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#137 覚悟と涙

 競技場で待つひかるは、寒さに思わずタートルネックをずり上げた。競技場のビジョンには、先頭争いを繰り広げるふたり――Aチームの穂乃香、そしてBチームの由理が抜きつ抜かれつを繰り返しながら進んでゆく様子が映し出されている。ふと日が翳り、ひかるはサングラスを外した。


『2位を走る大曲国際情報とは、第4中継所の時点ですでに1分半の差があります。このままのペースで進めば、アンカーには今年大躍進を遂げた3年生の高島秋穂が待ち構えています。現時点では秋田学院が限りなく優勢といえる状況ですが……』


 中継は、第4中継所で談笑しているふたりの姿を映し出す。


『注目はなんといってもこのふたりでしょう。オープン参加の秋田学院Bチームには、アンカーにエース冴島春奈が控えています。復帰後初の公式レースとなりますが、この後の展開次第ではBチームが先着するという事態も考えられます。同じ学校同士が先頭を争うという、なんとも珍しい展開となっています、秋田県高校駅伝。まもなく、第4中継所でのタスキリレーが行われようとしています!』


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」


 じりじりとペースを上げていく穂乃香の背中が遠ざかり始める。追う由理は息が上がり始め、腕も徐々に開き始めた。中継所まではあと500メートルを切った。だが、前方にその人影はまだ見えてこない。苦しげな表情を隠さずに、由理は歯を食いしばった。


(春奈先輩に……少しでも有利な位置でタスキを渡したい!)




『3区の区間順位の集計が出ました。参考記録ですが、秋田学院Bの三本木が区間賞相当のタイムで走り終えています。初の駅伝出場ながら、三本木見事な走りで4区の橋本にタスキを繋ぎました……』


「涼子やったね!」


 春奈が微笑むと、秋穂も大きく頷いた。ガウンを脱ぐと、吹きすさぶ北風に思わず身体がすくむ。視線の向こうから、中継車と白バイの姿が少しずつ現れるのを見て春奈はゴクリと喉を鳴らした。


(そろそろ……!)


 そう思ったと同時に、大きく両肩をぐるぐると回した。気づかないうちに、緊張ゆえか身体がこわばっている。空を見上げて、大きく胸を開くと深呼吸を繰り返す。


「春奈、そろそろ来るよ」


 秋穂の呼びかけに頷くと、リレーゾーンへと歩みを進める。やってくる由理たちの姿を見つめながら、静かにつぶやく。


「秋穂ちゃん、絶対に全国優勝しようね」


 その言葉に一瞬秋穂は目を見開いたが、すぐに頷き答えた。


「もちろんじゃ。そのためにベストを尽くそう、じゃろ?」




『中継所にふたりが並ぶようにしてふたりのランナーが近づいてきます。わずかに前に出たのは秋田学院Aの松山か! 待ち構えるアンカー高島が大きく手を振ります。トップで秋田学院A、そのすぐ後に秋田学院Bがやって来ます。橋本由理から、エース冴島春奈に今タスキが渡る! その差わずかに3秒! 残る5キロ、勝負は全く分かりません! 冴島が先頭の高島を猛スピードで追っていきます!』


 すぐに秋穂に追いつくと、かわすことはせずにその背中にぴったりとつく。その様子をビジョンごしに見つめていたひかるの表情が、少し不穏なものに変わる。


(春奈……!)


『冴島は高島に並ばず、そのすぐ背後についています。荻野さん、これまでの走りと比べて何か変化はあるでしょうか?』


 好美は、小さく首をかしげた。


『慎重を期しているのか、やはりこれまでと比べると落ち着いた入りのように思いますね。長い距離にも対応できる選手なので序盤から飛ばしていく展開を予想していましたが、まずは高島選手についていき後半スパート、という戦略かもしれません』


 秋穂は、春奈の気配には気づいているはずだが一向に振り向くことはない。春奈の脳裏に、入学してすぐの光景が蘇る。


――あんた、冴島春奈じゃろ? ウチは秋穂。高島秋穂。よろしゅう――


 そう言って、ニヤリと笑みを浮かべたのが記憶する限り初めての秋穂との会話だった。目の前に見える背中は、黙々とペースを刻んでいる。


(もし並んだら、秋穂ちゃんはどんな顔を見せるんだろう)


 春奈は、一瞬脳裏によぎったその気持ちを振り払うように首を横に振った。この5キロの間だけは、少なくとも私情を優先するわけにはいかない。


(だって、勝ちたいから)


 秋穂もそれを分かっているはずだ、と春奈は信じた。リレーゾーンでかわした言葉に嘘はない。だからこそ、と前をゆく背中をじっと見つめる。


『1キロの入りは3分10(とお)秒とやや速いペースで進んでいます。ここまで冴島、先頭の高島のすぐ後ろについてレースを進めています』




 寮へ戻った部員たちは、多目的ホールのテレビの前にかじりついて戦況を見守っている。


「春奈、秋穂……どっちも頑張れ!」


「どうなるんでしょう、ここから……」


 様々な声があがる中、部屋子の英玲奈は後方からじっとテレビを見つめていた。


「どうしたの、エレナ? 前の方行かなくていいの?」


 エミーが訊ねると、腕を抱えたまま英玲奈は首を振って不安げな表情を見せた。


「自分は……ここでいいんです。先輩のことが心配で」


「春奈ちゃんのこと?」


 英玲奈は頷くと、深くため息をついた。


「先輩、ここ何日か、夜になるとずっと泣いていて」


「……」


「自分よりもみんなのことを大事にする先輩だから、みんなの前では絶対に見せないっすけど……レースのこと、不安だったんじゃないかって」


 英玲奈がテレビの方へ視線を戻そうと顔を向けた瞬間、実況が叫ぶ。


『5区も中間地点の2.5キロを過ぎ、先頭の秋田学院A高島をBチームの冴島がピッタリ追う展開が続いています。高島は落ち着いた表情を見せていますが、冴島、額に汗が浮かんでいるでしょうか……先程と比べ、やや表情が険しくなったようにも見えます』


 英玲奈は思わずエミーと顔を見合わせると、より表情を曇らせた。




 ひかると同じように、みるほ、舞里奈、あおばのマネージャー陣も無言のまま厳しい表情でビジョンを見つめている。画面左上の距離表示が進むごとに、春奈の表情から余裕が失われていくのがわかるようだ。


「春奈ちゃん……なんとか」


 みるほが呟いたその瞬間、会場に実況の声が響く。


『3キロ手前で高島がペースを上げます! 先頭の秋田学院A、3年生の高島がここでペースアップ! すぐ後ろの秋田学院B冴島も追いかけますが……、少し差が開いたでしょうか…‥?』


 好美が、心配そうに声を漏らす。


『レース前に梁川監督にお話を伺ったところ、先日行った学内選考の際も長い距離に不安が残るということで、冴島選手は今回Bチームでの参加になったとおっしゃっていたのですが……まだ体力的に戻りきっていないのかもしれません、心配ですね』


 ペースを上げても、秋穂は一切振り向かない。沿道に「残り2キロ」の表示が見える。開いたとはいえ、僅かな差であれば埋められるという自信は持っていた。


(身体が……)


 もどかしそうに、腕を強く振る。だが、身体は意図するように軽やかには進んでくれない。奥歯にぐっと力を込める。


(前に……行けっ!!)


『ここで冴島もペースが上がります! しかし、表情は非常に苦しそうです! 前を行く高島との差は5秒ほどに開きましたが、今また高島のすぐ後ろに付きました。ですが、横に出て追い抜くまでには至りません。残り2キロあまり、ここから冴島のスパートなるか、それとも高島が冴島を再び引き離すか――』




「マリーナ、この前の選考会の時の春奈のラップ、どうだったんだっけ」


 ひかるが訊ねると、舞里奈は手元のノートパソコンを開いて表情を曇らせた。


「前半3キロが9分47なので、だいたい3分16ペースで来ていました。ただ、後半のタイムは3分14、3分09、3分11……ですね」


「うーむ……」


 再びサングラスを掛けると、ひかるは眉をひそめた。


「ここから押して行けるかだね……春奈」




 撤収が始まろうとしている中継所の片隅で、怜名は愛とふたりで携帯電話に映し出された中継を固唾をのんで見守っていたが、電波の状況がよくないのか、画面が幾度となく固まる。


「ああっ、もう!」


 しびれを切らした怜名は、そのまま携帯電話のメモリを開き電話を掲げた。しばらくすると、寮に戻っている瞳が電話に出る。


「春奈たち、今どんな感じかな? 電波の状況が悪くて、ワンセグ全然見れなくてさ……」


「あと1キロぐらい。今、ほーちゃんがスパートしたよ! 春奈は……」


 瞳から様子を聞いた怜名は、いっそうその表情を険しくした。


(春奈……春奈!)




『ここ八橋陸上競技場に最初に戻ってきたのは、秋田学院Aチームです! アンカーの高島秋穂、実に危なげない走りで優勝、都大路行きの切符を確実なものとしました! あと200メートル、表情を変えることなく淡々と走っています――』


 最終コーナーに差し掛かっても、秋穂の表情は一切変わらない。スタンドにひかるたちの姿を認めると、ようやく右手をさっと上げて答えた。


『秋田学院A、今ゴールイン! 13年連続14度目の全国女子高校駅伝出場を決めました。さぁ、そしてここでオープン参加の秋田学院B、アンカーの冴島がようやく競技場へ戻ってきました! 足取りはしっかりしていますが、表情は非常に険しい……』


「春奈!」


 春奈の姿を見つけた秋穂が、ハッとした表情で春奈の方を向くと声を張り上げた。春奈は、秋穂の声に二度頷くと足を叩いた。思い通りに動かない歯がゆさを抱えたままの表情でバックストレートを進んでゆく。


『闘病から明けて初のレースとなった冴島、オープン参加のBチームアンカーとしてこの5区を走りましたが、途中から高島との差が開く結果となりました――今ゴールイン。着順は2位相当、大健闘の順位ではありますがとにもかくにも、冴島の状態が気になる所です』


「……春奈!」


 秋穂は、走り終えた春奈に駆け寄るとガウンを着せた。春奈は、荒い息遣いがおさまらずに肩で息をしている。


「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ」


 秋穂が覗き込むと、申し訳なさそうに春奈は小さく頷いた。顔には汗が浮かび、走り終えた身体は小刻みに震えている。


「とりあえず、ひかるさんたちと合流しよか」


 秋穂は、春奈の小さな背中をさすった。その手にまで震えを感じて、秋穂は思わず顔を覗き込む。


「……ごめん、秋穂ちゃん」


 そうつぶやくと、春奈は力なくできる限りの笑顔を作ってみせた。




 その日の夜は、エミーの計らいで部員たちには優勝祝いと決起会を兼ねた料理がふるまわれ、部員たちはホールでつかの間の休息を楽しんでいた。顧問の岩瀬たちの話が終わり部員たちが語らう中、春奈はひかるに何事か告げると寮の奥にあるミーティングルームの扉を開いた。


「ご苦労さまだったね。今の体調はどう?」


 ひかるが訊ねると、春奈は首を振った。


「体調は大丈夫です。とくに痛いようなところも無かったですし……」


 春奈の言葉を聞いて、ひかるは頷いて手元の水を飲んだ。


「よかった。それで、今はどんな話かな?」


 全国高校駅伝への出場を決めて、ひかるはわずかながら安堵したように見えた。その表情を見て、春奈は申し訳無さそうに、ゆっくりと口を開いた。


「こんな時に申し訳ないんですが……、この前から進路のこと、お母さんだけじゃなく、色々な人に相談していて」


 ひかるは、いつものようにじっと春奈を見つめながら頷いている。


「今日走って……だからって、その結果で決めたわけじゃないんですけど、どうするか決めて、さっきお母さんとも電話で話しました」


 しばし無言の時が流れる。ひかるは、意を決したように口を開く。


「わかった。どうすることに決めたのか、教えてくれるかな」


 決めた、と言いつつ、いざ口にしようとすると躊躇するのが自分でもわかり、一瞬気まずそうに口をつぐんだ。しかし、覚悟したように小さく頷くと、ひかるの方へ向き直り笑顔を浮かべた。




「陸上は、やっぱり高校で最後にします。都大路が終わったら、一般で地元の大学を受けることに決めました」




「春奈……キミは……」


 ひかるが思わず口を開くと、春奈は笑顔を作ったまま、しかし大粒の涙をこぼした。



<To be continued.>

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