#131 思いはひとつ
秋穂は、手足の先まで力がみなぎるのを感じた。一歩一歩が地面をしっかりと捉え、勢いよく蹴り出すように進んでゆく。すぐ横を走っていたアグネスがじりじりと後ろへと下がるのがわかる。コーナーの大きなふくらみを抜けると、今度は視界に鮮やかなブルーとイエローのユニフォームが飛び込んできた。
(……シラ! 今日ばかりは負けんよ!)
かつて、ホームストレートの鍔迫り合いを制したのはシラだった。しかし、今度ばかりは負けられないと、両の拳に込めた力がさらに強くなる。
『バックストレートに入り今度は酒田国際のカマシが高島に迫ります! ですがどうでしょう、高島の足取りには力強さがあります! 追いすがるカマシとの差が徐々に開きます!』
スタンドで見守る春奈たちは、固唾を呑んでじっと秋穂を見守っている。そして、秋穂を追う留学生ふたりの後ろを走るさくらは、遠ざかる臙脂のユニフォームを見て、思わず食いしばった歯をむき出しにして悔しそうな表情を見せた。
(速か! ……去年ん夏よりもっと速う、強うなっちょっなんて!)
昨年の夏に合同合宿を行った時点では、先行こそすれ後れをとったことのない相手が、大きく先行している。速さ以上の強さを感じ取り、さくらは悔しさを隠せなかった。
『高島が最後のコーナーに入ります! すでにカマシとは2メートルほどの差があるでしょうか。このふたり、いずれもラストスパートに強みを持つ選手です。今はわずかに高島がリードしていますが、まだ勝負は分かりません! カマシにも逆転のチャンスは十分にあります!』
実況のボルテージがあがるほど、春奈は組んだ両手の力が強くなるのを感じた。練習と距離は嘘はつかない、と確かに自分で言った。しかし、過去に秋穂がラストの勝負に敗れてがっくりとうなだれる姿を思い出し、春奈は思わずぶるぶると首を横に振った。
(信じよう! ……秋穂ちゃんを!)
その思いが通じたか。秋穂が一瞬スタンドの方を見上げ、こちらに向かって確かにニヤリと笑みを浮かべたのを春奈は見逃さなかった。競技場がざわめき、実況はさらに声高に叫ぶ。
『最後100メートルの勝負、先に高島が仕掛けます! 最終コーナーを抜け出しぐんぐんと加速する! カマシも追うが高島が速い! ストレートに入り高島が躍動している! 残り30メートル! 秋田学院の高島が先頭! 追うカマシは届かない! 高島が先頭! 高島が先頭! 今一気にゴールイン! 女子3000m決勝、初優勝を飾ったのは秋田学院の高島秋穂です! クールな高島が今大きくガッツポーズ、喜びを爆発させています!』
「やったぁ!!」
春奈は立ち上がりひかるとハイタッチを交わすと、秋穂に向かって大きく手を振った。
「秋穂ちゃん、やったね! おめでとう! 秋穂ちゃん、すごいよ!」
春奈の声が届いたか、秋穂は何度も何度もガッツポーズを繰り返した。すると、膝に手をついてうなだれているシラに駆け寄り声を掛けると、9位となり惜しくも入賞を逃した真輝の元にも、ゴール後すぐに向かうと肩を抱き寄せた。
「……、あれ!」
春奈は、思わず驚いてひかるの方を向いた。ひかるは、しみじみと呟いた。
「あれが、今年の秋穂の成長だよ。去年だったら、自分の結果だけで精一杯だったと思うんだ。今回は優勝という結果のおかげでもあると思うけど、チームメイトだけじゃなくて、ライバルのことを思いやることまで出来ている……春奈」
「はい?」
「普段、秋穂は自分の気持ちをそんなに口に出したりするほうじゃないから分からないけど……きっと、キミが戻ってくるまで自分が引っ張ろうと……秋穂なりに頑張ったんじゃないかな」
そう言って秋穂を見つめるひかるの目は、心做しか潤んでいるように見えた。春奈も、思わず胸が一杯になり、ひと言だけ発した。
「……はい!」
周囲を緑に囲まれた福島県営あづま陸上競技場には、こびりつくような熱風に乗って蝉の声が響く。伸びた後ろ髪をぐっと結ぶと、タオルで首筋の汗を拭う。タオルを舞里奈に渡すと、怜名はその場でピョンピョンと二度飛び跳ねた。
「よっし!」
その眼光は、いつになく鋭い。今回は、国体の東北ブロック大会だ。高校生だけではなく大学生、実業団も含めたレースとなる。3000メートル障害走。怜名には、このレースに集中しなくてはいけない理由がふたつあった。ひとつは、以前交わしたひかるとの約束。
(――目標は上方修正。3000メートル障害で全国優勝。オーケー?)
「や、全国優勝とか……」
怜名は思わず苦笑した。全国ともなれば大学、実業団の猛者揃いだ。そもそもの持ちタイムが全然違う相手との勝負はあまりに分が悪い。だが、東北ブロックなら――
(行けるかな……ううん、行く! せめて、ここは優勝して全国に行きたい!)
そう反芻して、スタートラインに並ぶライバルたちを見やる。すると、見知った顔を見つけて怜名は駆け寄った。
「淳子先輩! お久しぶりです!」
「怜名! 元気してた? ずいぶん大人っぽくなったんじゃね?」
「えっ、そっそうですか!? なんか恥ずかしい……」
思わず、顔を赤らめる。このレースには、秋田学院を卒業後、青森にある津軽明邦大学の女子陸上部創部メンバーとなり、2年生ながらチームのキャプテンを務める川野淳子もエントリーされていた。
「本当、タイム伸びたよね! ひかるさんからのあかり経由で話は色々聞いてるよ。わたしも今日は怜名に挑戦する立場だからさ。今日はよろしくね」
色々な感情がこみ上げ、すでに紅潮していた顔がより真っ赤に染まる。パタパタと手で仰ぐ真似をすると、怜名は微笑んで頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします! 淳子先輩と久しぶりに走れるの、楽しみです」
パァン!
選手たちが一斉に駆け出す。最初の障害を飛び越え、多くの選手が高く飛び上がる中、低い姿勢を保ったまま怜名が頭一つ抜け出す。体格で劣る怜名はストライドの面では不利だが、ボディバランスの良さを活かして障害をひとつひとつクリアしていく。
「マリーナ、大丈夫?」
ひかるが声をかけると、舞里奈は左手でOKサインを掲げた。舞里奈は、手元のビデオカメラで怜名の姿をじっと追いかけている。
「ぐっ」
着水した瞬間水しぶきが飛び、淳子は思わず顔をしかめた。ところが、怜名はそれを気にするそぶりもなく、軽やかに前へと進んでいく。
(……速いな! あかりから聞いてたけど、怜名、去年の都大路の時よりもスピードが上がってる……)
怜名と淳子の間には、すでに数人の選手がいる。それどころか怜名はするりするりと先頭へと進み出て、軽快なペースで飛ばしているではないか。
(これは反省だね。余裕かましてる暇はなかった)
淳子は、ペースを上げて先頭の怜名を追う。
カラン、カラン、カラン……
残り1周を告げる鐘が鳴る。ここまで先頭の怜名のすぐ後ろについていた実業団の選手と淳子が、鐘を合図に怜名をかわして前に出る。コーナーに入ってすぐの障害を淳子たちが超えるが、怜名はそこへ無理に割って入ろうとはしない。
(……追ってこない?)
淳子は首をかしげた。ところが、着水したその瞬間に後ろから再び怜名がかわす。水濠を抜けようとするその一瞬で怜名は飛び出し、ぐんとスピードを上げたのが分かる。
「速い!」
思わず口に出るほど、怜名のスピードは増している。怜名がこれまで障害走のトレーニングを地道に積んできたことが淳子には見て取れるようだった。
(同じ失敗を繰り返すなんて……ありえないんだから!)
怜名の脳裏には、昨年の大会の苦い思い出がフラッシュバックしていた。勝負を焦り、他の選手たちが障害を飛び越えるタイミングに重なった結果バランスを崩し、水濠に倒れ込んで大きくタイムロスをしたことを忘れてはいなかった。それに――
(淳子先輩、スピードだって、練習してなかったわけじゃないんですからね……!)
「行った!」
ひかるが叫ぶ。もはや、春奈のルーティーンすら体得していた。スパートする直前に、両手を二度三度と開いては閉じる。力強く握りしめた拳を大きく振ってバックストレートを駆け抜けると、その小柄な体躯が最後の障害を華麗に飛び越えてゆく。
「怜名先輩! ラスト100ファイトです!」
録画していることを忘れて叫ぶほど、舞里奈も興奮していた。最後の力を振り絞りホームストレートを駆け抜けると、ゴールラインを超えたのを確かめて右腕を高く突き上げた。
「「やった!」」
怜名とひかるは、ほぼ同時に叫んだ。後からゴールした淳子はすぐさま怜名に駆け寄ると、その頭をくしゃくしゃと撫でて抱きしめた。
「すごいじゃん、怜名! おめでとう」
「へへへ、ありがとうございます! 嬉しいです!」
エメラルドグリーンのユニフォーム姿の淳子は、怜名をしげしげと見つめると感慨深そうにつぶやいた。
「入学した頃は、今より全然頼りなかったのにね……本当に、強くなったよ。これなら、上のレベルでも十分にやっていけると思うよ」
「えへへ……」
怜名は思わず舌をちろっと出すと、頬を赤らめて照れ笑いを浮かべた。
「ひかるさん、録画オーケーです! スタート前からゴール後まで、しっかり撮っておきました」
「さすが敏腕マネージャー。頼りになるね」
ひかるはニヤリと笑みを浮かべた。プレビュー画面を覗き込むと、満足そうに頷いてカメラを舞里奈に渡した。
「映像はこれでオッケー。あとは、これまでのタイムの推移とかを資料にまとめよう。これなら、石川先生にもきっと怜名の実力が伝わると思う」
<To be continued.>




