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#142 努力・全力・全速力

 第2中継所に、鮮やかな上下ブルーのユニフォームが駆け込んでくる。その後も、ランナーが一人ひとり、タスキを外して次のランナーへリレーしようと手を伸ばす。春奈は、目を細めて前方を見つめた。わずかに見えた臙脂のユニフォーム――沙佳の姿をその視界に認めると、声を張り上げて両腕を交互に振る。


「さーやちゃん、ラスト―!!」


 沙佳は、一度は抜いた大泉女子のシルビアに抜き返されたのか、先に紺とピンクのユニフォームの姿が大きくなる。しかし、沙佳の表情を見て春奈は笑顔を浮かべた。


『さぁ、12位で秋田学院がやって来ます。2区の荒畑は――笑顔です! 待ち受ける冴島の声に応えるように、秋田学院の荒畑沙佳、笑顔でこの中継所に飛び込んできます!』


 最後の力を振り絞るように、腕の振りが強くなる。タスキをピンと張ると、手を伸ばして待つ春奈に向かって飛び込んでくるようだ。


「冴島先輩! よろしくお願いします!」


「オーケー! さーやちゃん、ありがとう!!」


 沙佳の手から、すっとタスキが離れる。春奈が右手をスッと上げたかと思うと、その身体は弾むようにコースへと駆け出してゆく。


『さぁ、秋田学院は3区に冴島春奈が駆け出します! 1年生は1区区間記録、2年生は万全な体調ではないながらも2区区間賞を飾った冴島ですが、果たしてこの最後の都大路、有終の美を飾ることはできるでしょうか? 今、折り返し地点に向けて一気に飛び出して行きます!』




「……春奈!」


 競技場で見守るひかるは、思わず祈るように手を組んだ。すると、実況の驚く声が場内に響き渡る。


『冴島、スタートからかなりのハイペースです! 今、折り返し地点を……曲がりました! そして、前をゆく11位の大泉女子・2年生の浅沼志保(あさぬましほ)をあっという間に抜き去ります!』


 見守る沿道も、競技場も声援が徐々に大きくなる。その高鳴りと裏腹に、ひかるの心臓はドクドクと音を立てているのがわかる。


(春奈……無理だけはするんじゃない……!)


 中継所で待っていた沙佳に右手を挙げると、春奈はさらに両手、両足に力を込める。なぜだが、笑顔が浮かぶのが自分でもわかった。


『冴島は笑顔です! 秋田学院の冴島、笑顔を浮かべてさらにスピードを上げていきます。タスキリレーの段階で、先頭の桜島女子とはちょうど1分の差がありました。さぁ、ここから冴島、どこまで順位を上げていくのでしょうか? 大変楽しみな展開となりました!』


 ひかると同様に、実況の弾む声と裏腹に、寮では留守番のエミーと部員たちがテレビを無言で見守っている。エミーもまた緊張で顔をこわばらせ、胸に両手を当ててじっと画面に映る春奈を見つめていた。


(春奈ちゃん……!!)




 当の春奈は、弾むような足取りにさらに表情が明るくなる。


(こんなに軽く走れるなんて……嬉しい!)


 沙佳が先行を許した酒田国際、日新学院に追いつくと、並ぶことをせずにすぐに横から追い抜いてゆく。その脳裏には、帰国後陸上部に入り、はじめて大会に出場したあの時の光景が蘇っていた。


「冴島さん、どうだい、陸上は楽しいかい?」


 中学の顧問だった西端(にしはた)に問われ、春奈はキョトンとした表情で見つめ返した。しかし、レースの時に3年生のランナーを次々と追い抜いていった時のことを思い出すと、笑みがこぼれる。


「はい! ……他の人をどんどん追い抜いていくの、楽しいです」


「良かった。せっかく入ってもらった部活が辛いんじゃ、先生も申し訳ないからね。その気持を大切にするんだよ。きみは、きっと将来すごい選手になる……私はそんな気がするんだよ」


(西端先生、ごめんなさい。高校で競技をやめることにしちゃって……でも、先生のお陰で、みんなと出会えた……楽しい思い出が出来た)


 はじめて中学のユニフォームを身に纏った時に覚えた違和感はもうない。すっかり馴染んだ臙脂のユニフォームの胸元に手をやると、さらにスピードを上げてゆく。


『秋田学院の冴島、まだわずか500メートルですがこの間に3人を抜いて9位に浮上! さらに、前には岡山の楊明館が迫っていますが……あっと?』


 実況が声を上げると、カメラは先頭に切り替わる。


『先程まで桜島女子を追っていた3位の浪華女子ですが、ここで転倒がありました! 3年生の吉田舞が転倒し、今立ち上がりましたが……筑紫野学院に先行されました。やや足を引きずっているでしょうか? ちょっと心配な状況です』


 舞はすぐ立ち上がったが、後続の2校に相次いで先行を許す。競技場がどよめく中、ひかるはサングラスを外してビジョンを凝視した。


(春奈……春奈は……今どこだ?)


 中継車は先頭についており、よく目を凝らさなければ後続の状況が見て取れない。歯がゆそうに表情を歪めると、携帯電話に着信がある。


「もしもし……あかり?」


 電話は、あかりからだった。あかりは、1キロ地点の伝令に控えている真理のところへ、一美とともにやってきたという。


「もうすぐ来るから、状況を伝えるよ。春奈に何か伝言はある?」


「……うーんっ……※$@★」


 冷静になればなろうとするほど言葉が出なくなるものと、電話口でひかるは歯がゆそうに頬を掻いた。すると、あかりが苦笑いする。


「落ち着きなよ、姉さん。それでなんとなくわかった。『ベストを尽くせ』、でいいのかな?」


「……それでお願い」


 電話を切ると、あかりは思わず苦笑いを浮かべた。


「ひかるさん、何て言ってたんですか?」


「泣いてた」


「泣いてた!?」


 一美が驚いて目をむく。あかりは静かにうなずくと、真理に声を掛けた。


「そろそろ、春奈見えるかな?」


「まだです! ……先頭の桜島が見えてきたんで、中継所から詰めていれば……そろそろ来るかなと思うんですが」




 琴美の視線の先には、車椅子に座った老齢の男性と、それを押す女性の姿がある。琴美は頭を下げると、男性に声を掛けた。


「お義父さん、身体悪いのにわざわざ京都まで来ていただいて」


「ええんよ。孫の晴れ舞台を1回ぐらいちゃんと見な、まだ死ねんわ、ハッハッハッ」

 男性は、嗄れた声で笑った。琴美は、神戸の老人ホームで暮らす春奈の祖父・冴島昭二(さえじましょうじ)と、春奈の伯母――浩太郎の姉である(みどり)を京都に呼んでいたのだった。昭二が、琴美に問う。


「ほいで、春奈ちゃんはいつ来るんや?」


 急かす昭二に、琴美は笑いかけると道の向こうを指差した。


「もうそろそろ1キロになると言っていたので、あと3分ちょっとで来ると思います。だけど、本当に無事に走ってこれるか、それだけが心配で」


 昭二は、眼鏡をずり上げると琴美の指差した方を見つめた。


 


(……行ける!)


  天候も味方したのか、春奈は自信を感じていた。しばらく拭えなかった、走ることへの恐怖もよぎることはない。道はゆるやかに昇っていくが、前を走るランナーの背中を捉えられるという確信にも似た思いがよぎる。


『先頭は間もなく1キロを迎えますが、秋田学院の冴島、8位の楊明館にも間もなく追いつきます! 楊明館の2年生・塩田に追いついて……抜きます! 冴島、これで4人抜き! 入りの1キロのタイムが気になるところですが、冴島、非常に快調なペースで飛ばしていきます。これぞ高校陸上界、いや、日本陸上界のエースと期待される冴島の本領でしょう!』


 春奈を第3中継所で待ち受ける怜名は、実況の盛り上がりに寂しげな笑顔を浮かべた。


「何にも知らないくせに……盛り上がっちゃって」


 春奈の競技引退は、高校駅伝の閉幕後に公表されることになっている。怜名は、恵理子から携帯電話を受け取ると、すぐに発信ボタンを押した。


「……どうしたん? 緊張しとるんか?」


 秋穂は、ワンコールもないうちに電話に出た。怜名は、画面の春奈を見上げたまま秋穂に応える。


「寂しくなっちゃった。このまま、タスキリレーの時間が来なければいいのにって」


「ええっ?」


 秋穂が驚くと、怜名は青空を見上げて続ける。


「冗談だよ。冗談だけどね……これで、高校で走るのも最後だって思ったら、なんか寂しいなって」


 怜名の言葉に、秋穂はハッと驚くような表情を浮かべた。


「最後かぁ……本当に、ついこの前、寮に入ったばっかりだってずっと思っとったのになぁ」


 モニターを見上げると、画面の中の春奈は表情ひとつ変えず、着実に前へ進んでゆくのが見える。


「秋穂?」


「んっ?」


 秋穂が訊くと、怜名は一瞬の間を置いて口を開いた。


「優勝するよね?」


 その問いに、一瞬の間もなく応える。


「当たり前じゃろ? 春奈は、優勝したいからあんなに頑張っとんのに、ウチらが優勝狙わんかったら……春奈に申し訳ない」


そう秋穂が言った瞬間に、実況が叫ぶのが聞こえる。




『8位の秋田学院冴島が1キロを……超えます! タイムは……』


 実況がそう叫ぶのと同時に、1キロ地点に待ち構えていた真理が叫ぶ。


「さえじ、2分59!! 超いいペースだよ!! 2分59!! ファイト!」


 春奈は、真理に微笑みかけるようにして右手を上げた。すると、その後ろで待っていたあかりと一美が、並走するように走り始める。


「春奈、行ける所まで行こう! いい走りしてるよ!」


「春奈、このペースなら5番も全然行けるよ! ひとつでも前に行こう! ナイスガッツだよ!」


(あかりさんに……一美さん! はいっ!!)


 確かにふたりの声が聞こえると、春奈はふたりに向けてサムズアップで応えた。あかりと一美は大きく手を叩くと、春奈の背中を見送った。


「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ」


「一美、全然衰えてないね! まだまだ行けそうじゃない?」


「いやぁ、でもさすがに春奈は速すぎましたよ、はあっ」


 一美は、そう言うと春奈が去っていった方向を眺めた。


「あと2キロ、このままのペースで行ってくれたら……本当に、もしかするともしかするかもしれませんね。あかりさん」


 あかりも、息を整えると大きく頷いた。


「春奈がこのまま行ければ、怜名は4区の経験者だし、5区には秋穂がいる。本当に……今年は行けるかもしれない」




『冴島、1キロの通過が2分59という驚異的なスピードです! 表情も全く変化がありません! むしろ、冴島は満面の笑みを浮かべて楽しそうに走っています! すでにここまで4人を抜いた冴島です。残り2キロ、一体どこまで行くのでしょうか?』



<To be continued.> 

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