#144 ありがとう
その瞬間、競技場内にも大きな歓声があがる。並走してその姿を写すバイクのスピードが一気に加速したのが分かった。ポニーテールをなびかせながら、春奈の身体はまるで跳ねるように前へと突き進んでゆく。
「春奈!」
「やりましたね!」
モニターを見つめる怜名は、恵理子と顔を見合わせるとハイタッチして拳をぐっと握った。怜名には、確信があった。春奈はこの笑顔のまま中継所へ飛び込んでくると――
「よっし!」
大きく両腕を回して、ガウンを脱ぐ。恵理子にそのガウンを託すと、怜名は笑みを浮かべて口を開いた。
「えりりん、春奈のことよろしくね」
「もちろんです! 怜名先輩も気をつけていってらっしゃい!」
怜名は無言で右手を挙げると、小走りでリレーゾーンへと向かっていった。
興奮していても、いつもの癖で撮ったばかりの写真を確認する。ふと顔を上げると、昭二と緑がこちらを向いて頷いていた。
「あ、ごめんなさい、お義父さんにお義姉さん」
「ええんよ、ウチらは先に競技場に向かうから、琴美さんは春奈ちゃんの所に行ったって……堂々と走っとるから惚れてもうたって、春奈ちゃんに伝えとってよ」
「お義姉さん……」
「ほうよ、春奈ちゃんもお母さんに早う会いたいやろ。頑張っとったな。それじゃあ、また後でな」
「ありがとうございます……じゃあ、後ほど!」
琴美はふたりに頭を下げると、中継所の方へと駆け出した。
数日後にライブを控えたリハーサルの場でもレースの様子が流されており、ルナ=インフィニティのメンバーたちも、春奈の一挙手一投足を固唾を呑んで見守っていた。
『間もなく冴島が前を行く5位の東広島・村上に追いつこうという所です! その前には3位と4位、仙台共和大高と姫路女学館の姿も見えはじめておりますが、中継所も間もなく見えてこようかという所――先頭の桜島女子が間もなく中継所に現れます。6位の秋田学院・冴島、全くペースが衰えません! 残り300メートルほど、区間記録の更新も見えてきています!』
「「春奈! 春奈! 春奈! 春奈!」」
メンバーたちが口々に春奈の名前を呼ぶ中、JULIAは拳を握りしめて走る姿を見つめている。
(春奈ちゃん…あと少し、全力で頑張って!)
春奈を待ち受けるそのすぐ横を、桜島女子の4区を走る是永伊織が、笑顔で横切っていく。怜名も笑みを浮かべて頷き合うと、3区のランナーが向かってくる方向を見つめた。空は、一点の曇りもなく晴れ渡っている。自らの緊張を鎮めるかのように、怜名はその場で二度三度と跳ねた。
『この3区、トップでやってきたのは桜島女子! 3連覇に向けて3区の遠矢から、4区待ち受けます是永へタスキリレー! そして、後続との差は今どのようになっているでしょうか……まず、2位の筑紫野学院がやって来ます』
遠くを見つめようとして、怜名は目を細めた。オレンジのユニフォーム――仙台共和大高と、すぐ後ろをゆく姫路女学館のさらに後方。人影は見えるもののその姿はまだよく目に見えない。が、徐々に大きくなる歓声に怜名は確信した。
(春奈だ!)
春奈の目にも、中継所の人垣が徐々に大きくなるのがわかる。リレーゾーンで待ち受ける臙脂のユニフォームをその視界に認めると、握りしめたその拳の力がさらに強くなる。
(あと少し……怜名!)
表情に笑顔を取り戻すと、その身体が一気にスピードを増して押し出されたように前へ出る。
『さぁ、3位仙台共和大高、4位の姫路女学館の後ろから……冴島です! 冴島が猛スピードでこの第3中継所へやって来ます! 東広島をかわして、5位でやって来るのは秋田学院の冴島です! 区間記録の更新は間違いないでしょう! タスキを手にとった冴島、その表情は――笑顔です! 今、満面の笑みで中継所へとやってきます!』
握りしめたタスキをピンと広げて、中継所へと駆け込んでくる。
「怜名ーー!」
声が聞こえると、思わず目頭が熱くなる。しかし、すぐに涙を拭うと、怜名は両手を挙げて飛び跳ねるように叫んだ。
「春奈、待ってたよ! ありがとう! 春奈ー!!」
「怜名、よろしくね! ありがとう!」
『さあ、日本最速の高校生が今中継所に飛び込んで来ます! 5位の秋田学院、3区冴島から4区待ち受ける3年生の牧野へタスキが……今渡りました! 先程第2中継所では1分あった差ですが、手元の時計では21秒! この3キロの間に、冴島はおよそ40秒トップとの差を縮めたことになります!』
「怜名、ファイトー!! はあっ、はあっ、はあっ」
息こそあがっているが、倒れ込むことなく笑顔のまま怜名を見送ると、春奈は大きく息を吸い込んだ。中継所で見守る観客から、万雷の拍手が沸き起こる。突然の拍手に少し驚いたようだったが、春奈は頭を下げるとにこやかに微笑んだ。
「春奈先輩!」
恵理子が、ドリンクとダウンを持って駆け寄って来る。
「先輩、ナイスランでした! 去年、中継所に来たときは本当に……本当に……春奈先輩が死んじゃうんじゃないかって」
思えば、昨年も中継所で待っていたのは恵理子だった。涙を流す恵理子を抱きとめると、頭を撫でて語りかけた。
「ありがとう……いつも心配してくれて。恵理子ちゃんのおかげで、わたし、少しはキャプテンらしくいられたかな……」
恵理子は顔を覆ったまま大きく頷いたが、なにかに気づいたように顔を上げると、今春奈が来た方向を指差した。
「春奈先輩……お母さんのところに行ってあげてください!」
「えっ、でも……すぐに競技所に戻らないと」
恵理子は、大きく首を横に振った。
「わたしも、荷物持ってすぐ追いかけます。だから、お母さんのところに行ってあげてください」
春奈は一瞬躊躇したようだったが、頷くと恵理子に微笑んだ。
「ごめんね、気を遣ってくれて。終わったら、すぐ競技場に戻ろう!」
そう言って中継所を後にする春奈の後方から、実況が興奮気味に叫ぶのが聞こえる。
『さきほど3区を走った秋田学院・冴島の記録ですが、8分57秒! 8分57秒という、不世出の大記録が誕生しました! これまでの区間記録を30秒近く短縮するという大変な記録です! そして、冴島はなんと7人抜きを達成です! 秋田学院の冴島春奈、高校最後のレースで7人抜きで区間新を達成するという、とてつもない記録を打ち立てています!』
「……よくやった!」
ひかるは、こみ上げる感情をこらえるようにぐっと拳を握りしめると、再び競技場のビジョンを見上げた。怜名は序盤から一気にペースを挙げ、前をゆく仙台共和大高と姫路女学館に追いついていた。
「筑紫野と、ちょっと差が詰まってませんか?」
舞里奈の言葉が聞こえたかのように、カメラは前方のランナーに視点を変える。先程の中継所の時点と比べ、前をゆく筑紫野学院はおろか、先頭の桜島女子の姿も徐々に近づいているように感じられた。
「これ……是永さんのペースが上がってないね?」
ひかるが尋ねると、舞里奈は深々と頷いた。
「是永さんは、先頭ではあまりペースを作れないんじゃないかと思います。怜名先輩がうまくほかの学校と詰めてくれれば、順位は上がらなくても桜島との差はかなり縮まるんじゃないでしょうか……」
舞里奈のことばにひかるは頷いたが、すぐに首を傾げた。
「あとは後ろがどうなるかだけどね……なにせ、大砲がすぐ後ろに控えてる。このまま桜島からウチの5人ぐらいが差を開けなかったら、最後の最後で留学生が捲くって来る、ってこともあるかもね」
そう言いながら、ひかるは携帯電話のメモリを繰った。
「怜名先輩、超いいペースです! 前の桜島と5秒ぐらい詰まってます! ファイトっ!」
1キロ地点で見守る由理の言葉に笑顔で頷くと、怜名は周囲を見回した。昨年は伊織と先頭を並走していたが、今年はその伊織を3人――前をゆく筑紫野学院のランナーを吸収して、4人で追う展開となっている。周囲の3人は表情を変えず淡々と走っている。
(ここで仕掛けるかどうか……今のところは……)
怜名は、迷っていた。先程の中継所の時点では、後方とはある程度の差があった。コースが下りに変わり、後方のランナーは確認できない。
(でも、どこかで仕掛けないと……秋穂が)
昨年とは、明らかに違う展開に怜名は戸惑っていた。昨年と異なり、2区だけではなく最終の5区に留学生ランナーを配置している学校がある。仮に先頭を奪うことができても、後方と差を付けられなければ5区で後方から逆転される可能性があるからだ。
(ここで遅れるわけには……!)
「春奈!」
息せき切って、琴美が駆け寄ってくる。笑顔で、と心に決め、ずっと張り詰めていた気持ちがあふれるのが分かった。琴美に駆け寄ると自然と涙が溢れる。
「お母さん、お母さん、お母さん……!」
「よくやったね、アンタ……!」
周囲の観客から、思わず拍手が起こり思わず顔を上げた。だが、涙は止まることなく、春奈は泣き顔のままペコペコと頭を下げた。
「お母さんと、えぐっ、お父さんが見てくれてるから最後まで頑張ろうと、思って……それに、おじいちゃんに、おばちゃんも来てて、ひっく」
泣きながらも必死に言葉を紡ごうとする春奈の姿に、周囲の観客も思わずもらい泣きするのが見える。琴美は、春奈の頭を撫でながらやはり涙をこぼしてつぶやいた。
「アンタは、本当に偉かったよ……最後って決めて、よく走りきったね。よく頑張った……」
琴美は顔を上げると、近づいてくる恵理子を見つけて春奈に声をかけた。
「ほら、後輩の子も来たから競技場に早く行っておいで。おじいちゃんとおばさんも先に競技場に向かってるはずだから……わたしも後から行くよ」
「うん……!」
怜名の脳裏には、3年前に春奈と交わした電話でのやりとりがよぎっていた。
「怜名ちゃん、お母さんとも相談して、秋田学院に行くの決めたよ!」
「本当に!?」
怜名は、手にしていた秋田学院のパンフレットを置いて思わず立ち上がった。琴美との相談を終えていないという春奈が本当に秋田学院へ進学するのを決めるのか、実は春奈以上にやきもきして待っていたのは怜名だったのだ。
「良かったあ、春奈ちゃんが一緒に秋田学院に来るなら、すっごい心強いよ」
安堵で胸をなでおろすと、春奈が口を開いた。
「ねえ、怜名ちゃん?」
「どうしたの?」
「わたしたち、秋田学院に行って、卒業するまでに優勝したいよね」
「えっ?」
思いもよらない言葉に、思わず怜名は驚きの声を挙げた。確かに、秋田学院は強化を進めているとはいえ、直前の都大路ではじめて12位でゴールした学校だ。優勝を口にするにはまだ早いように思えたが、春奈は首を横に振った。
「せっかくやるんだったら、一番を目指さないとだよ。そのために、本城先生も頑張ってスカウトをやってるって言ってたし……怜名ちゃんと一緒だったら、わたしも頑張れる気がする。だから、卒業するまでに一緒に優勝しようよ、怜名ちゃん」
「優勝かぁ……」
(優勝……かぁ……春奈!)
3年前のやり取りを反芻すると、怜名は目をきっと見開いた。並走する姫路女学館、仙台共和大高の前に出ると、少し前を走る筑紫野学院の横に出る。
『ここで秋田学院の牧野が少し前に出ます! 2位集団、筑紫野学院の松田と並んで秋田学院の牧野が集団を引っ張ります。前をゆく桜島女子・是永との差は14秒に縮まっています! 初優勝を狙う秋田学院、3区冴島の7人抜きの快走があり現在2位! 4区の牧野も快走を見せています!』
怜名は、沿道をちらりとみやった。中間点には明日香の姿がある。明日香は、手元の資料を丸めると、メガホンのように口元にやって大声で叫んだ。
「怜名っち、東広島と20秒! こっから粘ろう粘ろう!」
隣を走る筑紫野学院の松田は、明日香の声に一瞬不思議な表情を浮かべたが、怜名は大きく頷くとさらにスピードをあげてゆく。
(秋穂に……いいところでタスキを渡さないと!)
「了解です。絶対に勝ちます」
決意を秘めた秋穂の口調に、ひかるは笑顔で大きく頷いた。
「怜名は、いい感じで桜島と詰めてる。ただ、東広島とは20秒だ。おそらく、そう遅くないうちに先頭まで来ると思う。カリウキの様子はどうかな?」
秋穂は、横目で東広島のアグネスの姿を見た。
「ウォーミングアップだけじゃよくわからないですけど、余裕はありそですね。桜島の大迫さんは怖いですけど、おそらくアグネスとの争いになるような気がするので……しっかり、様子をみます」
ひかるは頷くと、ビジョンを見つめた。
「了解。せっかく春奈が詰めてくれた差だ、みんなでトップまで持って行こう。快走を信じてるよ」
「わかりました!」
残り1キロに差し掛かり、待ち受ける瞳が叫ぶのが聞こえる。
「先頭まで12秒! さっきの中間点で、東広島は3秒空いたよ。このペースで行こう!」
笑顔で頷くと、再び前を見る。瞳の言葉通り、前をゆく伊織の背中は近づいたように思えた。しかし、すぐ横を走るオレンジのユニフォームが前へ出る。
『さぁ、2位集団ここで変動があります! 仙台共和大高の2年生・佐藤あゆみがここでスパート! 前をゆく桜島女子の是永に迫ります。そして、それを秋田学院の牧野怜名も懸命に追いかけます! 今年の都大路、最終5区は大混戦の予感です! 今、先頭は桜島女子、仙台共和大高、秋田学院の3校が一団となり残り800メートルを切ります!』
<To be continued.>




