#140 笑顔でいよう
『冬の京都に、今年も全国47都道府県の代表校が集います、全国高校駅伝。女子のスタートまであと15分を切って参りました。すでに、この西京極総合運動公園陸上競技場には1区を走るランナーたちがウォーミングアップを行う姿が見えます――』
競技場内に、実況の声が響き始める。テレビでの中継がスタートし、スタートを待つ選手たちの表情はやや厳しいようにも見えた。
『本日の解説は、元横浜三葉重工陸上部で、現在はプロランナーとして活躍されております佐野史織さんです。佐野さん、スタートを前に各選手緊張の面持ちのようですが、ひとり満面の笑みを浮かべている選手がいるようですね?』
アナウンサーに促され、実況席の史織はモニターを覗き込む。そのユニフォーム姿を認めると、史織は納得、といった様子で大きくうなずいた。
『よろしくお願いします。秋田学院の石橋選手ですね! 石橋選手、先輩の冴島春奈選手をとても尊敬していて、フォームから格好までそっくりに似せていることから、チーム内では小さな春奈、を略してコハル、と呼ばれているそうですよ』
プロランナーとして講演やテレビ出演もこなす史織は、解説としての弁舌も鮮やかだ。視線の先にいる真輝は緊張しているものの、傍で見守るあおばの問いかけににこやかに答えている。
「お願い……ですか?」
マイクロバスで中継所で向かう選手たちを見送ろうとしていた真輝に、春奈が耳打ちする。不思議そうに見つめる真輝に、春奈は向き直ってうなずいた。
「うん。……今日の試合、どんなに苦しくてもみんな笑顔でリレーしよう」
「笑顔で……ですか? わたし、そんな余裕あるか……不安です」
春奈は、そう不安そうな顔でつぶやく真輝の肩に手を置いた。
「そうだよね、わたしも……不安はすごいいっぱいある。でもね、結果がどうであってもみんなでベストを尽くして走るんだから、今日はみんなで笑顔でリレーしたいんだ」
「冴島先輩……」
なおも不安げな真輝に、春奈はニッコリと笑いかけた。
「大丈夫。真輝ちゃんならきっといいレースできるよ。……約束しよう? |Keep Smiling《笑顔でいよう》!」
春奈が差し出した小指を絡めると、真輝の顔にもようやく笑顔が戻った。
「はい! ……わたし、頑張って沙佳先輩にいい位置でつなげるようにがんばります」
『佐野さん、女子の優勝争いですが、どう見ていらっしゃいますか?』
アナウンサーの問いに、史織は手元の資料に目を通しながら口を開く。
『昨年優勝の桜島女子と、エースのアグネス・カリウキさんのいる東広島の一騎打ちと言われていますが、1年生の久遠選手が加入した浪華女子もここに加わるのではないかなと思います。仙台共和大高もいますし、あとは――』
史織は、視線の先の真輝を凝視した。
『昨年2位の秋田学院は冴島選手の出遅れが心配されていますが、就任2年目の梁川監督の指導で選手たちが力を付けていますので期待できるんじゃないかと思いますね』
『冴島選手、県予選ではBチームでの出場でした。佐野さんは過去に都道府県対抗駅伝などで冴島選手とも非常に親しいと伺っていますが、大会前にお話はされましたか?』
史織は、晴れ渡る青空を見上げて言った。
『そうですね――』
電話で春奈の進退を聞いた史織は、自宅の一室で大きなため息をついた。なんと言葉をかけるべきか迷い、一瞬言葉に詰まると申し訳なさそうに春奈が答えた。
「ごめんなさい……続けることができなくて」
「……ううん」
彗星のように陸上界に現れてから、節目節目で接する機会があった。公立中学に通う普通の中学生は、あっという間にオリンピックの期待の星とも呼ばれるようになった。
「よく頑張ったね……」
史織は、そう続けるのが精一杯だった。春奈の話を涙をこぼしながら聞いていたが、都大路へのエントリーが決まったと聞くと、史織はいつもの陽気な様子に戻って答えた。
「じゃあ、最後の試合は間近で見れるってことね。当日、解説で呼ばれることになったんだ。集大成のレース、楽しみにしてるから頑張ってね」
電話口から、力強い口調で決意が聞こえる。
「わかりました。最後……絶対に優勝しますから」
『スタートまであと1分を切りました。先程佐野さんのお話にもありました秋田学院ですが、エースの冴島はなんとか間に合いました! 最短区間ですが、エントリー変更で3区を走ります。最長の1区は1年生の石橋、最終5区にはダブルエースと言っても過言ではないでしょう、冴島と同じく3年生の高島がエントリーされています』
スタンドに陣取るひかるやみるほたちマネージャー陣、そしてマサヨさんは、笑顔を崩さずに準備を続ける真輝をじっと見つめている。
「ひかる、あの子が春奈そっくりっていうアレかい? 余裕そうだね」
春奈そっくりのアレ、というざっくりとした問いに苦笑いを浮かべつつ、ひかるが応える。
「はい、石橋真輝――最初は春奈にベッタリ……いや、今もベッタリですけど、春奈に限らず先輩たちのいいところをぐんぐん吸収して、今では秋穂の次に安定感がありますよ」
『20秒前!』
スターターの声に、ひかるたちの視線はスタートラインに注がれる。
「じゃなかったら、1区には抜擢できなかったですから」
『47校、色鮮やかなユニフォームがスタートラインに立ち並びます。駅伝日本一の座をかけて、全国から選ばれしアスリーテスたちが鎬を削ります。果たして優勝は3連覇を狙う桜島女子か、はたまた桜島女子を阻む新たな優勝校が現れるのか。今、号砲の時を迎えます!』
競技場に、一瞬の静寂が訪れる。
『On your mark』
――パァン!
「あっ!!」
観客席から、一斉にどよめきが起こる。
『号砲と同時に選手が飛び出しています! 福岡・筑紫野学院の3年生、内山花が抜け出しました! その内山を、スーパールーキーとの呼び声高い浪華女子の久遠レイが追います。例年ですと競技場内は一団となって進むのが通例ですが、今年はなんとなんと、筑紫野学院の内山を先頭に縦に長い列となって西京極総合競技場を進んでいきます!』
「真輝は……!?」
ひかるが、慌てて真輝の姿を探す。真輝は大きく伸びた集団の真ん中を、予め設定したペースで進んでいる。先頭を走る花とレイは、ペースを緩めることなく競技場を速いペースのまま飛び出していった。
(速い!)
真輝は、先頭のハイペースを察して顔を歪めた。しかし、出だしかつ最長区間の1区で無理をして失速するわけにはいかない。ふと、すぐ横を見る。そこには、同じようにこちらを凝視する青いユニフォームの姿があった。
「へえー、あたが噂んコハルちゃんなんね。春奈にそっくりやなあ」
(……桜庭さくらさん!)
真輝は軽く会釈をすると、すぐに前を向いた。先頭がどれほど飛ばそうが、出走するメンバーの平均タイムだけなら桜島女子が図抜けている。さくらの後には真輝とほぼ同等のタイムをもつメンバーが控え、最終5区には新たな留学生であるエリザベス・キプラガトが控えている。真輝は、昨晩ひかると舞里奈、そして春奈と行ったシミュレーションを思い出していた。
(コハル、まずはさくらをマークしよう。他はともかく、桜島から30秒差以上離れたら優勝は厳しい。前半3キロはとにかくさくらにつこう)
真輝は、無言でうなずいた。昨年の都大路、最後のトラック直前にスパートを許した桜島女子の怖さはひかるたちが誰よりも痛感していた。
(そろそろ1キロ……らんたん!)
視線を歩道に移す。1キロ地点のすぐ後ろには、背の高い臙脂のジャージが待ち受けている。ストップウォッチから視線を外し、待ち構えていた藍が叫ぶ。
「コハル、1キロ3分15! 悪くないよ! ファイトっ!」
真輝は、無言で左手を掲げると再び前を見た。前方を見ると、先頭を走る花やレイたちの姿はずいぶんと小さくなったように思える。真輝の胸に複雑な思いが去来する。
(このまま先頭のふたりが飛ばしたら……でも……!)
『先頭の筑紫野学院と浪華女子ですが、1キロを3分10秒で通過しています。解説の佐野さん、このペースどう見ますでしょうか?』
史織は、顎に手を当てて唸った。
『筑紫野学院も浪華も、持ちタイムだけで言えばこの後の区間にはタイムを稼げる選手はいないですからね。そう考えると、先頭の2校よりもこの後の集団にいる仙台共和大、山川学園、大泉女子はこのあとの2区に留学生選手を投入していますから、レースの鍵を握るのはこの3校ではないでしょうか。それに――』
「コハルちゃん、冷静ですね」
舞里奈の言葉に、ひかるは静かに頷いた。
「前のふたりにせよ共和大、山川、大泉にせよ、3区以降はそこまで速い選手がいない。それであれば、桜庭さくらさえ30秒差以内にリレーできれば2、3、4で5秒ずつ詰めて、最後の秋穂がエリザベスを追える」
そこまで言うと、左手に握った携帯電話を開く。
「怖いのは桜島もそうだけど、5区に留学生を残してる東広島だよ。それと――」
「ふう!」
ひとまずウォーミングアップを終えた春奈は、英玲奈とともに中継所のテントにあるモニターの前へとやってきた。臙脂のユニフォームは、先頭を走る2校の後方にチラチラと写り込んでいる。
『まもなく2キロに差し掛かります。五条通を折れて、選手たちは西大路通を北上しますが、ここからじりじりと続く上り坂が勝負どころとなります』
「コハル、今のところはしっかり走ってますね」
英玲奈の言葉にうなずくと、吹き付ける風の寒さに思わずガウンの襟元を引き寄せる。
「さくらがどこで勝負を仕掛けるかだけど、まずはこのままついていけるといいね……」
そこまで言うと、英玲奈が首から提げた携帯電話が鳴る。
「あっ、お疲れ様です。はい、はい、ちょっと待ってください。……春奈先輩」
「?」
真輝がはじめて春奈を目にしたのは、4年前のニュース番組だった。
『日本女子陸上界に、注目の新星が誕生しました。今日行われた女子5,000メートルの記録会で、中学3年生の冴島春奈選手がなんと14分42秒の日本新記録を樹立しました。それでは、レースの模様をご覧ください――』
「あっ、お母さん、この子見て見て! 超かわいい!」
買い物から帰ってきたばかりの母を捕まえると、真輝はテレビにかじりつくように画面を凝視している。その手には、入学したばかりの中学校からもらってきた部活動紹介のプリントが握られている。
「お母さん、わたし陸上部に入る!」
「ええっ、真輝いいの? 昨日まで、テニス部に入るって言ってなかった?」
母の助言も、もはや耳に入らないようだ。目をハートマークにした真輝は、画面に顔を向けたまま思わず叫んだ。
「いいの! わたし、陸上部に入る! 冴島春奈ちゃんみたいになって、わたしも速く走ってみたい!」
『まもなく中間点の3キロを迎えます。画面は現在10番手を走ります、秋田学院の1区・1年生、石橋真輝をご覧いただいています。この石橋ですが、同じチームの先輩・冴島を心から尊敬していて、数多くの学校から誘いがあった中で迷わず秋田学院への進学を決めたというほど冴島に心酔しているそうですね――今、沿道からは地元・神奈川県川崎市からやってきたご両親の声援が送られ、左手を挙げて応えた石橋です』
真輝の脳裏には、あの日テレビで見た春奈の姿がよぎっていた。
(冴島先輩……わたし、秋田学院で冴島先輩と走れたこと、本当に嬉しかったんです。あと、3ヶ月ぐらいしか一緒にはいられませんけど……わたしと沙佳先輩で、できるだけいい位置でタスキを持っていきますから)
そう反芻すると、手足に力がみなぎる。
(優勝しましょうね……冴島先輩!)
その瞬間、すぐ隣を走っていたさくらがスピードを上げる。呼応するように真輝も勢いを増すと、前を走る背中を捉える。
『昨年の優勝校・準優勝校の本領はここからです! 桜島女子のエース・桜庭さくらと、秋田学院の石橋がペースを上げます。今、岡山の楊明館、東京の大泉女子、そして東広島を交わして7位浮上!』
さくらが猛然とペースをあげるのに対し、真輝も懸命に食らいつく。しかしすぐ横を走るさくらの表情を覗き見ると、思わず胸がドキリとする。
(……ニコニコ笑ってる!)
さくらが満面の笑みを浮かべる、すなわち心身ともに絶好調であると、合宿をともにした春奈たちから聞いていた。しかし、実際に横に並ぶさくらを見ると、畏怖にも似た感情が思わずこみ上げる。
(……負けない……、そして、わたしも笑顔で……!)
緊迫した局面でピリピリとしているかと思いきや、電話口のひかるは穏やかな口調で語りかける。
「どう……緊張はしてる?」
「いえ……、楽しみです」
春奈は、落ち着いた様子で答えた。もう10数分の後には沙佳からタスキを受け取って最後のレースに駆け出すというのに、不思議と気分は落ち着いていた。
「どうかな。3キロなら、全力で走れそうかな?」
ひかるの問いに、春奈は頷いた。
「多分――ふわっとした答えになっちゃいますけど、行けます。最後ですから……笑顔で、怜名にタスキを繋ぎたいと思います」
ひかるは、その返答に笑顔を浮かべた。
「良かった。多分、しびれるような状況で沙佳はタスキを持ってくると思うけど、最後に春奈の集大成を見せてもらうよ」
頷いて、春奈は通話を終えた。携帯をガウンのポケットにしまおうとすると、英玲奈が慌てた様子で駆け寄ってくる。
「春奈先輩! 真輝が……離されました」
「えっ?」
さくらが残り2キロを切ったタイミングでさらにスピードを上げると、それまでその背中に追いすがっていた真輝が徐々に遠ざかり始めるのが画面上でもわかる。
『桜庭が前を行く仙台共和大高を捉えます! それと時をほぼ同じくして、ここまで桜庭と並走していた秋田学院の石橋がやや離されました! 桜庭と石橋の差はおよそ5秒ほどに開いています。桜島女子のエース・桜庭さくらが、仙台共和大高をかわしさらに前の姫路女学館、山川学園に迫ろうという勢いです!』
「真輝ちゃん……!」
春奈は、思わずモニターを睨みつけるようにじっと見つめた。真輝の表情からは余裕が消え、口が開き始めている。
(真輝ちゃん、なんとかこらえて……さーやちゃんが待ってるよ……)
第1中継所では、やはり同じように不安そうな表情でモニターを見上げている沙佳の姿がある。
<To be continued.>




