#138 最後の挑戦
「えっ…えっ!?」
怜名は、寮の階下から響き渡る大声に気づいて吹き抜けから階下を見下ろすと、その光景に思わず目を見開いた。まだ学校が開門すらしていない早朝なのに、寮の玄関にやってきた初老の男性が春奈に詰め寄っているのに気づき、慌てて秋穂を呼んだ。
「あ、秋穂、あれ! 春奈が!」
メガネ姿の秋穂は、じっと目を凝らしてその男性を見るとつぶやいた。
「……古瀬先生じゃ」
「えっ!? あ、あのマラソンの人!? なんでここに?」
「いや……用があるから来たんじゃろうけど、なんでまたこんな時間から……」
「冴島くん! まだ時間はある! もう一回考え直した方がいい! 日本陸上界に古瀬ありと言われたボクが言うんだから間違いない! 一度や二度のレースでその結論を出してしまうのはまだ早い! 冴島くん……」
寮に到着してすぐ春奈を見つけるや、古瀬はつばを飛ばさんばかりの勢いで春奈に力説する。春奈は春奈で驚きを通り越して、無言でポカーンとしたまま古瀬を見つめている。奥から現れたひかるが、その様子を見つけて慌てて春奈から古瀬を引き剥がした。
「ふっ古瀬先生! お気持ちは十分わかりますが、冴島が驚いて固まってしまってますっ!! 今から会議室にお通ししますから、先生、どうか落ち着いてくださいっ」
「そうは言ってもだね梁川くん、この状況はさすがにボクも落ち着いていられないぞ!? 今日は世界の古瀬の名に賭けて冴島くんを……」
「シーッ!!」
ひかるは、思わず人差し指を古瀬の前に突き立てた。周囲をキョロキョロと見渡すと、声を落として古瀬に告げる。
「先生、まだ部員たちにもこの話は伝えていないのです。まずは、春奈の話を聞いてはいただけないでしょうか……こちらへ」
古瀬はまだ何か言いたげだったが、ひかるの取りなしにしぶしぶ従い会議室へと歩いていった。
「どうしたんだろうね? あっ、春奈……」
怜名はエキサイトする古瀬を不思議そうに眺めていたが、階下の春奈と目が合った。春奈は、申し訳無さそうにぺこぺこと頭を提げると、そそくさと古瀬たちのあとを追って奥へと消えていった。
「……?」
会議室には春奈とひかる、古瀬のほかにも岩瀬もやって来て、緊迫した空気が漂う。沈黙に耐えきれなくなった春奈が、気まずそうに切り出した。
「すみません、わたしひとりのことでわざわざ来ていただいて……」
「さっきも言った通りだよ、冴島くん。きみは、日本陸上界にとって貴重な人材のひとりだ。……」
古瀬は、言葉が継げないのか歯がゆそうに頭を掻いた。興奮を鎮めるように、手元の扇子で顔を仰ぐとようやく口を開いた。
「どうして、引退という決断を選ぶんだ? 現に、きみには多くのチームからオファーも来ているはずだ。病気の件も、治療を経てじっくりと取り組めばいいというチームだってある……あえて引退を選ぶ理由は?」
春奈は、古瀬の話を黙って聞いていたが、理由を問われてひとつ深呼吸すると答えた。
「実は……」
ひかる、岩瀬の視線もこちらへ向くのがわかる。
「走ることが、怖くなってしまったんです」
「……」
古瀬たちは、無言で春奈を見つめている。春奈は、必死に言葉を続けようと口を開いた。
「ごめんなさい、こんなこと。でも、手術をして、最近ようやく走れるようになって気づいたんです……全力で走ろうとすると、また頭が痛くなるかもしれない、死んじゃうかもしれないと思って……身体が拒むんです」
「春奈……」
「去年の都大路で締め付けられるような痛みがして……あの時気づかなかったら、脳出血していたかもしれないっていう話を聞いてから……手術してから痛むことはないんですけど、いつかまた再発するかもって思うと、腕も足も振れなくなるんです」
そう言うと、左手を掲げて開いたり閉じたりを繰り返す。
「手の感覚も、前とは少し違っていて……たまに、動かしにくい時があったりします。これが、全力で走ることを続けていたら、以前のように足まで動かなくなるんじゃないかとか、夢にまで見るようになって……」
そこまで言うと、涙が溢れる。古瀬は、困り果てた表情で腕を組んだ。
「きみの気持ちも痛いほどわかる……実業団では難しいかもしれないが、大学なら治療やリハビリも含めて生活の面倒を見てくれるという学校もあるはずだ。なんなら、ボクから千代田の事務局に掛け合って、女子陸上部を創設したっていい」
古瀬は、出身の千代田大学のコーチを務めていたこともあり、事務局に対して強い権限を持っている。特権ともいえる厚遇を切り出した古瀬の言葉を聞いて、春奈は笑顔を浮かべたものの、涙を拭きながら首を横に振った。
「先生のお言葉は本当に嬉しいんですが……今でも3キロまでなら、なんとか行けるとは思います。でも」
「でも……?」
「これから駅伝、マラソンを目指すなら、3キロしか走れない選手ではいけないんじゃないかと思いました。それに――」
「ねえ……秋穂!」
「どうしたん?」
秋穂が訊ねると、怜名は不安そうな表情を浮かべる。
「ねえ、さっきのおじさんが来てたのって」
「おじさんって! ……オリンピックのメダリストじゃぞ、先生って呼ばんかい」
「それはどうでもいいけど……今日、あの人がわざわざ春奈に会いに来たのって……」
怜名はなにか勘づいたのか、小さくため息をついた。
「進路を決めました! どこそこの大学に行きます! なんていう話で、わざわざ元メダリストが会いに来るのかな……」
「あっ……怜名!」
秋穂もハッとすると、先程まで古瀬たちがいた吹き抜けを見下ろした。
「春奈、どうするんじゃ……」
「もし、わたしがお母さんより先に死んじゃうようなことがあれば、お母さんをひとりにしてしまうって……」
11月には珍しく、会議室には強い日差しが射しこんでいる。春奈は思わず目を細めると、言葉を続けた。
「父が亡くなってから、母は横浜でおばあちゃんと一緒に暮らしています。本当は、わたしも一緒に暮らしているはずでした。でも、秋田に来て、今は離れ離れです。おばあちゃんも病気がちで、いつまで元気でいられるかわからない。もし、わたしがお母さんよりも先に死んじゃうようなことがあったら……」
そんなことはない、という言葉を古瀬は必死に飲み込んだ。わずか1年前に難病の手術をしたばかりの少女に対して、その言葉はあまりに無責任だ。琴美のことを思い出し、再び春奈の目からは涙が溢れ出す。
「身体がそういう状態のまま、これからまた4年間お母さんと暮らせないのは……もう」
そこまで言うと、静かに両手で顔を覆った。古瀬は、岩瀬とひかるに訊ねた。
「おふたりは、どうお考えですか? これだけの才能を持った選手です。本人の気持ちも汲んであげたいが、才能をこのまま眠らせてしまうのも日本にとっての損失だ。なんとか、現役続行の道を敷いてあげられないものか」
ひかるは古瀬の言葉を目を瞑って聞いていたが、岩瀬と顔を見合わせるとひとつ頷いて口を開いた。
「先生のおっしゃる通り、春奈の才能は数十年に一度のものとわたしもそう思っています。できることなら続けてほしい、何か手立てはないかと、岩瀬もわたしも考えました」
春奈は、驚いたようにひかるの方を向く。ひかるは続ける。
「ですが、生徒が思い描いた夢があるなら、それを後押ししてあげることも、教育者としての務めなのではないかと」
「夢?」
不思議そうに訊ねる古瀬に、春奈はひかると笑顔でうなずくと答える。
「わたし、経営者になりたいんです」
線香の火を消すと、一筋の煙がすぅと立ち上る。仏壇には、こちらを向いて微笑む色黒の男性の遺影が飾られている。琴美は、鈴をひとつ鳴らすと静かに手を合わせた。明日は、夫――春奈の父、浩太郎の5度目の命日だ。
「もう、4年も前になっちゃった。わたしだけどんどん年をとっていって嫌になっちゃう」
そう言って、琴美はサイドボードに視線を移した。若き日の浩太郎が、ロッキー山脈を背景に幼い春奈を抱きかかえる写真だ。
「浩太郎くん、昨日春奈から電話があったんだ。春奈、高校で陸上は辞めることにしたって……」
帰国してすぐ、中学校から帰ってきた春奈が心配そうに、陸上部に入ることを決めたと告げてきた時のことを琴美は思い出していた。
「あの時は、運動なんてできないのにどうしようって迷ってたのにね。あっという間に、日本じゅうの人たちが名前を知ってる子になったよ。ビックリだよね」
琴美は、傍らに置いたアルバムを開いた。春奈が高校進学して以来、暇を見つけては足繁く大会に通い撮り溜めた写真が何枚も収められていた。ページを繰っていた手が止まり、入学式の日、怜名とともに桜の木の下で撮影した1枚が現れる。その写真の上に、ぽたぽたと涙がこぼれ落ちた。
「春奈、ずっと寂しかったって……そうだよね……浩太郎くんもいなくなって、わたしと母さんとも離れて暮らして……大きな病気もして……わたしがあの時、秋田に行かせるのを後押ししたのは、間違いだったんじゃないかってずっと思ってたんだ。でもね――」
「秋田学院に来て、陸上をやれて、本当によかったと思ってるんです」
春奈は、もう涙を流してはいなかった。
「寂しいことやつらいこともありましたけど、大切な仲間や先生たちと出会えて、大事な思い出もたくさんできました。日本に帰ってきたばかりで社会のこともよく分かってなかったですけど、色々なことを勉強して、もっと社会のことを詳しく知って、何か恩返しをしたいなって」
「恩返し?」
古瀬が訊ねると、待ってましたとばかりに答える。
「駅伝って、まだまだたくさんの人に知ってもらえるスポーツだと思っていて。今は、大清水みゆきさんや佐野史織さんがPRの活動をしてくださってますけど、もっと魅力を知ってもらって、興味を持ってくれる人が増えたらいいなって!」
ひかるたちは、笑顔で春奈の言葉に頷いている。
「競技は引退しても、ビジネスから競技に貢献することもできるんじゃないかって。お父さんは、亡くなる前は日本と海外の貿易を橋渡ししていたんです。すぐには敵わないと思いますけど、経験を積んでわたしも経営者になるために頑張ろうって」
「なるほどなるほど! それで、具体的にはどんなビジネスが?」
俄然前のめりになった古瀬に、思わず苦笑いを浮かべる。
「今は、まだ全然……でも、わたしが色々な人と出会えたのも、たくさんの経験ができたのも駅伝のお陰なので……だから、時間はかかっちゃうかもしれないですけど、古瀬先生、岩瀬先生、ひかるさんにもいつか恩返しできるようにできればなって」
ここまで黙って聞いていた岩瀬が、古瀬に問いかけた。
「先生が思い描かれていた形とは、少し違うのかもしれません。でも、冴島くんは競技を通してこんなに立派な夢を描けるようになりました。競技者としての関わりはなくなってしまうかもしれませんが、夢を見つけられたのなら、我々教育者は全力でその夢をサポートしてあげたいと……どうでしょう?」
まだ古瀬は諦めきれない様子だったが、岩瀬の言葉に深く頷いた。
「何度も言うが、冴島くん、きみは可能性だ。もし、また競技をしたくなったなら、いつでもボクに連絡してくるといい。でも、追う夢ができたことはかけがえのない財産だ。ボクでよければ何でも協力する。……最後のレースは?」
「まだ走れるかわかりませんが……、都大路に出れるのであれば、それが最後になると思います」
そう言うと、ブレザーにしまっていた手紙を開いた。
「入院していた時に、多くの方々から応援のお手紙をいただいて。こんなに小さい子も一緒に入院していたんですが、ついこの前退院できたって……絶対に都大路で走って、病気から戻ってこれたことを伝えられたらいいなって思います」
古瀬が帰った後、春奈の引退はひかるの口から部員たちに伝えられた。
「春奈……!」
秋穂は、思わず口を押さえた。怜名は、無言で春奈の胸に飛び込んできた。
「怜名……」
「もっと早くから相談してくれたら……よかったのに……グスッ、でも、春奈のことだから……きっと……」
その後は、続かなかった。怜名の頭を撫でると、春奈も涙が溢れる。
「みんなも進路のことで大変なのに……わたしのことで相談なんかしたら迷惑かかると思って……」
「春奈のバカ……! 全然困んないよ! もっと、春奈のこと受け止めて、相談に乗ってあげたかったよ」
「ごめん……」
その他の部員たちも、一様に神妙な表情を浮かべるか、涙を流している部員もいる。中でも、やはりこの人のショックは相当なもののようだっった。
「冴島ぜんぱあいいい……」
「ま、真輝ちゃん!?」
「冴島ぜんぱいが競技やめぢゃうなんで…がなじいでず……もっど……もっど……冴島ぜんぱいどおはなじじで、いっぢょにはじっていだがっだでず……ううううううぁ」
真輝の頭を撫でながら、ふと顔をあげるとひかるの姿が目に入った。ひかるは、窓の方を向いて涙を拭っているように見えた。
「ひかるさん……うわっ!」
春奈が呼ぶと、ひかるは春奈のことを抱きしめて小声で言った。
「バカ、教師が泣いてるところを見るんじゃない……」
「ご、ごめんなさい……」
春奈が思わず頭を下げると、ひかるは再び声を張り上げた。
「わたしも、本当に残念だよ。でも、春奈が決めた未来だから、わたしはそれを全力で応援しようと思う。それに、レースはまだある。オーダーはどうなるかはまだこれからだけど、都大路に連れて行くことはできた。春奈と一緒に優勝しようじゃないか!」
「「……はい!」」
涙まじりながら、部員たちは力強く頷いた。春奈もこみあげそうな涙をこらえ、部員たちに力強く言い切った。
「去年悔しかったことは、今でも忘れてません。それに今年は、全然走れなくてみんなに迷惑をかけてしまいました。でも、今度こそ全員で、全力で挑戦して優勝したい。あと少ししか時間はないけど――」
そこまで言うと、決意したように叫んだ。
「絶対に、このチームで優勝しよう!」
<To be continued.>




