#141 目論見通り
沙佳とともに第1中継所で待つ由佳は、真輝がやってくるであろう方向を見つめてつぶやいた。
「コハル、粘れるかな……」
沙佳は、無言のままモニターを見つめた。小柄な真輝の姿が、さらに小さくなってゆく。思わず、ぎりぎりと歯を食いしばる。そのままの表情で歩き出すと、ふとビルの窓ガラスに険しい自らの表情が写り込んだ。
(あっ!)
自分の顔が予想以上に厳しいことに気づくと、競技場を発つ時に春奈と交わした会話が脳裏をよぎる。
(さーやちゃん、どんなに厳しくても笑顔で行こう。スマイルだよ)
その言葉を反芻すると、両手で頬を二度三度と叩く。パチパチという音に、思わず由佳が心配して駆け寄ってくる。
「ちょ、ちょっとさーや、どうしたの!?」
「いや、冴島先輩と約束したのを思い出してさ……へへへ」
顔には痛々しいほどの赤い痕が残り、沙佳は涙目で由佳に答える。だが、その表情はさきほどからいくらか柔らかさを取り戻していた。沙佳は、再びモニターを見上げた。
「さて……」
『先頭は残り500メートルほどとなりました。相変わらず先頭は筑紫野学院、すぐ後ろに浪華女子がつけていますが……佐野さん、そのすぐ後を行く姫路女学館と山川学園の更に後方――』
解説席の史織は、目を凝らすとつぶやいた。
『桜庭さんが追い上げていますね?』
鮮やかなブルーのユニフォームが、少しずつ大きくなる。まだ距離はあるものの、さくらは先頭との差をじりじりと詰めてゆく。
『この後、桜島女子の2区には1年生の留学生キプラガトが待ち構えています。並走する仙台共和大高もワンジラが控えていますので、この2校が一気に先頭を奪う可能性すらあります! さあ、先頭の筑紫野学院が間もなく中継所に飛び込んでこようかという場面ですが、女王・桜島女子がじりじり迫ってきます!』
史織は、実況の声を聞きながら後方に目を凝らした。今のところ、史織の眼中に臙脂のユニフォームは飛び込んでこない。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
延々と続く長い上り坂に、両足が徐々に重く感じるのがわかる。後方からやってきた日新学院、成田商のランナーに抜かされると、真輝の表情はさらに険しくなる。
(……早く……沙佳先輩にタスキを!)
逸る気持ちとは裏腹に、中継所までの距離が遠く感じる。すでに、中継所には2区を走る選手たちが控え、リレーが始まっているのが見え始めた。思わず、鼻の奥がツン、とする。
「……ハル! ……コハル!」
リレーゾーンで待つ、ひときわ背の高い人影が大きく手を振る。こちらに向かって呼びかけるその人影が、沙佳であるとわかるのにそう時間を要さなかった。すると、沙佳がこちらを向いて何かゼスチャーをしているのがわかる。
「コハル! スマイル! スマイル! あと少し!」
沙佳はそう言うと、自分の口角を指で引っ張り上げるようにしてニヤリと笑ってみせる。真輝はタスキを手に取ると、涙目ながらなんとか笑顔を作って沙佳に応えた。
「沙佳先輩……ごめんなさい!」
真輝が叫ぶと沙佳は首を横に振り、大きく手招きをするように迎え入れる。
『秋田学院石橋、最後はやや苦しい走りになったか! 待ち構える2区の2年生・荒畑沙佳が笑顔で迎え入れます! 今、秋田学院が14位でタスキリレー!』
沙佳は一瞬真輝の方を振り向くと、タスキを高く掲げて叫んだ。
「ありがとう!」
真輝は沙佳の予想もしない言葉に驚いたのか、一瞬固まっていたが、すぐに去りゆくその背中に向けて大きな声で叫んだ。
「先輩、ありがとうございます! ファイトー!!」
競技場で控えるひかるは、祈るように両手を組んでビジョンを見上げている。先頭からは離されてはいるものの、背の高い沙佳は直線に入ると後方に映り込んでいるのがわかる。
「さーや、どうでしょうね……」
心配そうに見守る舞里奈の方を向かず、ひかるはモニターを見つめたまま応える。
「沙佳が作戦通りに粘ってくれるかだね。おそらく、この後うしろからはごぼう抜きで彼女が来る。そのペースにうまく乗ってくれるか……」
そうひかるが言った瞬間、実況が叫ぶ。
『2区は留学生も多くエントリーされていますが、19位でタスキリレーした山形の酒田国際は、この2区に留学生エースのカマシを置いています! カマシがさっそく2校をかわし、さらに前を行く山口・下関学園と秋田学院をも捉えようとしています!』
「シラが来た……さーやちゃん!」
中継所でモニターを見つめる春奈も、シラの姿を凝視する。鮮やかなブルーとイエローのユニフォームが次第に大きくなり、下関学園を捉えると一気に抜き去った。
『さぁ、カマシが下関学園を抜いてこれで3人抜き! すぐ前には秋田学院の荒畑がいますが、その荒畑に並んで……』
実況の声が一段と大きくなる。画面の中のシラは、まるで道路を跳ねるかのように軽快なリズムで沙佳を追い越していこうとする。すると、シラが視界に入った瞬間、長身の沙佳が押し出されるようにぐっとペースがあがる。
『秋田学院の荒畑がカマシについています! 荒畑は離れません! 後方から猛スピードで飛ばすカマシの背中にピッタリとついて、さらに前を行く鹿島女子、熊本横手を追って行きます』
シラをピッタリとマークする沙佳に、競技場からも歓声があがる。ひかるは、その様子を見つめながら思わずニヤリとほくそ笑んだ。
「沙佳、ナイス。目論見通りだね」
「ひかるさん、目論見通りって……?」
不思議そうに尋ねるみるほに、ひかるは目を細めてビジョンを指差す。
「沙佳は、単独走だと正直自分ではペースを作れない。でも、この前の選考レースでもそうだったけど、集団走なら格上相手でも遅れずについていけるんだ」
「なるほど!」
ビジョンに映る沙佳は、シラに遅れることなくピッタリとついて、前の2校との差を詰めてゆく。
『この荒畑ですが、プロゴルファーの父・正一さんの影響で小学生まではゴルフを習っていましたが、中学は青森に越境留学し山川学園で3年間を過ごしました。梁川監督曰く、非常にストイックで自分にも周囲にも厳しい選手だが、この1年で優しさ、気配りといった人間的な深みが増して、チームを引っ張っていくことのできる選手に成長したと、荒畑を非常に高く評価しています――』
実況の話を受けるかのように、ひかるが続ける。
「去年は、本当にプライドが高いだけの子だったけどね。春奈や秋穂、周りの子たちの話を聞くようになって、本当に成長したと思うよ。それに、こういうシビアな状況でも競り負けないスタミナと根性が身についたよね」
当の沙佳は、シラの爆発的とも言えるスピードに戸惑いながらその背中を追っていた。
(この人、とんでもなく速い……!)
春奈と秋穂をも下したことのあるシラのスピードは脅威だと、ふたりから聞かされていた。しかし、追随することができればそれは大きな武器になる。事実、先程まで遠くにいた鹿島女子の背中はもうすぐそこまで近づいていた。
『カマシと荒畑が鹿島女子、そして熊本横手を捉えます! これでカマシは6人抜き。さぁ、カマシがごぼう抜きの記録をどこまで伸ばすか。そして、秋田学院の荒畑はどこまでついていけるかにも注目しましょう!』
ウォーミングアップを終えた春奈の電話が鳴る。琴美からの電話だとわかると、春奈は携帯を開いた。
「……あ、お母さん?」
琴美の声を聞き、春奈の表情がほぐれる。
「いよいよだね……お母さん、残り500メートルぐらいのところで応援するから、全力で走っておいで。アンタの勇姿を楽しみにしてるよ。でも」
「でも?」
「どうしても苦しかったら、無理をしたらいけないよ」
琴美は、春奈の体調を慮った。しかし、春奈は横に首を振った。
「ううん、お母さん。今日だけは、痛くても全力で走りたい……じゃないと、走るの辞めて、ずっと後悔すると思う」
「春奈……アンタ」
「大丈夫。お父さんにも、元気になったよって言いたいし」
通話しながら、春奈は腰に縫い付けたお守りをさすると空を見上げた。過去2年、天候に恵まれなかった京都の空は、一点の曇りもなく晴れ渡っている。すると、琴美が口を開いた。
「オッケー、わかった。頑張っておいで。お母さん、これから大事な人を迎えに行ってくるから、沿道で待ってるよ」
「?? 大事な人?」
春奈が訊くと、琴美ははぐらかして電話を切った。琴美が顔を上げると、それに気づいた二人連れがやってくる。琴美と同年代か、少し年上と思しき女性が琴美に声を掛けた。
「あぁ、琴美さん、ここにおったん」
「すみません、わざわざ遠くから来ていただいて」
実況が、興奮気味に叫ぶ。
『2区、ここで首位交代です! 桜島女子のキプラガトが、先頭の筑紫野学院に並んで……今抜きました! トップは桜島女子! そして、筑紫野学院のすぐ後ろには浪華女子、姫路女学館、仙台共和大高と続いています! 留学生を擁するチームはここ2区かアンカー区間の5区に配置するケースが多く見られますが、早速留学生たちがレースをかき回しています!』
「すごい展開だね……」
マサヨさんが、感心したようにため息をもらす。ひかるは、その横でビジョンを指差した。
「1区で筑紫野と浪華が飛び出したのが予想外でしたけど、2区のこの展開は想定内といか、どのチームもこういうシナリオを練ってますからね。それより、カマシと沙佳がどうなったのか――」
そうひかるが言いかけると、カメラが切り替わった。
『酒田国際のカマシが、9人抜きで10位に上がります! さらに前方には楊明館、日新学院がいますが……ここまでカマシに追走していた秋田学院荒畑は少し疲れたか! カマシとの距離が少しずつ開いていきます。しかし、荒畑もここまで4人を抜いています。残り1.5キロを過ぎ、荒畑どこまで粘れ……』
実況が言いかけたその時、沿道から大きな声が響いた。
「沙佳ーー!! 行けーー!! お前ならやれる! もっと行け! 行けーー! 沙佳ーー!!」
(お父ちゃん!?)
沙佳はちらりと歩道を見ると、ギョッとしたような表情を浮かべた。
『沿道には先程もご紹介しました荒畑のお父さん、プロゴルファーの荒畑正一さんたちご家族が声援を送っています! 正一さん、この寒空の中ポロシャツ1枚で応援をしていますが……佐野さん、荒畑は少々苦笑い、といった様子ですね……』
史織も思わず苦笑いしながら、顔を真っ赤にしてそむけた沙佳を見つめる。
『まぁわたしも以前家族が応援に来たことがありますが、嬉しい半分恥ずかしい半分といったところではないでしょうか……それにしても荒畑さん、ここまでいいペースで走れていますね』
競技場のひかるは、顎に手をあてて沙佳の様子をじっと見ている。
(さすがにカマシのペースにずっと乗っかるのは厳しいか……5区で秋穂がそれなりに前を追えるとしても、行けて30秒――)
手元の携帯電話を開くと、発信履歴の”冴島春奈”をじっと見つめてため息をついた。
(決して万全でない春奈に重責を追わせるのは避けたかったが……この展開で、春奈がどこまで前に行けるのか……)
中継所の春奈は、ガウンを脱ぐと英玲奈からアームカバーを受け取った。英玲奈は心配そうに見守っていたが、不意に春奈に声を掛けた。
「うん? どうしたの?」
「先輩……この1年、先輩と一緒に過ごせて本当に良かったです。最後のレース、楽しみにしてます」
「ははは、まだ卒業じゃないし早すぎるよ、英玲奈ちゃん」
英玲奈は、感極まったのか急に下を向いて押し黙ってしまった。春奈は英玲奈の肩をポンポンと叩くと、その口角に指を当てて無理くりに笑顔を作る。
「んがっ、へぇんぱい、いきなひなにをっ」
「英玲奈ちゃん、泣いてちゃダメだよ。笑顔笑顔」
そう語る春奈は、笑みをたたえている。英玲奈の涙を拭くと、握手を求めた。
「あと少しでさーやちゃんが来るから、さーやちゃんのことよろしくね。根拠はないけど……今日は、いけそうな気がするんだ」
そう言うと、しゃがんで靴紐をすぐに結び直し、英玲奈に手を振った。
「じゃあ、行ってくるね!」
「先輩、行ってらっしゃい! お気をつけて!」
リレーゾーンに春奈が現れると、中継が切り替わる。
『第2中継所には、いよいよ秋田学院のエース冴島春奈が現れました! 体調が不安視されていましたが、当日のエントリー変更により今回は3区を走ります。現在、秋田学院は11位前後を走行していますが、3区冴島でどこまで順位を伸ばすことができるでしょうか?』
<To be continued.>




