんが来るでしょうから、カリウキさんに他の学校がどこまでついていけるかがポイントとなるのではないでしょうか』


 中継カメラが、グリーンと赤のユニフォームに身を包んだアグネスを映す。


『今佐野さんのお話にも挙がった東広島のアグネス・カリウキですが、4区残り1キロの時点で先頭の仙台共和大高との差は25秒でした。さきほど3区で区間記録を樹立した冴島が3キロで40秒ほど前との差を縮めましたが、この5区は5キロの道のりとなりますので、状況によっては首位交代、東広島が独走――という展開もありえるのではないでしょうか……』


 ひかるは無言で場内の実況を聞いていたが、手に持った資料をばさりとベンチに投げると、表情を険しくしてビジョンを睨んだ。


(そう簡単に抜かせてたまるかって……秋穂はこの1年で強く、逞しくなった……秋田学院をナメてもらっちゃ困るんだよ)




「怜名……!」


 競技場へと戻る車中で、春奈と恵理子は拳をじっと握りながら携帯電話の画面を眺めている。画面が中継所に変わると、待ち受ける秋穂たちの姿が大きく映る。


『この第4中継所、最初にやって来るのは仙台共和大高の佐藤ですが、そのすぐ後ろに桜島女子――そして秋田学院は少し後方に下がりましたが、3校が続けざまにやってきます!まずは先頭の仙台共和大高、4区の佐藤から5区アンカーの窪坂へタスキリレー!』


「……あっ!」


 その後ろに待ち受ける秋穂の表情を見て、春奈の表情が少しだけ明るくなる。


『2位の桜島女子は是永からアンカー大迫へ3年生同士のタスキリレー! さぁ、そして続く3位は秋田学院です。牧野を待ち受ける3年生・副キャプテンの高島はやはり笑顔です! 中継所へやって来る牧野を笑顔で待ち受けます!』


「うぅ……あああっ!」


 怜名は、歯を食いしばりながらリレーゾーンへと飛び込んでくる。その怜名をいざなうように、秋穂は大きく両手で手招きしながら怜名の名を呼んだ。


「オッケー、怜名! こっちこっち! よくやったよ! こっちじゃ!」


「秋……穂……!」


 その言葉が聞こえると、怜名は口元に小さく笑みを浮かべてタスキを広げる。秋穂は、その両手からタスキを受け取ると怜名の目を見てはっきりと言った。


「ありがとう、怜名!」


「あき…ほ」


『秋田学院、3位でタスキを5区高島に繋ぎましたが4区の牧野は力を出し切ったか、タスキを渡し終えると倒れ込みました! 今救護の係員がやって来ますが、牧野は大丈夫でしょうか……!』


「怜名!」


 思わず、春奈と恵理子も画面越しに悲鳴のような声をあげる。春奈は近づいてくる競技場を眺めると、じれったそうに口元を歪めた。


(秋穂ちゃん、ここから5キロ……絶対に優勝しようね!)




 実況が、興奮気味に声をあげる。


『さぁ、4位で姫路女学館と並んで東広島がやってきます!今、両校同時に……タスキリレー! 東広島のアンカーは絶対的エースのアグネス・カリウキです! カリウキが今、先頭と30秒差でこの5区に飛び出して行きました! 前をゆく3校にどのタイミングで追いつくのか、ここからの展開まったく目が離せなくなりました!』


 アグネスのスタートに、にわかに沿道が騒がしくなる。


「後ろから東広島の留学生が来るぞ―!」


 ラジオ、テレビで実況を追っている観客からの声に思わず振り向くと、ペースを早める。前をゆく桜島女子のアンカー沙帆の背中は、少しずつ近づいているように思えた。秋穂は、ふと春奈との言葉を思い出す。


(秋穂ちゃん、笑顔で行こう)


 その言葉を反芻した瞬間、秋穂は沿道を見て笑顔を浮かべた。


『仙台共和大高を追う秋田学院高島、もうすぐ前をゆく桜島女子の大迫に追いつこうかというところですが、沿道にはご家族が駆けつけており笑顔で応えます! この高島、昨年もこの5区を走りあとわずか500メートルというところで桜島女子に先行を許し、惜しくも準優勝に終わりました。今回のこの都大路、誰よりも優勝に向けて強い気持ちを持っている――と、秋田学院・梁川監督もコメントしています』


 走る秋穂に、実況の声は届いていない。しかし、沙帆が徐々に近づくにつれ、秋穂の表情はその背中を狙うかのように鋭さを増してゆく。


(今年は……絶対に勝つ! たとえ、桜島と競り合いになろうが、……それ以外が来ようが……最後に笑うのは、ウチらじゃ!)




「怜名っち! 怜名っち、しっかり! 大丈夫!?」


「ハァッ、ハアッ、ハアッ、ハアッ、ハアッ」


 呼吸が乱れて、愛の問いかけにも応えることができない。救護テントに担ぎ込まれた怜名は、毛布の上にぐったりと倒れるとうっすら目を開けてようやく声をあげた。


「秋穂……レー……ス……は」




 「怜名……」


 スタンドで見守る琥太郎は、不安げに手に持った携帯電話を見つめていた。しかし、首を振るとすぐにポケットにしまい込み、再びビジョンに視線を移した。トップの仙台共和大高の後ろを走る青いユニフォームの横に、臙脂のユニフォーム――秋穂が並んだのが分かると、男子部のメンバーも声をあげた。


「高島、行ける行ける! 桜島と一緒に仙台を食っちまえ!」


「高島先輩、いいペースです!」


 間もなく1キロを迎えようかという所で、秋穂は沙帆とともに先をゆく仙台共和大高のアンカー・窪坂由貴菜(くぼさかゆきな)を捉えようとしていた。しかし、道が再び直線道路になったところで、カーブから抜けてくる人影を見て思わず洸陽が驚く。


「コタ、あれ……後ろから来とるんちゃうか?」


 琥太郎もその人影によく目を凝らすと、ボソッと呟いた。


「……もう、こんなとこまで来たのかよ」




 1キロ地点には、知楓とともに彩夏が待ち受けていた。彩夏は卒業後地元の群馬に戻り、OLとして銀行に勤務していたが、一美の呼びかけで京都へやってきたという。知楓とともに、彩夏が大声で叫ぶ。


「先輩、入り1キロ3分13です! いいペースですよ!」


「秋穂、後ろから東広島来てるよ! 今のペースで粘ろう!」


 彩夏の言葉に手を挙げると、秋穂は一瞬後方を振り向いた。その目に、確かに迫るユニフォームを認めると、覚悟したように表情を引き締めると勢いを増した。


『序盤まだ1キロですが、後方から物凄い勢いで東広島がやってきます! 東広島のアグネス・カリウキが、前をゆく仙台共和大高、桜島女子、秋田学院をもう捉えようかという勢いでやって来ます! 優勝争いはまったく分からなくなりました! カリウキを擁する東広島が8年ぶり3回目の優勝をもぎ取るのか、桜島女子が3連覇を果たすのか、仙台共和大高が3年ぶり5度目の王者奪還を果たすのか――』


 実況がそこまで言うと、秋穂の身体がぐんと前方へせり出す。


『はたまた、昨年準優勝の秋田学院が悲願の初優勝を果たすのか!? 今、その秋田学院・高島が先頭に躍り出ます! その後ろからは東広島の最終兵器・カリウキが迫ってくる! 最終5区、優勝争いは全くその行方が分かりません!』  



<To be continued.>

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